今日のテーマは「安息」である。人は一日の労働を終え、家に帰り、そこで安息感を覚える。峠の我が家である。でもそこは最終の安息の場ではない。病院から退院し、「ああ、やっぱり我が家はいい」となる。それでも本当の安息の場所ではない。神は私たちに完全な安息を用意しておられる。天の安息である。そこは私たちのたましいの郷愁の思いが満たされるところと言ってよいだろう。

著者は3章において、イスラエルの民がエジプトを脱出し、荒野の旅の後、安息に入れなかったことを見た。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らを安息に入らせない」(3章11節)。「それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことがわかります」(3章19節)。イスラエルの民は乳と蜜の流れる地、約束の地カナンに行こうとしていたのだが、その地はいわば、安息の型である。著者が意識しているのは地上の安息のことではない。天の安息のことである。この安息にも彼らは入れていない。その理由は、神のみことばに聞く耳持たずであったからである(2節)。

3節と4節は、神さまが天地創造のみわざを行い、七日目に休まれ、安息日を制定されたことが言われている。なぜここで、このことについて言及するのか。著者は神さまが創造のみわざを終えて休まれた七日目について、深い説き明かしをしている。神さまは人間のために最終の安息をいつ備えたのかということだが、神さまが天地を創造し、安息を制定された時に、私たちが入る最終の安息、天の安息も確立したということである。この場所に、不信仰な民イスラエルは入ることができなかった。聞く耳持たずで、心がかたくななゆえに入ることができなかった。この安息は今、私たちのために残されている(6,9節)。

安息に入る条件は、福音を信じ、神のみことばに従順であることである(2節,3節前半,11節)。出エジプトの世代も福音が説き明かされていたにもかかわらず、神が約束された安息に入れなかったのは、彼らの不従順が原因していると著者は語っている。彼らへの福音とは、神の救いの約束を信じ、みことばに従うことによって、安息に入り、「祭司の王国、聖なる国民」とされるということだった。それはエジプトで奴隷の身分であった彼らにとって、福音そのものであった。けれども、その福音を、彼らは踏みにじってしまった。「福音だと?冗談じゃない。エジプトでの生活のほうがまだましだった。神が安息を与えてくださるというのはうそっぱちだ」。彼らはみことばに従わず、神を試みる生活に終始した。結果、荒野で滅んでしまった。それは約束の地カナンに入れなかったということを意味するだけではなく、神さまが創造の七日目に備えてくださった、確立してくださった、真の安息にも入れなかったことを意味する。

著者は同じことが読者たちに起こることを懸念している。同じ過ちを繰り返さないために、みことばへの敬虔な思いをもってほしい、みことばに従う信仰をもってほしいということで、12,13節を結論的に語る。この12,13節は3章7節以降のまとめと言われているが、3章7,8節では、「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」とあり、御声を聞くこと、すなわち、みことばへの態度が問題にされていることがわかる。みことばへの恐れがなかったイスラエルの民たち。だから、著者はまとめとして、みことばへの敬虔な思いと神への恐れをもってほしいという視点で語る。

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」(12節)。ここでみことばは何にたとえられているだろうか。鋭い剣にたとえられているが、単に鋭い剣ではなく、最も鋭い剣よりもなお鋭い剣として描写されている。「両刃の剣よりも鋭く」。現代では私たちの体内の病巣を発見する医療機器にたとえることができるかもしれない。それは鋭い光線を放射する。X線などの放射線はすべてを見通してしまう。それは物質を通り抜ける力(エネルギー)があり、原子や分子などを切り離す力がある。けれども、聖書が語る、霊、たましい、心の領域には役立たない。しかし、神のことばは、まさしくそこに力を発揮する。

生ける神のことばは、「心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」とある通り、内面の奥底まで探り、意識下にある考えや動機までも探り当て、それを明るみに引き出すことができる。それは自然と13節につながる。

「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明するのです」。神さまは医療機器を扱う検査技師や医師のようなものである。みことばで、すべてを見通し、判別する。

私たち人間はと言うと、人の外面しか見ることができない。その外面さえも不確かにしか見えないことがある。その人が何色の服を着ていたかさえ思い出せなかったりする。その人が言ったことも聞き違えたりする。人の視力、記憶、聴力、認知能力はあてにならない。心理学なる学門もあるが、心の表面を見るのがやっと、という気がする。そしてグレーゾーンを残してしまう。しかし、神は全くそうではない。すべてを正確に見通される。

たとえば、誠実で正しく行動する人の場合を例に取り上げてみよう。人の目には善く見えても、神さまは次のように真実を言い当てるかもしれない。七種類あげてみよう。一番目の人は、自分の名誉を考えて、誠実で正しい人間に見られたくて仲間とつきあう。二番目の人は、利得のためにそうする。お金のためである。三番目の人は、法の処罰を恐れてやる。四番目の人は、相手を自分の味方につけておきたくてそうする。五番目の人は、相手をあざむきだますためにそうする。六番目の人は、人からの見返りを期待してやる。七番目の人は、自分のプライドが許さないからそうする。以上述べたものが重なり合っているケースもあれば、その他にも動機があるかもしれない。どれもが、その行いは善いものとして現れてくる。しかし、その人たちが誠実で正しい行動をとるのは、自分と世を愛しているからにすぎない。それは誠実と正義のためではない。それは主なる神に由来するものではない。外面に現れるものは同じであっても、神さまの目には全然違うものとして映ることになる。

私たち人間は外面と内面に分かれよう。生まれながらの人間の内面性は獣に近い。意思において悪への傾向性をもって生まれてくる。それを理性で抑えて生きている。人前では正しくふるまうも、さきほど見たように、動機はそうでないことが多い。けれども人は、その人の外面しか見ることができない。また、人に見られていなければそれでいいという心理が働き、人目につかない隠れた所で恥ずかしいことをする。この世で、その本人のその行為は、本人以外の誰にも知られていないということになる。だが、やがて神の裁きの座に引き出されたら、どうなるだろうか。イメージしてみよう。神の前で、その人の外面は引き剥がされ、裸にされ、もうどこにも隠れようがない。その人の心を占めていた当時の考え、意図、楽しみ、欲情の全部が白日のもとにさらされる。罪の回数と内容のすべてが、時代順に、しかも本人の精神状態と動機を含めて、一度に眼前に示される。罪を犯した時のその場所、そのことば、その時の気持ちまでもが組み入れられて、現存するように表わされる。生前本人によってたくみに隠されていたものも、全部顕わにされる。もれるものは一つもない。それは神さまのためにやったという言い訳も、由来は肉から来ていたことが暴露される。本人はそれを見るのが耐えられない気持ちになるだろう。人間の側の理屈で固めた判断基準、曲がって錆びた判断基準はすべて役に立たない。ちりあくたとされ、みことばの光がすべてを裁く。

今度は人の外面、内面を、外部人間、内部人間という言い方で表現してみよう。聖書では、悪者に平和がないと言われているが、それは内部のことが言われている。私たちは自分の欲望がかなえられると、安心感や、愉快、平穏な気分が表れるが、それは外面、外部のことで、内部では、敵意、憎しみ、復讐心、残忍性、その他いろいろな邪欲がくすぶっていて、神さまとの関係は壊れている。外部人間はみがきがかかっていても、内分人間は黒ずみ、うす汚い。嫌な臭気を放っている。その人は自分の利益とならなければ、うずいていた邪念を爆発させ、本性を露呈する。たといそれが隠されたままでいても、やがて外部は引き剥がされ、醜悪な姿の内部人間として神の前に立たなければならなくなる。ホラー映画に登場する醜悪な姿の人物を他人事のように見ている場合ではない。その醜悪な姿は、樹皮をまとっていた時はりっぱな木に見えていたのに、それが剥がされて現れた、腐った虫食いの木のようでもある。またそれは、きれいな果皮に包まれていても、中身は虫に食われて腐った果実にも似ている。それはまた、変形して黒くなった死体を金箔で覆ったミイラのようなものである。金箔の下にある醜い姿が、その人の本性である。神の前に隠せるものは何もない。キリストの十字架にすがらず、神を恐れず歩み、神の御前に出たとき、神の真理と聖さと義の光に当てられ、それは恐ろしい苦悶をたましいに呼び起こすはずである。

生まれつきの人間は今見たように二重構造と言えよう。誰も損したり悪くみられたくないし、みな金銭とか名誉で報われたいと思っている。だから自分の内部では道徳観も慈悲もどうなっているのかわからないような人が、外部では道徳的で慈悲があるわけである。これが、偽善、おべっか、見せかけの原因となる。羊の衣をまとって、中身はトラやオオカミやヘビやキツネでいることになる。これは他人事ではない。法律を守り、道徳的に暮らし、正しい生き方に努めてきたと言っても、聖書のことばを通して、自分の内部を点検したほうが良い。人を殺したいほど復讐心に燃え、姦淫への欲情を感じ、偽証して得をしたいと考えている自分のことをである。自分さえ良ければと考えてしまう自分のことをである。みことばによって素直に自分を直視する人こそ幸いである。その人は自分の悪を見、認め、承認し、それを罪として神の前に告白するだろう。そして、キリストが私たちの罪のために十字架についたことを聞いたことがある人たちは、それは自分の罪のためであったことも心から信じなければならない。これを悔い改めとセットですることである。

ある人がこんな夢を見た。死んで、神の前に引き出された。生前犯した罪が走馬灯のように眼前に示された。ああ~、自分はもうだめだ~、滅びる~と思ったその時、その人の罪の記録簿に、キリストの血潮がかかり、すべてが拭い去られ、御国に入ることを許されたという夢である。キリストの罪からの救いのみわざは完全だった。そのことをしっかりと受けとめるべきことを、ヘブル人への手紙の著者は、この後も強調していく。

信者にとっては、悔い改めは習慣化しなければならない。習慣は第二の天性となり、今まで楽しかった罪は楽しくなくなり、神のみこころを行うことにより心を砕くようになるだろう。

善い行いの実践にあっては、わざのうちに功績を置かないことである。すべての善は主に帰さなければならない。つまり、何かを行い、それを自分の手柄とすることは罪であると知らなければならない。だれでも、主の御力によらないでは、それ自身として善である善を行うことはできない。主から離れて、私たちは何一つできない。それが真理である。だから手柄信者になって高慢になったり、人を裁いてはならない。「右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」とある通りである。そうしないなら、報いはない。自分は手柄を考えてやっているのではないと言いつつ、結果的に、やったことを自分の手柄としているなら、何にもならない。基本として、私たちは悪から離れる力を主に求めると同様に、善を行う力も意識して主に求める。そしてみかけは自分の力でやるわけだが、それは主の力、恵みによったと信じるのである。ある人は言った。「自分の力で行いなさい。しかしそれが主の御力によるものと信じなさい。こうして自分の力でやるかのように行いなさい」。この勧めに従いたいと思う。

最後に、戻って11節に目を落として終わろう。今日のタイトルは「安息への招き」であるが、「ですから、私たちは、この安息に入るように力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか」と安息に招いている。ここで、「この安息に入るように力を尽くして努め」とあるが、ここは、天の安息に至るために、その条件として善い行いを積み上げなさい、ということが言われているのではない。ここでは、安息に至る道行きは時に険しく厳しい、ということが意識されている。この地上の荒野の旅では気を抜いていけないということである。この道行きにあっての指標となるのがみことばである。みことばによって、みことばとともに、この道行きを歩む。みことばに従おうとする者は、恐れ敬う心で、衷心から、主に従おうとするだろう。その人は神を欺き、人を欺き、自分を欺くことを嫌うだろう。みことばによって自分を吟味し、悔い改めと信仰をもって主に従い続けるだろう。

私たちは安息に招かれている者たちである。「落後する者がひとりもいないように」と主は願われている。大丈夫である。主の恵みを信じるのである。私たちは自分ひとりの力で信仰の戦いを戦っていくのではない。次回学ぶ14~16節の主イエス・キリストの助けがそれを暗示している。私たちは主の助けによって、荒野を通過し、安息に入ることができるのである。次回はそのことを中心に見ていこう。