今週は受難週。受難週初日となる本日の礼拝は、キリストが成し遂げてくださった十字架のみわざを通して、「新しい契約」(8節)が成就したことに思いを潜めよう。

このヘブル人への手紙は、キリストの偉大さ、卓越性ということを強調している。今日の箇所も同じである。6節では「さらにすぐれた」ということばが三回も登場している。この章で著者が伝えたいことは、キリストは「さらにすぐれた契約の仲介者」であるということである。さらにすぐれた契約とは、キリストが十字架上で成し遂げた完全な贖いの契約のことである。この契約は新しい契約として、預言者エレミヤを通して旧約時代に預言されていた(8~12節)。

神さまは契約ということを通して、私たち人間を祝福されようとした。旧約聖書から、ノア契約、アブラハム契約、モーセのシナイ契約などを見ることができる。代表的なものは、シナイの荒野で結んだ契約であるが、それが7節で「初めの契約」と言われている。これは新しい契約と比較すれば古いので「古い契約」とも言われる(13節)。この古い契約を「旧約」と呼んでいるわけである。

神さまはイスラエルの民を、エジプトから救ったとき、シナイの荒野において、モーセを仲介者として、イスラエルの民と契約を結んだ。「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト19章5,6節)。この後、あの有名な十戒、その他の律法が授けられる(出エジプト20章~)。ところが、民たちはどうなっただろうか。ご存じのように、心をかたくなにし、耳を傾けず、逆らい続けた。神は彼らを立ち返らせようと、預言者たちを度々遣わし、契約を守り、律法に従うように働きかけた。それでもだめだった。それが顕著であるのが預言者エレミヤの時代であった。エレミヤは「主はこう言われる」と、神からの警告のことばを語った。民たちはそのエレミヤを殺そうとしたり、牢に入れることまでして、神のことばを踏みにじった。こうして神に逆らい続けるイスラエルの民は神の裁きに会い、国家は敵国によって壊滅し、捕囚の憂き目に遭う。捕虜となってバビロンの国に連行される。国に残された民の一部は、エジプトに逃亡する。彼らはエレミヤにこう告げる。「あなたが主の御名によって私たちに語ったことばに従うわけにはいかない。私たちは、私たちの口から出たことばをみな必ず行って、私たちも、先祖たちも、私たちの王たちも、首長たちも、ユダの町々やエルサレムのちまたで行っていたように、天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたい。私たちはその時、パンに飽きたり、しあわせでわざわい会わなかったから。私たちが天の女王にいけにえをささげ、それにそそぎのぶどう酒を注ぐのをやめた時から、私たちは万事に不足し、剣とききんに滅ぼされた」(エレミヤ44章16~18節)。彼らの分析、言い分は、自分たちの偶像崇拝が足りなかったから、災いをこうむったのだということ。天の女王に対する献身が足りなかったから、こんな不幸な目に遭っているのだということ。「天の女王」とは何かということについて諸説あるが、女神崇拝、天体崇拝のたぐいであることには間違いない(比較~アマテラスオオミカミ)。彼らはエレミヤが告げたように、神との契約を破ってしまったから裁きに会ったのだという不従順を、素直に認めようとはしない。なおも、偶像の神々から幸せをもらおうとしている。

神は契約を破られても、なお、あわれみ深い。なお、救いの手を差し伸べようとされる。「初めの契約」を無視し、悲惨な目に会っても懲りることなく、なお神に逆らい続けている現状のさなかにあって、神はエレミヤに「新しい契約」の預言を与えられた。8~12節のことばは、エレミヤ書31章31~34節の記述である。そこで、示された契約は、「あなたがたは契約を守れなかったから、再度同じ契約を結ぼう。もう一回チャンスを与えよう」という同じ性質の契約ではない。「新しい契約」とは、「初めの契約」よりもすぐれている契約である。それは究極の契約である。どのようにすぐれているのか、エレミヤに与えられたことばから、三つのことに絞って見てみよう。

第一に、戒めを守る新しい心が与えられるということ(10節)。「彼らの心に書きつける」とあるが、初めの契約は石の板に記された。それを守りなさいということであったが、残念ながら心には届かなかった。だが新しい契約は直接心に書きつけられる。もう、それは心に刻まれてしまう。それは字面が心に刻まれるというのではなくて、言うなれば、戒めを守る新しい心になってしまうということ。心の刷新である。契約を信じる者の心を内側から変えてしまうというものである。エゼキエルもこのことについて預言している。開いてみよう。「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心(やわらかい心)を与える。それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(エゼキエル11章19,20節)。

元来、私たちの生まれながらの心は硬くて、戒めを記憶しても、それをそらんじることができても、実行する力がない。何が正しく何をしなければわかっていたとしても、それを実行する力がない。堅くこわばってしまっている。パウロもローマ7章で、私は善をしたいというと願いがいつもあるのに、かえってしたくない悪を行ってしまっているという心の葛藤を述べている。そして続く8章に進み、私たちの心を、神の御霊、聖霊に向けさせている。それがエゼキエルが述べる「新しい霊」のことである。キリストを罪からの救い主として信じるときに、聖霊が与えられ、聖霊は私たちに新しい性質、新しい心を授ける。「新しい契約は、この新しい心を授ける故、新しいものなのである」(F.F.ブルース)。私たちはキリストを信じて生まれ変わった。聖霊が与えられ、新しい心をいただいた。キリストにあわれみを求め、新しい霊の導きに従おうとするときに、新しい心が発揮される。様々な罪の妄想、呪縛に打ち勝ち、悪魔に打ち勝ち、主に従う道を選び取ることができる。聖霊はキリストの御霊である。キリストの御霊は肉の思いと罪と悪魔に勝利する心を与えてくれる。新しい契約の恵みの一つは、この内側からの変化である。

初めの契約よりすぐれている第二の理由は、罪は全く忘れ去られる、ということである(12節)。「もはや、彼らの罪を思い出さないからである」とある。旧約時代の罪のためのいけにえ、ささげ物は罪を完全に取り除くことができない。だからいけにえはくり返しささげられてきた。それに対して、キリストを通しての贖いのみわざは一度で完全であった。それは「もはや、彼らの罪を思い出さない」というみわざである。キリストを信じるときに、すべての罪は赦さる。それらの罪は思い出されることはない。キリストを信じていながらも、一度、罪の告白をしておきながらも、まだ過去の罪に悩まされ、罪責感に縛られ、私の罪は赦されるのだろうかと不安にかられているなら、その人はまだ、初めの契約のもとで生きているのである。ある方は次のように述べている。「私たちが罪責感を下ろし、真の意味で赦しを見出すことのできる場所がただ一つあります。それは十字架につけられたキリストの背中です。イザヤ53章6節には、このように記されています。『私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かって行った。しかし主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた』。またペテロの手紙第一2章24節には、『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました』と記されています。私たちはこれ以上、罪責感と咎めを持ち続ける必要はありません。私たちが罪責感と赦されない自己を脱ぎ捨てるとき、罪責感という重荷を負った幼稚な状態から、成熟した自由と平和の状態へと導かれていくことができるのです」。十字架を仰いで、罪の赦しと平和を見出そう。

コーリー・テン・ブームのことばにも耳を傾けよう。「神が赦されるとき、神は忘れられる。神は私たちの罪を海の底に沈め、土手に『魚釣り禁止』という立札を立てられる」。「神は私たちの罪を海の底に沈め」というのは、もう二度と思い出さないということだが、これはミカ7章19節の「もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください」から来ていると思われる。「魚釣り禁止」というジョークもユニーク。「魚釣り」で何を意味しているかわかるだろうか?神さまが海の深みに沈めてくださった罪を釣り上げようとすることである。

祈りの時に、過去の失敗をいつも神に思い出させるようなことをする男性がいた。ある日、その日も同じようにし始めたころ、神があたかもささやきかけるようにして言われたというのである。「わが子よ。もうそれで十分だ。私にその罪を思い出させるのはやめてほしい。私はかなり前に、すでにそのことは忘れてしまった」。

新しい契約は、悔い改め、キリストを信じたその人を、あたかも一度も罪を犯さなかった者であるかのようにして、その人を神の前に立たせる。神はその人の罪を思い出さない。忘れてしまっている。

この新しい契約を保証する印は、キリストの流された血潮であることも覚えよう。キリストは十字架につく前の最後の晩餐の席で、杯を取りながら、「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです」(マタイ26章27節)と言われた。キリストの流された血が全き罪の赦しの保証である。

初めの契約よりすぐれている第三の理由は、「神を親しく知るように導く」ということである(11節)。「小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである」。これは、神との人格的交わりを妨げる罪がキリストによって取り除かれた結果であるとともに、また、先に見た、聖霊の働きである。聖霊はキリストの御霊である。聖霊をもつ者はキリストをもつ。キリストは聖霊を通して私たちともにいてくださり、また私たちのうちに住まわれ、ご自身を知らせる。キリストは神を説き明かす人となられた神である。キリストを知ることは神を知ることである。神を親しく知るとは、キリストを親しく知ることと言い換えることができるだろう。キリストを親しく知る、これが新しい契約の恵みの一つと言えよう。それはちょうど、石の板に人の顔とプロフィールが書いてあるのを見て、知ったというレベルではなくて、実際に心で交わってわかる、体感するというようなレベルである。

私たちが完全にキリストを知るのは、キリストの再臨の時である。最後に、第一ヨハネ3章2,3節を開こう。「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」。ここでは私たちの栄化とともに、キリストの再臨の時に、私たちがキリストのありのままの姿を見て、おぼろげながらではなく、キリストをはっきりと知るようになることが言われている。これが新しい契約の恵みである。

私たちは、今、キリストを知る過程の中におかれている。キリストは「御霊はわたしの栄光を現します」と言われた(ヨハネ16章14節)。キリストに心を向け、御霊の働きに与ろう。また先週学んだように、聖書の著者は神の御霊である。御霊はみことばとともに働く。聖書のみことばを通して、さらにキリストを深く知っていこう。

聖書は旧約聖書と新約聖書に分かれている。「旧約は新しい契約ではないから、旧約聖書は読まなくてもかまわない」とはならないでください。聖書の中心主題は「イエス・キリスト」である。それは旧約聖書も変わらない。キリストは、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです」(ヨハネ5章39節)と言われたことがある。ここでキリストが言われた聖書とは、旧約聖書のことである。旧約聖書にはやがて来られるキリストが預言や予表といったかたちで啓示されていて、またキリストの偉大さやキリストの愛といった特性が記されている。ヘブル人の手紙の受取人たちは、旧約聖書を読んでいたが、そこからキリストをしっかりと読み解くことがまだできないでいたという現実があった。著者は9章以降も、旧約聖書からキリストを説き明かすことに心を砕いていく。私たちもともに聖書を学び続け、新しい契約を成就してくださったキリストを知り続ける旅を楽しんでいこう。