冷える季節も終わりを告げようとしている。冷え症の人にはありがたい季節が目の前に。冷えには体の冷えとともに心の冷えがあるそうである。これは、心がこわばり機能低下している状態。体の筋肉がこわばってしまうように心もこわばる。喜怒哀楽など、本来の自分の感情を認めることができないことが一つの症状。ストレスで感情マヒに。防衛反応でそうなってしまったのだろうか。また、怒りや悲しみといった特定の感情に囚われてしまい、そこから抜け出せないというのも心の冷えの症状もある。ある人は優しいことばが心を温めると言っている。「挨拶は返ってこなくとも、『ありがとう』と口にするだけで、『ごくろうさま』と声をかけるだけで、実は大きな変化が起きています。相手に、ではありません。口にする本人の心の中にです。優しいことばは相手を温かくするだけでなく、口にする本人の心まで温かくしてくれるのです。」

ヘブル人の手紙の受取人たちはストレスを受けていた。著者は、彼らの心の緊張、疲れ、こわばり、冷えを思って、一番良い処方箋を授けようとしている。それはキリストに心を向け、キリストに信頼を寄せるということ。これが足りなかった。彼らは、キリストのことを正しく、深く、知っていなかった。結果、キリストへの信頼があるようでないような、中途半端であった。著者はこれまで、キリストを御使いよりもまさるお方として、モーセよりも偉大なお方として、そして偉大な大祭司として紹介してきた。今日の箇所では、キリストをメルキゼデクに等しい大祭司として紹介することによって、彼らの信仰の冷えが直り、キリスト信仰が生き生きとしてくることを願っている。

著者がどうしてメルキゼデクを取り上げるかというなら、メルキゼデクはキリストの型、予表だからである。メルキゼデク登場の物語は創世記14章にある。当時、王たちの戦いがあった。その戦いにソドムに住んでいたアブラハムのおいのロトが巻き込まれる。ロトはエラムの王ケドルラオメルの連合軍の捕虜となってしまう。エラムは今のイランの地域。アブラハムは甥のロトを救い出すためにケドルラオメル軍に立ち向かい、打ち破って、ロトとその財産を奪回する。この勝利の後、1節にあるように、サレムの王、メルキゼデクはアブラハムを出迎え、祝福した。彼は王であり、祭司であった。2節からわかるように、メルキゼデクを訳すと「義の王」となり、彼が治めていた地域サレムは「平和」という意味をもつことがわかる。サレムは位置的には後のエルサレムと思われる。キリストも義の王ありエルサレムに入城した王であり、平和の王である。キリストがエルサレム入城の際に乗られたろばは平和のシンボルである。

メルキゼデクの出生はベールに包まれているというよりも、特異としか言いようがない。「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっています」(3節)。なるほど、キリストの型と言われる人物にふさわしいと思わされる。4節では、メルキゼデクはアブラハムよりもすぐれて偉大な存在であることが言われている。アブラハムは後に祭司職に就くレビ部族の先祖でもある。そのアブラハムは、戦利品の十分の一をメルキゼデクに献上している。アブラハムは十分の一献金をした最初の信仰者とも言われているが、それを受けたのがメルキゼデクである。メルキゼデクはアブラハムよりも偉大なわけだが、メルキゼデクは当たり前ながらレビ部族ではない。キリストもレビ部族ではない。キリストは王を輩出する部族であるユダ部族である(14節)。モーセ律法によって最初に大祭司に就任したのはレビ人のアロンであり、アロンの家系が大祭司の職を担うことになった(11節)。けれども、キリストはアロンの家系ではない。キリストは世襲制によって大祭司となったのではない。

キリストはメルキゼデクと同じく王であると同時に、メルキゼデクと同じく、律法の規定によらずに、直接神によって任命を受けた特命の大祭司であるわけだが、著者は、この7章において、キリストが人間を越えた永遠に完全な大祭司であることを立証しようとしている。

そのことを見ていく前に、王であり大祭司ということを具体的に思い描いていただくために天皇を参考にしてみたい。古代は祭政一致で、天皇は王であり祭祀だった。戦中は神性を帯びた存在とされ、神として礼拝することが義務づけられた。戦後、憲法は改正され、主権は国民にあるとされ、天皇は国家、国民の象徴として位置づけられることに。天皇の祭祀職はどうなったのかというと、天皇は宮中祭祀の職務を続けておられる。宮中祭祀とは、天皇が国家と国民の安寧と繁栄を神々の前で祈る儀式。今も、王であり祭祀であるという天皇の基本的職務は変わってはいない。この天皇とメルキゼデク及びキリストを比較することができるだろう。

では、キリストの神的な面にフォーカスを当て、大祭司としてのキリストの特徴を五つに分けて見ていこう。

第一に、キリストは罪のない大祭司(26,27節)

キリストは「きよく、悪も汚れもなく」と言われているが、一点のしみもないお方。一般の大祭司は、大祭司と言えども罪人なので、自分の罪のために、また自分が罪を犯した度ごとに、自分のために傷のない雄牛をささげなければならなかった。けれども、キリストは自分の罪のために何かをする必要はない。罪はないので。

第二に、キリストは完全な贖いを成し遂げられた大祭司(27節)

キリストの場合、先に見たように罪がないので、ご自身のために罪のためのいけにえをささげる必要はない。キリストはただ私たちのために、罪のためのいけにえとしてきよいご自身を十字架の祭壇にささげ、贖いのみわざを成し遂げられた。その効力は、アロンの子らのそれと各段に違っている。地上の大祭司は罪が発生する度ごとに、毎日、毎年、いけにえをささげた。けれども、キリストは「ただ一度で」、すべての人の、そして、過去・現在・未来の、すべての罪の贖いを成し遂げられた。この贖いは完全だったので、もはや繰り返す必要はない。「ただ一度で・・・成し遂げられた」。

第三に、キリストは死からよみがえった大祭司(16節後半)

「朽ちることのない、いのちの力によって」は、キリストのよみがえりと、昇天を暗示している。歴史家ヨセフスの計算によると、アロンから紀元70年にエルサレムの神殿が破壊されるまで、計83人の大祭司がその職務に就いたという。それらのすべての大祭司が、死の前に屈し、その位に長くとどまることはできなかった(23節)。けれどもキリストは死からよみがえり、今も大祭司の職務を続けておられる。

第四に、キリストは天よりも高くされた大祭司(26節)

「天よりも高くされた」というのは、これ以上ない高さであることを表わす表現である。つまり位の高さということからすれば、全宇宙で最高位の地位。見える世界と見えない世界を含めて最高位に君臨しておられるということである。だから、キリストは、天においても地においても、すべての権威をもつ偉大なお方なのである。

第五に、キリストは永遠の大祭司(24節,17節,21節後半,)

キリストは永遠から永遠まで生きておられる。私は弱って死ぬ日が見えてきた、祭司職は間もなく辞する、ではない。キリストは天変地異があっても、今の地球の歴史が終わっても、永遠に存在し続け、私たちのためにとりなしの職務を続けられる。キリストはとこしえに祭司である。

以上見てきた、キリストの大祭司としての特性を思うときに、二つのことが言えるはずである。

一つは、キリストを信じる者は完全に永遠に救われるということ。「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」(25節)。「完全に救うことがおできになる」の「完全に」の原語<パンテレス>は、新約聖書に二回しか登場しないことばである。このことばは「完全に」と「永遠に」の両方のニュアンスをもつ珍しいことばである(欄外註 別訳「永遠」)。キリストの救いは完全であるということは、永遠の救いであるということである。この救いを保証してくれるのは、他の宗教に見当たらない。

参考までに、<パンテレス>を使用しているもう一箇所を開いてみよう。ルカ13章10~13節を開いてください。18年間、病の霊につかれていた女のいやしの記事である。どこに<パンテレス>が使用されているだろうか?実は11節の「全然伸ばすことができない」の「全然」である。このことばは<パンテレス>ということばに否定詞が付いたもの。それを酌むと、完全にだめ、もう全くだめ、治る見込みはゼロ、救いようがないという状態。18年の間、冒頭で述べた、心のこわばりではないけれども、骨も筋肉もこわばってしまって固まってしまっていた。しかし、彼女なりに、周囲も、いろいろと手を尽くしたはずである。でもなす術なし。絶望的な状態。こわばりは全く取れない。誰からも見限られていたはずである。けれども、キリストは、救いようがない、この完全にだめな彼女をいやした。この完全ないやしは、キリストは、救いようがなく完全にだめな、絶望的な状態にある人を、完全に救ってくださるお方であるということを表わしている。

キリストの大祭司としての特性を思うときに言えるもう一つのことは、キリストは全く信頼できるということ。ヘブル人の手紙の受取り人たちは、この点において怪しかった。キリストを信頼していないわけではないけれども、なんとなくあやふやな、かすんだ存在にしてしまっていた。キリストへの信頼が欠けると、ガリラヤ湖上において、波や風に気をとられ、キリストから目を離し、溺れかけたペテロのようになってしまう。ペテロは不信仰を叱責されることになる。ヘブル人への手紙の受取人たちは、自分たちとペテロを重ね合わさねばならないような状況に置かれていた。私たちはどうだろうか?自らのキリスト信仰を問い正そう。

また、「今まで手当り次第、多くの神々に願をかけてきたけれども、幸せではない」「家庭環境が大変で、自分の努力も限界に達し、すべてを終わりにしたい気持ちだ」「一時的に生活環境は良くなったようだけれども、根本的な空しさはいつも同じ」「死んだらどうなるのか、不安は解消しない」「いつも、同じ罪責感に悩まされている」「自分の心に働く悪の力に抗しきれないでいる」「心は十年以上もこわばったまま」「自分をコントロールできない」「永遠の救いを得たい」、そのような思いの中にある方はどなたであっても、イエス・キリストに心を開き、祈りのうちに、このお方の名前を呼んでいただきたいものである。そして完全な永遠の救いを受け取り、また具体的な必要な助けを受け取っていただきたい。キリストこそ、まことの救い主、信頼できる仲保者、私たちの希望である。

最後に、これまでヘブル人の手紙を学んできた方々には、キリストはあわれみ深い大祭司であるということも思い出していただきたい。思い出していただくために、ヘブル4章15,16節を最後に開いて読もう。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」。「恵みの御座」には、人として私たちと同じく肉そのものとなり、飢え渇き、疲れ、弱さを経験し、人として私たちと同じ誘惑を受け、人として私たちと同じ苦難を受け、いや誰も経験しえなかった苦難を忍び、そして罪の贖いを成し遂げ、勝利された生けるキリストが座しておられる。この恵みの御座に近づく習慣を身に着けよう。フォーカスを恵みの御座に座しておられるキリストに当てよう。そして助けを仰ごう。キリストは今も生きておられる私たちの大祭司である。キリストを過去の世界に閉じ込めてしまっている人たちがいる。キリストを福音書の世界にだけ閉じ込めてしまっている人たちがいる。キリストを地上世界にのみ閉じ込めてしまっている人たちがいる。今、キリストはどこにおられるとヘブル人の手紙は教えているだろうか。今も生きておられ、全天全地を支配し、恵みの御座に座しておられるキリストに対して、日々、生きた信仰を働かせよう。