本日より、ヘブル人への手紙の講解メッセージを始める。この手紙の特徴は何だろうか。三つにまとめて挙げることができるだろう。第一番目の特徴は、この手紙は、イエス・キリストの卓越性、すなわち、キリストが偉大なお方であることを紹介していることに特徴があるということである。私たちが住んでいる世は、いつの時代でも、キリストを低く見、小さな者にしてしまう。世はキリストを優しい人物としては見てくれても、それ以上ではなかったりする。ヘブル人の手紙の著者がキリストの偉大さに強調を置かなければならなかったということは、古代教会において、すでに、キリストを低く見る動きがあったからである。キリストを人間と同レベル、また御使いと同レベルにまで下げた見方が生まれてきていた。4節の「御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました」という発言の背景には、キリストが教会内でも等身大に見られていないということが背景にある。使徒ヨハネは手紙の中で、ひそかに忍び込んできた異端が、イエス・キリストから神性を剥奪した問題を取り上げている。使徒パウロはガラテヤ人の手紙の中で、救われるためにはキリストを信じるだけでは足りないと主張する人々の問題点を取り上げている。彼らは、キリストを不十分な存在にしてしまっていた。ヘブル人の手紙の受取人たちは、キリストに対して異端的な見方までは至っていないようだが、どことなくキリストを、今一つの存在にみなしてしまっているようである。1章は御使いについて言及が多数ある。それは、御使いについて説き明かすためではない。カトリックの人たちがマリアを強調するように、カリスマ派の人たちは御使いを強調する。ヘブル人への手紙1章は良く取り上げられる箇所である。しかし、良く見ると、御使いを強調したくて書いているのではなくて、その逆で、キリストが御使いよりもまさるお方であることを示すために書かれている。4節では御使いよりも「さらにすぐれた」「まさる」と言われており、5節及び13節では、「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたのでしょう」とキリストを高く上げようとしている。キリストの卓越性、それを伝えたい。コロサイ人への手紙では御使いへの言及があるが(2章17,18節)、それは御使い礼拝を戒めるためである。高められるべきはキリストである。キリストの卓越性がないがしろにされているということについてだが、当時から現代に渡って主張されている誤ったキリスト観は、キリストは神と同一ではなく天界から遣わされた存在であるとか、天使であるといったものである。現代の異端はまさしくそうしたことを主張し、キリストの御名を汚している。またキリストを上級の聖人扱いで終わる見方も多い。教会に集っている人々は、そこまでひどい見方をしていなくとも、今一つ冴えない見方しかしていない場合がある。キリストの偉大さ、権威、また、その人格の素晴らしさを、今一つ信じ切れていないという問題である。

この手紙の第二番目の特徴は、試練の中で信仰の成長が阻まれている信者を励ますために書かれているということである。彼らは、元の状態に逆戻りしないまでも、様々な試みの中で、信仰は停滞し、霊的成長は止まりそうになっていた。全体として足踏み状態。中には、信仰を捨てそうになっていた者たちもいた。著者はその足踏み状態、停滞状態を打破する必要性を感じていた(2章1節)。

この手紙の第三番目の特徴は、ユダヤ人キリスト者の信仰が保たれるためということがある。この手紙はユダヤ人キリスト者を意識して書かれている。その場合のユダヤ人とは、イスラエルに住むユダヤ人ではなくて、離散のユダヤ人で、場所はローマ辺りが考えられている。読者のユダヤ人たちは、キリストへの信仰が揺らぎ、もとの宗教であるユダヤ教に逆戻りする危険すらあった。現代でも、キリスト教からユダヤ教に改宗するとか、キリスト教からイスラム教に改宗してしまうという残念な人たちがいる。こういう人たちは、キリストを預言者程度にしかみなせなくなっている。またニューエイジムーブメントに流れていってしまう人たちもいるが、彼らはキリストを霊的進化を遂げた人物扱いにしてしまう。こうした人たちに共通していることは、キリスト観、キリスト像というものが聖書的でない、ゆがめられてしまっているということである。しっかりとみことばを理解し、本当の意味でキリストにとどまることが私たちに求められている。

この手紙の著者もユダヤ人キリスト者のようである。著者名は記されていないので誰であるかわからないが、アポロないしパウロの可能性が高いと考えられている。

1節と2節前半は、神の啓示について語られている。私たち人間は無意識のうちにも神を求める。神を知ろうと試みる。でも結局、想像の域を出ることなく、その多くは的外れとなる。有限の人間が無限の神を知ろうとすることには限界がある。では、私たち人間はどのようにしたら神を正しく知ることができるだろうか。神ご自身が知らせてくださることを待つより他はない。すなわち、神の啓示に頼る、信頼を置くということである。もし神の啓示に依拠しなければどうなるのか。神でないものを神と呼ぶようになる。実際、人類は、化け物を含め、数億の存在を神と呼んできてしまった。だから、神ご自身が、人間のことばで、わかるかたちで啓示してくださらなければ、神を神として知ることができない。

旧約時代は、神は「預言者たちを通して」啓示してくださった。「預言者」とは、神の代弁者のことであるが、旧約聖書は預言者の書物である。預言者を通して神のことばが語られ、それが記されてきた。「いろいろな方法で」とあるが、旧約聖書は、歴史書、儀式、詩文と、様々な方法で書き記されている。そして神の啓示は「終わりの時」の「御子によって」完全なものとなった。キリストも預言者として神のことばを語られたが、ヨハネによる福音書1章で記述されているように、キリストそのものが神のことばであった。「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネ1章1節)。キリストそのものが神の究極の自己啓示。神は人となられ、人間の前に出現し、人間に神の本質を示し、神のことばを語られた。旧約時代の啓示は、神の真理の断片的な啓示、部分的な啓示と言えるが、キリストは神の真理のすべてを完全に啓示された。

2節後半と3節は、キリストは預言者よりも御使いよりもすぐれたお方として、七つの事実がとり上げられている。①キリストは万物の支配者(2節後半)「万物の相続者」の「相続者」は、「支配者」というニュアンスのあることばである。キリスト預言の詩篇2編8節では、「わたしは国々をあなたのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える」とある。この秋田の地も誰の所有なのか、聖書は答えを出している。②キリストは万物の創造者(2節後半)。③キリストは神の栄光の輝き(3節前半)。「輝き」とは光源から生じる光のことである。光源である太陽から光を分けることができないように、父なる神から御子を分けることはできない。それは分離できない一つの関係である。それは続くみことばでも語られている。④キリストは神の本質の完全な現れ(3節前半)。「本質」は「実体」とも訳せることばで、原語は<ヒュポスタシス>。この<ヒュポスタシス>ということばは、古代教会において、キリストが神であることを証する用語として非常に重要視され、有名なことばであった。キリストの実体は神であるということを肝に銘じたい。⑤キリストは万物の保持者(3節前半)。創世記において神はことばによって世界を創造されたことが記されているが、ここでは御子が「力あるみことばによって万物を保って」おられることが記されている。キリストのことばは、全宇宙を保持する力がある。現実に、今、その力を行使しておられる。人間がそれを信じていないだけである。⑥キリストは罪のきよめを成し遂げられた(3節後半)。キリストの働きは、世界の創造、保持、支配ということに限らず、そこに住む人間の罪をきよめるみわざを成し遂げられたということである。それはご自身が十字架の上で血を流し、犠牲となるという、万物の支配者らしからぬ、へりくだった愛のみわざであった。⑦キリストは大能者の右の座に着かれた(3節後半)。エペソ1章20,21節では、「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりではなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました」と言われている。これは究極の高さである。そして「右の座」ということだが、オリエントの世界において、王の右側というのは、最も偉大な栄誉の座であった。王のそばに座るというだけで名誉であったが、王の右側というのは、王の力、権威、尊厳、地位を、王と分かち合うことが許されたしるしであった。右側に座る人物は、王の代理人として王と同じ実権を持つ者とみなされた。もちろん、ここでの「右の座」という表現は、人間にキリストの偉大な権威をわからせるための、人間のことばでの限界ある表現だろう。心に留めなければならないことは、キリストの究極的な絶大な偉大さである。

以上の、キリストの七つの姿を見るだけで、三文小説家の安っぽいキリスト像は砕け散ってしまう。著者はこれまでの記述を踏み台にして、4節以降、キリストを御使いよりもまさるお方として、念を押して提示する。キリストと御使いの違いは、例えるならば、王家の子どもと、その王家の召使のような違いである。大きな格差がある。

5節では御父と御子の父子関係について言われている。主に詩篇2編7節が引用されている。ここで、「きょう、わたしがあなたを生んだ」と言われているが、少し説明を加えておこう。ここでは、キリストに始まりがあったということを言いたいのではない。ある方は「生んだ」をキリストの人としての始まり、すなわちベツレヘムでの誕生と理解する。ある方はキリストの公生涯のスタート、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けた時のことであると言う。確かにその時、天から、「これはわたしの愛する子」という声がかかった。またある方は、キリストの復活の時のことであると言う。確かに、使徒13章33節にはこうある。「神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。詩篇の第二編に、『あなたは、わたしの子、きょう、わたしがあなたを生んだ』と書いてあるとおりです」とある。コロサイ1章18節では「死者の中から最初に生まれた方です」と言われている。さらにある方は、キリストの永遠の昔の出生、すなわち、時間を限定しえない永遠の昔からの子としての立場ととる。コロサイ1章15節には「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより、先に生まれた方です」とある。コロサイ人の手紙のこの節は、キリストの永遠の昔からの出生を告げている。「きょう、わたしがあなたを生んだ」というみことばを、いずれに解釈するにしろ、キリストは始まりがあった御使いのような被造物ということではなく、6節以降で強調されていることは、キリストの永遠性、また不変性であるということである。

7節では、御使いが風や火に形容されている。風や火は力強いように見えても、やがては消える。御使いという存在は力あるように見えても、風や火のような実体にすぎない。これは、キリストの永遠性、不変性を際立たせるための描写である。

8,9節は詩篇45編の引用である。昔から詩篇45編はメシヤに適用されるとして理解されてきた。ここで「神よ」という呼びかけがキリストに適用されていることをみのがしてはならない。キリストの実体は神である。

10~12節は、詩篇102編の引用である。ここでは朽ちる被造物と朽ちないキリストが対比されている。被造物が、古びて、色あせ、しみだらけになって捨てられる着物にたとえられている。被造物は時間に服し、変化し、滅びてしまう。しかし、キリストは不変で、永遠である。「しかし、あなたは変わることなく、あなたの年は尽きることがありません」(12節後半)。

著者は13~14節で、キリストの至高の権威、地位に言及して1章を閉じる。キリストは私たちと同じようであったけれども、私たち以上に霊的進化を遂げた存在だとか、神に造られた被造物で他の御使いと同等の存在だとか、そういう主張を許さない。

私たちは聖書に啓示されたキリストの姿を知るときに、キリストをただの偉大な人物や、御使いと同等のレベルにまで引き下げることなど許されない。キリストは万物の支配者。力あるみことばによって世界を創造し、同じく力あるみことばによって世界を保持しておられるお方。栄光の主なる神。十字架につき罪のきよめを成し遂げ、天に昇り、大能者の右に着座されたお方。天においても地においてもいっさいの権威を持ちたもうお方。王の王、主の主。恐れられるべき、御稜威をまとっておられるお方。御使いを含めて、すべての被造物がこのお方の前にひれ伏さなければならない。「神の御使いはみな、彼を拝め」(6節)。

私たちのキリスト像は、まだ歪んでいるかもしれない。足りないのかもしれない。キリストを小さな神にしてしまっているのかもしれない。キリストをふさわしく知り、そして心からキリストを礼拝していこう。黙示録には、世の終わりの時代の描写として、「悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け」とある(黙示録9章20節)。人々は神であると思って、悪の御使いである「悪霊ども」を拝み続けることが暗示されている。パウロは次のように述べている。「私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません」(第一コリント10章19,20節)。悪霊とは悪魔をかしらとする堕落した御使いたちである。けれども、彼らは、神々を装って、自分たちを礼拝させる。私たちの働きは、人々を神々からキリストに立ち返らせ、キリストの礼拝者となっていただくことである。そのためにも、私たちは、さらにキリストを知るものとなろう。

私たちが礼拝し、仕えるべき存在は、ただ主キリストである。キリストがどのようなお方であるかを、これからヘブル人への手紙全体を通して学び、私たちの心を、キリストで満たしていきたいと思う。キリスト教とはキリスト、唯一の救い主とはキリスト、全き愛とはキリスト、まことの神とはキリストである。