今日のテーマは、1節の「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません」である。小学生低学年の時の思い出だが、私の実家がある地区は舟岡部落と言って、船着き場が昔あった。ということは川そばにあるということで、川には良く遊びに行った。川を歩いて横断する時、足がすくわれないように、押し流されないようにと、足に力を入れながら渡ったことを思い出す。

ヘブル人への手紙の特徴の一つとして、世の荒波を受けて、信仰の成長が止まってしまったり、信仰が後退気味になっている人たちが意識されているということがある。彼らは、試練に負けて、生ける神から遠ざかってしまう危険があった。だから著者は、キリストの福音にしっかりととどまるようにと、私たちを招いている。「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません」。「しっかり心に留める」、また「押し流す」と訳されていることば、航海用語としても使われた。「しっかり心に留める」<プロセクオー>は「錨を下ろすこと」を意味する。古代から船を漂流から守るのは錨だった。「押し流す」<パラペオー>は、水夫が風向きや潮流に対する注意を怠ったために、「船が港や停泊地点から漂流してしまうこと」を意味する。その辺の意を汲んで、次のように意訳することも可能だろう。「ですから、私たちは聞いた福音に信仰の錨をしっかり下ろし、人生という船が港から漂流し、破船しないようにしなければなりません」。水夫が眠りこけている間に、潮が船を港から押し出して沈めてしまう。また強風が船を沖に追いやり、沈めてしまう。台風や津波が押し寄せた時に、船が流されたというニュースを耳にされた方もおられるだろう。私たちにも同様のことが起きる可能性がある。そして生ける神から離れてしまう。どのようにしてか?故意に、ある瞬間に全面的に神を拒んでしまうというよりも、信仰を受け入れない世界にあって、日が経つうちに、圧力を受けて、少しずつ離れてしまう。少しずつ悪い欲に引きずり込まれ、信仰は冷めていき、気が付いた時には自分の信仰は破れ、漂流して為す術もなくなっている。

人生を漂流の危険から守るためにはどうしたらいいのか。それは、「聞いたこと」、すなわち「キリストの福音」にしっかりとどまることである。錨を下ろすことである。2~4節は律法とキリストの福音が比較されている。2節で「御使いたちを通して語られたみことば」とあるが、律法は御使いの仲介によって啓示された。使徒7章53節には「御使いたちによって定められた律法」とある。2節では、続いて、この律法に対する違反と不従順は処罰を招いたことが記されている。「違反」<パラバシス>の意味は、「境界線を越えること、引いた線を越えること」である。ラインオーバーである。健康診断では基準値というものがあり、それを越えると、要医療ということになる。律法の違反の場合は、それ以上の害を自らに招く。「不従順」<パラコエー>の意味は、「不注意に聞く」また「聞こうとしないこと」。聞く耳持たず、なわけである。結果、処罰を招く。

キリストの福音というものは、律法以上のものである。なぜならそれは、主イエス・キリストご自身が語られたものだからである(3節前半)。その福音の内容はキリストによる救いである。この福音の本体はキリストである。この福音をないがしろにすることは、キリストをないがしろにすることと等しく、それは律法をないがしろにすること以上に問題は大きい。著者はクリスチャンたちに対して、キリストとその福音をないがしろにすることを決してするなと警告を発している。

前回学んだ1章において、キリストは御使いよりもまさる方として描かれていた。キリストは創造主であり、万物の支配者であり、保持者であり、その実体は神であり、大能者の御座に着かれた至高の権威をもつお方であることが論じられた。2章でも、キリストは御使いよりもまさるという文脈の中で記されているが、どういうわけか、キリストは神であるけれども、御使いよりも、しばらくの間、低くされたという逆の展開になっていく(7,9節)。

5節以降、著者は、御使いとの比較の中で、律法よりもすぐれているキリストの福音の価値を教えようとしている。キリストは御使いよりも劣っている方ではなく、御使いよりもまさるお方であるけれども、私たちのために、あえて御使いよりも低くなることをよしとされた方である。

キリストが低くなられたのは、私たちの救いのためである(9節)。キリストは御使いよりも、ちょっと低くなったというのではない。「死の苦しみ」「すべての人のために味わわれた」ということばが暗示しているように、人間の中でも最低の立場を取られた。キリストは強盗殺人犯や奴隷と同じ立場に立たれ、十字架の死の苦しみを味わわれた。そこで私たちの罪を負い、死のさばきという無情の苦しみを味わわれた。

その苦しみは「救いの創始者」としてふさわしいものであった(10節)。「創始者」ということばは「開拓者」と訳すこともできる。北海道にしてもどこにしても未開の地を開拓するのは大変な苦労が伴う。それをやり遂げた開拓者は偉大である。開拓者は飢えや風土病と戦いながら開墾していく。こうした先駆者の血と涙と汗の労苦があって初めて、国は築かれていく。キリストは多くの苦しみを味わい、最後は十字架の苦しみを味わわれたが、キリストは先だって、私たちのために神の国を切り拓いてくださったと言ってよい。

10節では、「多くの苦しみを通して<全うされた>」という不思議な表現にも目が留まる。「全うされた」は、新改訳2017において「完全な者とされた」と訳されている。キリストは不完全な方であったが成長して完全な者とされたのだろうか。1章3節で、キリストはすでに完全なお方として描かれていたのではないだろうか。「神の本質の完全な現れ」と。そう、キリストは完全な神である。では、ここで「完全な者とされた」とはどういうことか。ここでは、キリストが救い主として完全な資格を得るために人間性を身にまとわれたことが意識されている。キリストは人を救うために自らが人とならなければならなかった。そしてキリストは人としての歩みにおいて、どんな誘惑、試みの中でも、罪を犯すことは許されなかった。そうしたら、救い主の資格を失うからである。そしてまた、父なる神のみこころである十字架を避けてしまうことはできなかった。もし避けてしまったら、私たちの罪の身代わりになれないからである。キリストの人としての歩みを振り帰ると、キリストは荒野において飢え渇きを経験したが、欲望に屈することはなかった。キリストは誹謗中傷を限りなく浴びたが、憎しみ、恨みを抱くことは一度もなかった。みこころに外れた行動は一度も取らなかった。十字架刑を前に、恐怖にもだえ苦しんだが、逃避することなく、十字架の道を選ばれた。十字架の上で霊肉ともに極限の苦しみを味わわれたが、最後まで耐え忍ばれた。こうして、人間のからだを持たれたキリストは、多くの苦しみにあっても、試みに一度も屈することなく完全な救い主の資格を得られた。

キリストの苦しみは私たちの救いのためであったが、これより後半は、キリストが人間となり苦しんでくださったことが私たちにどのような益をもたらしたのかを、具体的に四つに分けて見ていきたい。

人としてのキリストの苦しみがもたらした益の第一番目は、私たちはキリストの兄弟とされた、ということである(11~13節)。私たちは信仰によって神の子とされる恵みにあずかったわけだが、キリストは何のてらいもなく、11節で言われているように、私たちのことを「兄弟」と呼んでくださる。申し訳ないような恵みである。私たちから見ればキリストは「長子」である。私たちはキリストと兄弟の契りを結んだ。キリストは御使いよりも偉大なお方であるにもかかわらず、人間として歩まれ、人間の代表として十字架の苦しみを受け、救いのみわざを成し遂げ、血を分けた兄弟のようになってくださった。

人としてのキリストの苦しみがもたらした益の第二番目は、私たちは死の支配から救われた、ということである(14~15節)。死の支配者は、ここで悪魔に帰されている。この手紙はヘブル人への手紙、すなわちユダヤ人宛てであるわけだが、死の支配者が悪魔であるということは、ユダヤ人にとって当然のこととして受け取られていた。彼らになじみの深い「ソロモンの知恵」という文書には、次のような文がある。「神は人を朽ちないものとして造り、ご自身の本性にかたどった人を造った。しかし悪魔のねたみからこの世に死が入った。そしてその配下にあるものは死を味わう」。悪魔は死の支配者である。悪魔によってこの世に死が入ったのである。けれども、日本人をはじめ、一般の人は、死は人間にとって自然なものとして受けとめてしまっている。けれども、聖書はそう教えていない。死は自然なものでも何でもない。そして死に屈服する必要はない。キリストは人となり死を味わわれた。そのことにより悪魔に勝利し、死を滅ぼされた。「キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました」(第二テモテ1章10節)。

人としてのキリストの苦しみがもたらした益の第三番目は、キリストは私たちを親身になってあわれみ、助けることができるということである(16~18節)。キリストはすべての点で私たち人間と同じようになられ、同じ生活をし、人間としてあらゆる誘惑、試みを経験され、死の苦しみまで味わわれた。キリストがわからない誘惑、試み、痛み、苦しみがあるだろうか。無い。苦しみの生涯を通られたキリストは、人間の気持ちを察してあわれみ、愛情を示される。そして、ふさわしい助けを与えてくださる。

16節と18節には「助ける」という表現がある。訳は「助ける」で同じだが、原語は、16節と18節では別の原語が使われている。16節の「助ける」<エピランバノー>は、8章9節で「手を引いて」と訳されている。福音讃美歌399番に「真実な御手に引かれて歩もう」というくりかえしの歌詞がある。主は手を引いてくださるお方。<エピランバノー>には、もともと「つかむ、握る」という意味がある。助ける形の基本形である。皆さんも、つかまれて助けられた経験を、いろいろとお持ちだろう。主は、助けの手を差し伸べて、つかんでくださるお方である。マタイ14章29~31節をぜひご覧ください。ペテロがガリラヤ湖上で沈みかけたとき、キリストは助けの手を差し伸べて、彼をつかんでくださった。「つかんで」と訳されている原語は<エピランバノー>である。

では、もう一つの「助ける」を見よう。18節の「助ける」<ボエーセオー>は、「呼び声」ということばと「走る」ということばの合成語である。誰か助けて~という呼び声を聞いて、走って助けに行くというイメージ。私たちの呼び声は主に届く。そしてふさわしいタイミングで、ベストの方法で主の助けがある。

18節にもう少し目を落としたい。18節では「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので」の「ご自身が」が原文では強調されている。それは試みられているあなたたちを助けることができるんだぞ、ということを強調するためにである。新改訳2017の訳は、原文の意を酌んだ良い訳になっている。「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです」。このみことばを真摯に受け止めよう。

人としてのキリストの苦しみがもたらした益の第四番目は、私たちの罪は赦された、ということである。「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです」(17節)。大祭司は、民の贖いのための民の代表である。キリストは私たちの代表となるために、人間となられた。私たちと同じく、血と肉を持たれた。そして人間の一員として歩まれた。私たちと違う点は一つあり、それは罪がないということである(4章15節)。そのことのゆえに完全な大祭司となられた。そして十字架の上で、罪のためのいけにえをささげられた。旧約のいけにえの規定を見ると、欠けのないもの、傷のないものでなければならなかった。その欠けのない、傷のないいけにえとは、罪のない聖いご自身のからだであった。キリストは十字架の上でご自身をささげ、肉を裂き、血を流された。「いのちとして贖いをするのは血である」(レビ記17章11節)とあるからである。このためにも、キリストは血と肉をもった人間とならなければならなかった。そして、この罪の赦しが、キリストが人間となり苦しんでくださったことの益の最大のものと言ってよいだろう。また、このことが、しばらくの間、御使いよりも低くならなければならなかった最大の理由である。

1章では、御使いにもまさるキリストの偉大さについて学んだ。2章では、御使いよりも、しばらくの間、低くされたキリストの姿と、なぜ低くされたのか、なぜ低くなられたのか、ということを学んだ。キリストが低くなり人間となって苦しんでくださらなければ、福音は福音とならなかった。キリストがまことの人となり、身代わりのいけにえとして十字架についてくださらなければ、私たちの救いはなかった。それだけではない。キリストは人としての苦しみ、試みがわかっているので、信じる者をあわれみ、助けることができるお方である。キリストは最高のお方である。私たちはこのキリストとキリストのみことばに、信仰の錨をしっかりと下ろして歩んで行こう。