約束、希望、それは未来に属する事がらである。このことについて見ていく前に、過去に目をやってみよう。以前、宮本武蔵に関する番組を見たことがある。彼は戦国時代と江戸時代という二つの時代を生きた剣術家として有名。彼は貧しい武家の家で生まれ、養子に出されて、剣豪として知られていた新免氏という剣術家を養父として育つ。13歳で初勝利を挙げ、その後、剣術をみがく旅に出る。彼は新免という姓を名乗ることを嫌い、宮本村出身であったため、宮本武蔵と名乗るようになる。彼は生涯で60戦無敗を誇った。佐々木小次郎との巌流島での決闘が有名。江戸時代になると、戦乱の世は終わり、平和な時代が訪れる。彼は、庭造り、茶道、能、水墨画と様々な芸術にも親しむ。体調の不良を覚えるようになって、60歳を迎えた時に、熊本の洞窟にこもって、あの有名な五輪の書をしたためる。兵法を中心に書いたものであるが、これがいわば、彼のエンディングノートの役割を果たす。武蔵は過去を振り返る作業を通して、変化が生まれた。武蔵には嫌いな人物がいた。それが養父の新免氏である。厳しすぎるぐらいに厳しい人だった。彼は過去を振り返る作業の中で、新免氏に育てられたからこそ、今の自分があるのだと、養父に対して寛容になり、受け入れることができるようになる。そして五輪の書の著者名は、宮本武蔵とは書かず、新免武蔵と書いた。

過去を振り返るメリットは、つらかったことを、意味があることだったなぁと、前向きに受け止められるようになったり、嫌いだった人に対して寛容になれたりということがあると言われているが、武蔵はまさしく、そのことができたのだろう。

私も過去を振り返って、親を受け入れるという体験ができた。また、二年ほど前、自分がこれからどうあればいいのか悶々としていた時に、そうだ過去を振り返り、神さまの導きの軌道について整理してみようと思い当った。自分が生まれてから救われるまでのこと、神学校に導かれるまでのこと、茨城の教会への導きとその地でのこと、湯沢への導きとその地でのこと、そして横手への導き。こうしたことを振り返って整理したときに、過去の様々な恵みを味わうことができたとともに、自分は神さまの導きの中にあることを確信し、立ち位置を確認でき、平安をいただき、それが前進する力となった。過去を振り返ることは未来に向かうために悪いことではない。

そして未来に向かうために、もう一つ力になることがある。それが神の約束である。神の約束は、すでに与えられている場合は、過去を振り返ることによって、確認できる。また新たに約束をいただくこともできる。約束は何をもたらすのか?希望である。

希望があるのとないのとでは、全然違う。希望がなければ生きる力は湧かず、未来は真っ暗である。この手紙の受取人たちは、厳しい環境の中で信仰生活を送っていた。もし忍耐が切れてしまったら、おしまいである。著者はそのことの意識があった(12節)。では、どうしたら忍耐できるだろうか。著者は「約束」また「望み」ということばをキーワードにして、彼らに忍耐深くあることを願っている。約束が希望を与え、忍耐を与えるのである。

著者は忍耐の模範として、信仰の父と言われるアブラハムを取り上げている(13,14節)。神はアブラハムに約束を与えた。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いに増やす」。この約束はアブラハムが100歳の時に生まれたひとり子イサクを、神さまの命令で全焼のいけにえとしてささげた場面で与えられたものである(創世記22章16,17節)。この約束はこれが最初ではなく、もともと子がなくして75歳の時に与えられたものである(12章1~4節)。子孫繁栄の約束。しかし、いつまで経っても子どもは生まれない。そして最初の約束から25年経った100歳の時に、約束の子イサクがようやく生まれた。この25年間はアブラハムにとって試みの時であったわけである。インスタントの時代に生きている私たちは、なかなか待てない。レジで自分の前に数人並んでいるだけで、イライラしてしまう。けれども、アブラハムは忍耐して、忍耐して約束のものを得た。「こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました」(15節)。「約束のもの」とはイサクのことである。このことは、イサクを全焼のいけにえとしてささげた事とも関係しているので興味深い。イサクを全焼のいけにえとしてささげたら、約束の子は死ぬ。最終的な「あなたの子孫を増やす」という約束は成就しない。けれども、アブラハムは、神の約束を信じ切っていたので、この不合理とも思える命令に、迷わず服従した。結果、イサクを取り戻した。そして、アブラハムの子孫は天の星の数のように、海辺の砂の数のように増え広がった。聖書を良く読んでいる方は、ご存じのように、アブラハムの子孫とは、霊的な意味では、キリストを信じる信仰者のことである。パウロはキリスト者たちに向かって、「信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい」と教えている(ガラテヤ3章7節)。つまり、神の約束はことごとく、キリストにおいて「しかり」となったのである(第二コリント1章20節)。神の約束は、究極的には、キリストによって成就したのである。キリスト者は17節で「約束の相続者たち」と言われている。約束の相続者は、キリストにありて、アブラハムとともに、アブラハムの子孫として多くの祝福に与る。神の子どもとされること、罪赦され義とされること、天の御国を受け継ぐこと、その他。新約時代に生きる私たちにとって、神の約束とは、キリストによる贖いの祝福と言うことができ、それらの中には、今述べた、神の子どもとされること(アブラハムの子孫となること)、罪赦され義とされること、天の御国を受け継ぐこと等が入る。

著者は神の約束の確かさを教えるために、「誓い」について言及している(13,16,17節)。人間は自分の約束を保証するために、サインをしたり、保証人をつけたり、また自分よりすぐれたものを指して誓うことによって、約束を保証しようとする。ユダヤ人は「神にかけて誓う」「主は生きておられる」、こうした誓いをするのが習慣だった。神さまの場合は、約束を保証するために誰を指して誓うのか?何を指して誓うのか?13節にあるように、神さまはご自分よりもすぐれたものを指して誓うことがありえないため、ご自分を指して誓う。神がご自分に誓われるというほど、確実で、真実で、権威のあるものはない。著者は、何を言わんとしたいのかと言うと、神の約束は人間の約束よりはるかにすぐれていて、神の約束はどんなときでも信じ切れるものだ、ということである。

18節では「変えることができない二つの事がら」という表現があるが、その「二つの事がら」とは、神の約束と神の誓いのことである。たとい山々が移り、丘が動いても、神の約束と神の誓いとは変わらない。

考えてみると、聖書は神の約束で満ちている。私たちに共通する約束は多い。それらは、宝石のように、各書にちりばめられている。それらの約束を見過ごさないように。また神さまは、各々に対して、それぞれの人生場面において、聖書のみことばを用いて約束されることがあるだろう。私も、進路、病、会堂建設、宣教、教会形成、いろんな場面において、みことばの約束が与えられ、それを握って、冴えない時も、人間の頭で考えてどうにもならない時も、耐える恵みをいただいた。

著者は手紙の受取人たちに、とりわけ、天の御国の世継ぎとなるという約束をしっかり握っていてほしかった。反面教師が、エジプトを出て、約束の地カナンを目指す途上で、荒野でブースカ言っていたイスラエルの民たち。人生の途上で、神はわたしを見捨てられたのかと思うことがあっても、そうではない。ある時、ひとりの方がパニックに陥り、神さまに見捨てられると私に訴え出した。ご本人にとっては大変な状況だった。ヘブル13章5節には「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」という約束がある。落ち着いて、こうした約束と向き合っていただくことにした。

確かに、人生、多難ではある。ある方は、「神さまは御霊に満たされた人を荒野に導く」という表現を取っている。つまり、信仰深くなるほど苦難も増す、ということである。病、奉仕の厳しさ、孤独、仕事の困難、人間関係のもつれなど。けれども、それは、その人に対す愛が減ったわけではなく、キリストがヨハネ15章のぶどうの木のたとえで教えられているごとく、愛しているがゆえの刈り込みである。

著者は神の誓いによって確証された、保証された、神の約束に望みを置くように勧めている。著者は、19節において、神の約束から来る望みは「錨」の役割を果たすことを述べている。著者は2章1節において、「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません」と言っているが、錨を下ろしていれば、荒波にも押し流されることはない。錨は太古は石だった。この頃は鉄製に替わっていた。錨は通常、海底に食い込む爪をもっている。それで船を安定させる。船舶の技術者の方がこう言っている。「いかに船舶が時代とともに変容したとしても、過酷な風浪に耐え、船を波に流されないでおく最後の頼りは錨と考える」。錨は通常は目に見えないが、大切な役割を果たしている。同じく、望み、希望という錨を下ろしていれば、信仰の破船に会うことはない。

しかし、錨を下ろす場所は海底とは言われていない。「幕の内側」と言われている。私などは「幕の内側」と聞くと、幕の内弁当を思い出してしまうが、手紙の受取人のユダヤ人たちにはピンと来た。「幕の内側」とは、荒野を旅していた時に、神さまの命令で作った幕屋の一番奥の部屋のことで、「至聖所」のことである。そこは一番神聖な場所とされ、重い幕によって聖所と仕切られていた。そこに普通の人は入れない。大祭司だけが年一回だけ入り、民のための贖いの儀式を行った。だが著者は、この地上の至聖所のことを言っているのではない。天の至聖所のことを言っている。それは罪赦された者だけが入ることができる天の御国のことである。キリストが十字架についた時、聖所と至聖所を隔てる重い幕は真っ二つに破れた。至聖所が私たちに開かれたことを意味していた。天の至聖所、そこが私たちが望みを置く場所である。

20節では、キリストはそこに、私たちの「先駆け」として入ったと言われている。「先駆け」は別訳では「先駆者」と訳される。秋田魁新報の「魁」も漢字は違うが、意味はこの「先駆け」と同じ。「先駆け」も「魁」も「真っ先に事を始めること、先頭をゆく」という意味がある。「かしら」という意味もある。「先駆け」の原語を調べると、「前に」ということばと「走ること」ということばの合成語であるが、意味的には、「前に、先に」ということともに「上位(かしら)」の概念も濃厚に含んでいる。

キリストは私たちの先駆けとして天の至聖所に入られた。キリストは十字架につく前、弟子たちにこう言われたことがある。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために場所を備えに行くのです」(ヨハネ14章1,2節)。キリストが十字架の死後、よみがえって、天に昇られた目的は明らかであろう。あとに続く者たちの先駆けとなるべく、天に入られたということである。

希望の錨は海の底にではなく、この天に置く。とてもユニークな教えであるが、押し流されない信仰生活の秘訣として、心に留めたい。神が与えてくださる希望は空しいものではない。それはご自身の約束に基づく確かなものであり、それゆえに錨の役割を果たすことができる。

今日のテーマは「約束に基づく希望」ということだが、最後に、約束と希望の関係を、今一度、強調して終わりたい。

第二次世界大戦中、二万五千人にも及ぶアメリカ兵士が日本軍の捕虜となったそうである。非人間的な条件の下で生活することを強要されて、多くは死亡した。しかしながら、生きながらえて、帰国した人たちもいる。その違いはどこにあるのか?スタミナの違いなのか。いや、そうではない。生き残った兵士たちには、一つの点で大きな違いがあったという。それは、希望である。彼らはいつの日にか解放されるという確信に近い希望をもっていた。彼らは、将来築く家庭や仕事のことも夢をもって話し合ったと言う。リーダーという方は、この事例を挙げた後、希望というのは、現在の道に先がないと言われても、道を切り拓き、希望はないと言われても、心に希望を持ち続ける、それが大切なのだと言っている。

私たちクリスチャンこそ、どんな時も希望を持ち続けることができる人種であると思う。それは神の約束は確実で、真実で、アーメンだからである。