以前、「子供服を着たクリスチャン」という本を読んだことがある。大人がいつまでも子ども服を着ようとしていたとしたらどうだろうか?幼稚園児の服を還暦過ぎても着ているとしたら、誰もがアレッ?と思うだろう。実際、そういう人は見たことはないけれども。今日の箇所は、幼稚で成長しようとしないクリスチャンのことが意識されている。

著者は、キリストの偉大さを説き明かすことに心を砕いてきた。ところが、ここに来て、あなたたちには難しすぎて、まだ無理かもしれない、というようなことを述べている(11節)。キリストについてもっと知ってもらいたいことがあるけれども、あなたがたは理解してくれるだろうかと。著者は、手紙の受取人たちの成長レベルを明かす(12節)。彼らは成長しているどころか、「神のことばの初歩」、すなわち、福音の基礎の教え、キリスト教のABCをもう一度教えてもらわなければならない状態だと言う。「年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず」とは、長い間クリスチャンであるにもかかわらず、なおその信仰は幼子のままであり、少しも円熟していない、ということである。「乳を必要とするようになっています」と、ミルクを必要とするような段階の子どもと同じだというわけである。ミルククリスチャンである。彼らは13節で「幼子」と呼ばれている(13節)。

バークレーという学者は、「幼子」の特徴を二つ挙げている。①「知識を深めていこうとしないクリスチャン」。ヘブル人への手紙の文脈で言えば、キリストの大祭司職の説き明かしといった堅い食物はごめんこうむりたい、ということ。著者は彼らがこうした姿勢だから、キリスト信仰が危うく、この世に押し流されやすくなっていることを見抜いていた。彼らは昔に逆戻りしかねなかった。

②「態度において幼いクリスチャン」。「いつまでも成長せず子どものように振る舞う人たちがいる。すねたり、かんしゃくを起こしたり、自分の思うようにならなければ何もしない、というようなことは、子どもの場合には許されることかもしれない。けれども、このような大人が大勢いることは困ったものである。・・・こういう人たちは成長のための努力をしない。すでに数年前に学ぶことを止め、子どもの考えを持ち、子どものように振る舞っている。イエスは『子どものような』心は一番尊いと言われたが、『子どものような』というのと『子どもっぽい』というのでは、意味が非常に違う。ピーターパンは成長しない少年で、芝居で見る場合には興味深いが、実生活の中でピーターパンを演じる人たちは悲劇的である」。まさしく著者は、知識と態度において子どもっぽい信仰者を念頭においている。

成長しようとするクリスチャンは、必ず「堅い食物」を求める(14節)。成長しようとするクリスチャンは、ミルクでは満足しない。初歩の教えを後にして、キリストの測りがたい富を求める旅に出る。みことばの知識において進歩することを求める。その人は「経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練」される。

もし、悪い物に固執しようとしているなら、相当の幼児である。OMF宣教師で北タイ・ミェン族に仕えている有沢達郎のレポートを紹介する。「『だれも赴任したがらない教会』、その意味がわかってきました。サッチ教会に登録された教会員は約200人。うち礼拝者は20人から30人。真に新生したクリスチャンたちは10人以下の婦人たちだけ。・・・礼拝説教に対する反発と抵抗があからさまに出始めました。『聖書に書いてあることばかり言われても困る。賭博は買い物と同じなのだから問題ない。正しいことばかり教えても完全に従える人は誰もいないのだから、ああいう説教は迷惑だ』。一方、夜の祈祷会に集まる婦人たちは『ひるまずに語り続けてください。戦いましょう。彼らを真の悔い改めに導くことができるのは聖霊だけです』と励ましてくれます」。「賭博は買い物と同じだ」と主張する彼らは、それが誰でもがやっている日常的な事であったとしても、かなりの幼児である。

それが、良いか悪いかを見分けるのはみことばが基準となる。この世は、闇を光、光を闇、悪を善、善を悪とし、聖書の価値観にかなりの抵抗を試みる。みことばの知識において進歩していないと、正しい見分けができなくなってしまう。幼いクリスチャンは、それは神さまが望んでいないことをしっかり自覚しないまま、悪に手を染めることが起きる。

単純に善悪では割り切れない問題もある。たとえば、導きといった分野において。幼いクリスチャンは、直感や感情を導きの根拠にしてしまう。「一人の若い女性が田舎道をドライブしていたとき、ある強い印象にとらえられました。それは圧倒的に迫ってくるようなもので、道を戻っていって、やり過ごした人を探しあて、その人にあかしをしなさいという内容でした。彼女は大変当惑し、私の所にやって来ました。私はそれは違うと強く言いました。私に言わせれば、何か彼女の深い所に感情的な要因があって、サタンが道を誤らせるためにそれを利用しようとしているのだと思いました。彼女は私のアドバイスを受け入れず、出て行きました。長い話になりますが、馬鹿げた、危険に満ちた出来事が続きます。彼女が成し遂げたことと言えば、主の御名を汚したこと、自分が通っていたキリスト教の学校に泥を塗ったことぐらいです」。自分の思い込みや、ひらめきや、感覚を、神の導きと受取り違いしたら悲劇。神の導きを知るには、みことば、外的な環境、理性を用いて真実に考えたこと、他者のアドバイス、内的な聖霊のうながしといったことがあるのだが、彼女は思慮が足りなかった。

あるパイロットの話は実に興味深く、参考になる。飛行には、計器を見て飛ぶ飛行の計器飛行と、自分の目に頼って飛ぶ有視飛行がある。この二つについて彼は言う。「ご存じのように、計器飛行は有視飛行とすごく違っています。自分の感覚で操縦できないことを学ばなければならないからです。自分の感覚に反して飛ばなければならないこともあります。そのような時は計器をじっと見ていることが大切です。また計器が示しているのと反対方向に自分が飛んでいるように感じることもあります。絶対に感覚で飛んではいけないということです」。私たちに当てはめれば、計器をじっと見ている姿勢が祈りとみことばと言えるかもしれない。ジョージ・ミューラーは、祈りに関しては次のように言う。「祈りはみことばを離れては、99パーセント幻想である」。最終的に私たちが固執すべきは、やはり、みことばである。

信仰が大人になると、日常の具体的な事柄において、みこころから大きく逸れることがなくなる。あるクリスチャン夫婦がいやしの説教を聞いて、14歳の糖尿病の息子にインシュリンを使わないことがみこころだと判断してしまった。その息子は間もなくして昏睡状態に陥り、二日、三日のうちに亡くなってしまった。しかし、そこで終わらなかった。その親たちは、息子を埋葬するのを拒んだ。神が息子をよみがえらせてくれるかもしれないと三日待ち続けたという。そして、周りから説得されて、ようやく埋葬した。神は奇跡的な手段だけでなく、この世の医療技術も用いられる。薬や手術といった手段を。

幼いクリスチャンは、自分の思い通りにならないと、へそを曲げ続けるということが多い。サマセット・モームの有名な小説に「人間の絆」がある。そこに登場する少年は、生まれつき足が曲がっていて、歩行が不自由だった。ある日、彼は、祈れば神はどのようなことでもおできになるという話を聞いた。ある晩、眠りにつく前、曲がった足を折るようにして跪いて、明日の朝までこの曲がった足を真っ直ぐに伸ばしてください、と祈った。彼は明日の朝には足は真っ直ぐになっているにちがいないと期待に胸をふくらませて眠った。翌朝、目を覚まして布団をどけてみたが、足はそのままだった。彼はこのことをきっかけに信仰を失う。現実にもありそうなお話である。

幼いクリスチャンは、それが悪魔から来るものなのか、それとも神さまから来るものなのかの見分けも難しい。ヤコブは言っている。「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません」(ヤコブ1章12節)。神は私たちを悪に引き込もうとはされない。ただ、しつけ、訓練はあるのだということを知っておかなければならない。しかし、幼いクリスチャンは神さまからの懲らしめを、愛の訓練として受け入れることが苦手であろう。「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」(ヘブル12章6節)。けれども、幼いクリスチャンは、荒野でのイスラエルの民のように、これを嫌い、神に反抗することになる。

幼いクリスチャンは、真理の教えと偽りの教えの見分けも困難で、自分に都合のいい事を言ってくれる教えに飛びつく危険が大きい。「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとはせず、自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです」(第二テモテ4章3,4節)。

私たちは、みことばによって、見分け、判断し、そうした経験を積み上げることによって、見分ける感覚がより研ぎ澄まされるようになる。それが成長の一つの実である。

6章1節前半が、本日の中心聖句である。「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目指して進もうではありませんか」。これは有名なみことばである。私たちは思ってしまう。どうにか天国に入ることができればそれで十分、どうぞお先に。けれども、自分の子どもが大人の年齢に達しても、いつまでも子どもっぽく、キティちゃんの服とままごと遊びを好み、仕事をせず、本も絵本止まりで、相変わらず、哺乳瓶を口にし、お菓子をひんぱんにおねだりしてくるようであったらどうだろうか。

私たちの意志とは裏腹に、振り返って見ると、神さまは私たちに対して、厳しい成長の過程を通らせようとしていることがわかる。神さまは不思議なもので、クリスチャンの初期の時代より、取り組まなければならない問題をより難しく、複雑なものにされる。昔だったら重圧に負けて音を上げていただろうという問題にも直面させる。また、どう判断したらいいのか、みこころはどこにあるのか、以前よりも判断に迷う環境に置かれることがある。環境が開かれたといっても、みこころは別にあるとか。人の願いやアドバイスがあっても、実際のみこころと違っているとか。四方八方壁だらけで、どうしたらいいかわからないとか。または、選択肢がいっぱいでどれを選べばいいのか迷ってしまうとか。よりみことばと祈りに打ちこまなければならない状況に追いやられる。神さまは、私たちのそれぞれの信仰のステップに応じて、宿題を出されるようである。その方程式が難しくて、うなってしまうこともある。一度に複数の問題を抱えてしまうこともある。私たちの側で求められているのは、成長しようという意志、心構えである。大人の判断、見分けである。

「成熟」と訳されていることばは、5章14節の「おとな」と同族のことばで、両方とも、「完成、完全、成熟」という意味をもつ。「おとな」は、「成人、成熟した人、成長した人」、そんな風にも訳せることばである。

著者の6章1節の勧めは、「キリストについての初歩の教えをあとにして」、子どもっぽさから脱出し、信仰者として大人に成長してくれることである。霊的に成熟してくれることである。「キリストについての初歩の教え」の直訳は、「キリストのはじめのことば」となる。それは「キリスト信仰の基礎的教え」のことである。

著者は「キリスト信仰の基礎的教え」を、当時のユダヤ人を意識した表現でいくつか書いている(1節後半,2節)。「死んだ行いからの回心、神に対する信仰」とは、悔い改めと信仰のことである。これによって救いに至る。「きよめの洗いについての教え、手を置く儀式」とは、悔い改めと信仰をもって信じた後に続くもので、ユダヤ人がキリスト教に改宗する際の、当時の儀式について言及しているだろうと思われる。「死者の復活、とこしえのさばき」とは、いわゆる終末論に属することで、来るべき救いとさばきの教理のことである。霊的な成熟のためには、これらの基礎的な教えを後にして、キリストの祭司職の教えや、聖霊について、キリスト教倫理について、その他もろもろ、習熟していくことが期待されている。また先に救われた者たちとして、求道している人を教え導いたり、自分の後に救われてくる人たちに対して、基礎的教えを教えたり、信仰の秘訣をアドバイスするまでに成長することが求められる。

4~8節は背教への警告となっている。幼子にとどまっている彼らに対して、厳しく警告している。キリストに従うクリスチャンとして成長してほしいという思いの裏返しの警告である。背教は幼子にとどまっていること以上に、もっと悪い姿である。完全なバックスライドである。神の子どもとして生まれる以前の姿に戻ってしまうこと、いや、それ以上に悪い姿である。罪には不注意の罪と故意の罪があるが、ここでは、故意の罪の中でも、神への恐れが全くなく、意図的で反抗的な背きの罪が念頭にある。「悪いとわかりつつ、つい」とか、「やってしまった~」というようなことではない。罪意識もなく、神を神ともせず、堂々と犯すような罪のたぐいである。

著者はこうした輩と手紙の受取人たちを同列に置いてはいない(9節)。彼らの間には背教者はいなかった。いたのは幼子たちである。しかも年数から言えば、キリストにある大人になっていなければならない人たちであった。

著者は彼らのことを、ある程度は評価している(10節)。ここで言われている「あなたがたの行い」、「あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛」とは、具体的にはどういうことなのかと言えば、古代教会の記録から推察すると、町々にある教会に献金を送って助けたり、貧困者を救済したり、鉱山にいる兄弟たちを助けたり、といったことが考えられる。日本のキリシタンの記録の中にも、同じようなことが書かれている。

彼らは、これらの愛のわざを行いつつ、信仰が揺らいでいた。本当に天の御国に入れるのかしらと。天の御国の希望がかすんでしまうことがあった。著者は11~12節において、これまで繰り返してきたメッセージを語る。試練に負けないで、希望を強くもち、信仰と忍耐をもって天の御国を相続すべしと。著者は13節以降で、彼らに確かな希望を与えようと語っていく。次週は希望をテーマに見ていく。

今日のテーマは「成熟を目指して」であるが、各自、成熟を目ざして、今年取り組む課題というのをもったら良いと思う。みことばと祈りの生活で改善するところはないのか?あるはずである。成熟のためにいやされなければならない心の傷はないのか?心の中に、とげのある思い、焦り、汚れ、といった、処理しなければならないものはないのか?直したほうがいい、お決まりの子どもじみた反応パターンはないのか?自分を卑屈にしているコンプレックスはないのか?自分の感情に依存しやすくないのか?子どもの頑固さ、わがままを、神さまに突きつけていないのか?キリストを知ることにおいて成長しているのか?弟子として成長するために学んだほうがいい分野はないのか?明らかに神さまが自分に課していると思われる課題で、なおざりにしているものはないのか?逃げてしまっているものはないのか?神と人とに仕える奉仕において、新たに取り組むべきことはないのか?

私たちは、ひとりひとりが、漫然と信仰生活を送ることがないように、成長の課題を見つけ、取り組み、互いに励まし合いながら、成長してきたいと思う。いつからそれに取り組むのか?今月からにしよう。