ヘブル人への手紙の著者は、キリストの偉大さを紹介することに強調を置いている。これまで、キリストは御使いよりもまさるお方であること、モーセよりまさるお方であること、完全な神の救い主であることが語られてきた。今日の箇所では、キリストは人間の大祭司よりもまさるお方であることが教えられている(14節)。キリストは「偉大な大祭司」と言われている。キリストが大祭司であることは、すでに著者は何度か語ってきた。「あわれみ深い、忠実な大祭司」(2章17節)。「大祭司であるイエスのことを考えなさい」(3章1節)。実は「大祭司」ということばは、ヘブル語では「偉大な祭司」という訳になる。大祭司そのものが偉大である。ところが4章14節では、キリストはそれよりも偉大なお方として紹介されている。「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」。「偉大な大祭司」は、「偉大で偉大な祭司」「一番偉大な祭司」ということになる。それがキリストであるというわけである。

大祭司は年に一度、神殿の一番奥の部屋である至聖所にちょっとの間入り、罪を贖う儀式を行った。至聖所は天の御国の型である。ところがキリストは罪の贖いを成し遂げ、天そのものに入った。本物の至聖所に入った。そして、そこにいつまでもおられる。そこは至高の場所である。「もろもろの天を通られた」という表現は、天の数が幾つあるのかということに興味をそそらせるためにあるのではなく、キリストの位の高さ、人間の大祭司と違っていかに偉大なお方であるのかを知らしめるためにある。著者は、このキリストに対して信仰の告白を堅く保つように勧めている。その意図は明らかである。試みが多い中、信仰が停滞状態で、押し流されかねない読者たちに対して、キリストに信仰の目をしっかりと固着させることがねらいだった。

私たちは押し流す力を強く感じる世界の中で、ただ自分の力だけで踏ん張って前に進もうとするのだろうか。そのようなことは言われていない。著者はこれまでもそうだが、キリストの助けに心を留めさせる。それが続く二節である。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」(15節)。キリストはあわれみ深く、私たちの弱さに同情し、必要な時に、必要な助けを与えてくださるお方である。大祭司とは人間の代表である。キリストは三位一体の第二位格の神であるにもかかわらず、全き人となられた。そしてすべての点で私たち人間と同じ試みに会われた。公生涯のはじめには、荒野で悪魔の誘惑を受けた。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢の誘惑である。そして公生涯の終わりには最大の試練が待っていた。十字架の苦難である。キリストはゲッセマネの園で十字架に向かう力が与えられ、十字架についた。しかし、その時、祭司長、長老、律法学者たちが、「神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い」と罵声を浴びせた。もし十字架から降りてしまったらどうなっていただろうか。キリストが受けた十字架の試練は、全人類のだれもが経験しえなかった厳しさがある。キリストが受けた試みの大きさを人間が推し量ることはできないだろう。キリストはこの試みに耐えきり、罪を犯すことがなかった。このキリストが、私たちの弱さを理解できない、助けられないということがあるだろうか。キリストは私たちに同情し、私たちが耐えられない試練に遭遇しないように調整してくださるだろう。また試練に耐える力をくださるだろう。試練の出口も備えてくださるだろう。「同情」ということばを少し説明すると、原語は「共に」ということばと「苦しむこと」ということばの合成語である。「共に苦しむ」、それが元の意味である。それをイエスさまがしてくださる。

著者は私たちに、祈りを通してキリストに助けを求めるように招いている。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(16節)。「助け」と訳されていることばは、2章18節のそれと同じことばである。「呼び声」ということばと「走る」ということばの合成語である。呼び声を聞いて、走って助けに行くというニュアンスのことばである。そしてここで「おりにかなった助け」と言われている。それは、必要な時に必要な助けを与えてくださるというニュアンスである。必要な時に、霊的助け、肉体的助け、物質的助け、人的助け、環境の調性という助け、その他の助けを、調合して与えてくださる。地上で人としての試みを経験された主であるからこそ、自分のことのようにして人間の弱さを理解して、この助けを与えてくださる。

おりにかなった助けを受けるために私たちが向かうところは「恵みの御座」と言われている。私たちは「恵みの御座」という表現から、キリストの二つの側面を学ぶことができる。一つは、キリストの王権である。「御座」という表現自体、明らかに、天においても地においてもすべての権威が与えられているキリストの王権を示している。キリストは王の王である。古代オリエントの社会にあって、王の御前に出るということは王女といえども簡単なことではなかった(エステル記参照)。ましてや一般市民などは王の御前に出ることを許される可能性は極めて低かった。誰でも、王の許しなしに勝手に王の前に出てしまったら、死刑宣告はやむをえなかった。けれども、私たちは地上の王よりさらにすぐれた王、王の王、主の主の前に、いつでも出ることが許されている。まさしくそこは「恵みの御座」である。

「恵みの御座」ということにおいて、もう一つ、キリストの祭司性を覚えることができる。著者はこの後、王であり祭司でもあったメルキゼデクを引き合いに出すが、キリストは王であり、祭司であるお方。私たちはキリストの御名によって祈るように命じられているが、キリストは神と人との間を仲介する祭司。偉大で偉大な祭司、私たちが来るのをいつでも待ってくださっている恵みとあわれみに富みたもうお方。助け主。

私たちは試みの中で冷静さを失い、恵みの御座に近づくことを忘れて、頭をかかえて自分の中に引きこもったり、安易な解決の手段に次々と手を出したりしてしまう。一応祈るも、祈りのことばは焦点が定まらないため、まどろむ空気の中で霧のように消える。そして浮草のようなままで現実世界に押し流されそうになる。私たちは、祈りを「恵みの御座」に近づくこととして理解したい。そこには天においても地においてもすべての権威を持ちたもうキリストが座っておられる。人となられ、私たちと同じ試みを受けられ、弱さに同情してくださるキリストが座っておられる。私たちにおりにかなった助けを与えるためにである。私たちは祈りにおいて、まず恵みの御座に座っておられるキリストに心を定めよう。

さて、5章に入ると、今日の箇所では、人間の大祭司とキリストとの比較がされている。キリストは人間の大祭司同様、人間の弱さを知っているので、人々を思いやることができる。では、人間の大祭司とキリストが違っていることは何だろうか。それは人間の大祭司は罪人であるけれども、キリストはそうでないということ。初代の大祭司のアロンといえども罪人にすぎなかった。罪人にすぎない人間の大祭司は、民のための贖いの儀式をする前に、自分と自分の家族の贖いとして、罪のいけにえの雄牛を犠牲としてささげなければならなかった(レビ16章)(3節)。けれども、キリストは自分の罪のためにいけにえをささげる必要はない。キリストは人間の大祭司よりも偉大なお方である。

著者はまた、シャレムの王であり祭司であったメルキゼデクを引き合いに出して、キリストはメルキゼデクに匹敵する王であり祭司であることを強調する(6節)。実は、キリストが祭司であるとは、普通のユダヤ人の考えに及ばないことであった。キリストは人としてはユダ部族の家系に属するが、ユダ部族は王の家系であって祭司の家系ではない。祭司はレビ部族のアロンの家系からと定められていた。キリスト降誕の際、東方の博士たちは、キリストを「ユダヤ人の王」と表現した(マタイ2章2節)。そしてキリストが十字架につけられた時の罪状書きは、「これはユダヤ人の王イエスである」だった(マタイ27章37節)。キリストは王と表現されることはあっても、祭司としては知られていなかった。けれども著者は、キリストは「偉大な大祭司」と宣言する。ユダヤ教徒にとっては許しがたい発言。キリストはアロンの家系とはまったく関係がない。しかしキリストは、メルキゼデクに匹敵するような、とこしえに祭司の務めをされる偉大な大祭司なのである。

7~10節は、キリストの地上生涯での叫び、涙、苦しみが記されている。これは祭司の記述と関係している。キリストは昇天された後で祭司となられたのではない。地上で祈りと願いをささげられている時、すでに祭司の務めをされていた。おそらく7節の「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことができる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」という記述は、ゲッセマネの園の祈りとは無縁ではないだろう。ゲッセマネの記述は、マタイ、マルコ、ルカの福音書に記されている。そのどれを見ても、「大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」とは書いていない。しかしながら、それはキリストの苦悩の記事から推測できる。マタイとマルコには、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」とある(マタイ26章38節;マルコ14章34節)。ルカには、「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」とある(ルカ22章44節)。

ゲッセマネの園での祈りは、罪のためのいけにえとなる十字架に向かう前の祈りであったので、当然そこには、罪のためのいけにえを用意する祭司としての祈りの要素があった。祭司は罪のためのいけにえとして、汚れなき小羊を備えた。その小羊とはご自身であった。キリストは祭司としてご自分をいけにえとして差し出さなければならなかった。いけにえには、罪に対する神の聖なる御怒りが下る。キリストはそれを知って祈られた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが願うようにではなく、みこころのようになさってください」(マタイ26章39節)。キリストは全人類の罪に対する聖なる御怒りを、ひとりで飲み干さなければならない恐怖と戦っていた。それは人間の祭司が経験しえない恐怖である。そして十字架に向かわれた。「神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(第二コリント5章21節)。

ある方は、キリストの暗闇のゲッセマネの園での体験を次のように綴った。

 

救い主がひとり祈った。暗闇のゲッセマネにおいて。

彼ひとりが苦い杯を飲み干した。それはわたしのための苦しみだった。

 

ヘブル人の手紙の著者は、キリストの祈りのことばを記してはいない。ただ、「大きな叫び声と涙とをもって」と記すのみである。「大きな叫び」とは、「激しい叫び」とも訳すことができる。そして涙である。救い主らしからぬ、取り乱した姿に思えるかもしれない。キリストが祈りと願いをささげた御父は、ここで「自分を死から救うことができる方」と言われている。この死とは、ただの肉体の死ではない。神の怒りの杯を飲み干しての、たましいの滅びとしての死である。それは「大きな叫びと涙」をもってしか克服できないような恐ろしい対象だったのである。この死の苦しみを私たちは理解し尽くせない。全人類の罪の呪いと神の御怒りを一身に受け、死を味わう恐怖。キリストはこれに立ち向かった。キリストは死から逃れることなく、従順を貫き、死によって死に打ち勝った。その陰には、キリストの苦悩の祈りと嘆願があったことを著者は記している。

キリストの祈りと願いが聞かれたのは、「その敬虔のゆえに」と言われている。「敬虔」と訳されていることばは、ヘブル人への手紙のみに使用されていることばで、12章28節では、「恐れ」と訳されている。それは、畏れ敬うという「畏敬」のことである。よって、「畏敬のゆえに」と訳す聖書もある。ある人は「うやうやしい服従のゆえに」と訳している。

8節では、また驚くことが言われている。「キリストは御子であられるのに、お受けになった苦しみによって従順を学び」。原文では、「御子であるけれども、彼は学んだ」という語順になっている。彼は学んだ!彼とは、神の御子である。キリストが学ばなければならないことなどあるだろうか。キリストは三位一体の神、完全な聖なるお方。知恵も知識も欠けることなく持ちたもうお方。永遠のいのち。いったい何を学ばれたというのであろうか。でも、事実、学ばれた。みことばがそう告げているので。キリストにとって、受肉による人としての歩みは初めての経験であり、人として神に従うということを学んでいかれた。「お受けになった多くの苦しみによって従順を学び」とあるように、特に受難の歩みにおいて、従順ということが試された。苦しい時ほど、従うというのは難しくなるもの。一節前の7節に「人としてこの世におられたとき」という表現があるが、直訳は「肉の日々において」である。この表現は、キリストが地上におられた時の人間としてのもろさ、弱さを思わせる表現である。飢え、渇き、痛み、疲れを覚え、精神的エネルギーも奪われやすい状態、誘惑にも負けやすい肉の状態の日々。そのもろく弱い状態にあって、苦しみの時も畏敬の姿勢をくずすことなく、従順を貫き通された。こうして人としての完全な人生を全うされ、大祭司としても完全になられた。

キリストは天の神であるとともに、肉となり、人としてこの世の修練をかいくぐられたお方。従順を全うし、すべての人の贖いの代価としてご自身をお与えになり、死に勝利されたお方。私たちを完全に救うことがおできになる大祭司。とこしえに偉大な大祭司。先に見たように、キリストは私たちの弱さに同情できない方ではない。今、恵みの御座に着いておられ、おりにかなった助け、必要な時に必要な助けを与えてくださる。この恵みの御座に、日々、大胆に近づこう。信仰は絵に描いたもちではない。恵みの御座に着いておられる偉大な大祭司キリストに信仰を働かせよう。キリストの恵み、あわれみ、思いやり、力を、人生の中に刻々と刻んでいこう。