本日より、ダニエル書から5回シリーズでダニエルたちの信仰から学びたいと思っている。ダニエル書の特徴は、全世界、全歴史に対する神の主権を明らかにしているということが一つ挙げられる。ダニエル書の預言から、それを受けとめることができる。もう一つは、異教社会で信仰をどのようにして貫けばよいのかということを知ることができるということである。今日から始まる5回シリーズでは、この二番目の特徴、異教社会で信仰をどのようにして貫けばよいのかということを、特に意識したいと思っている。

まずダニエル書の時代背景を簡単にご説明したい(1,2節)。時代はイスラエルの南ユダ王国の末期である。当時、権勢を誇っていたのはバビロン王国であった。神さまは、バビロン王国を不信仰なユダ王国を裁くために用いられた。ユダ王国は偶像崇拝が蔓延し、退廃していた。バビロンは紀元前605年にアッシリヤ帝国を滅ぼした後、同年に、第一回のエルサレム攻略を展開する。この時、神殿の器物やダニエルら少数の少年をバビロンに移した。これが通常、第一回捕囚と言われる。捕囚は計三回あり、第一回捕囚が紀元前605年、第二回捕囚が紀元前598年、第三回捕囚が紀元前586年、この年がエルサレム陥落の年である。神殿は焼失し、国は完全に滅びる。

ダニエルたちは最も早い、紀元前605年の第一回捕囚の時に連行された。彼らは激動の時代を生きる信仰者でたちである。信仰者といってもまだ少年。しかも祖国ではなく、異教の地で暮らさなければならなくなる。神の守りの手がなければその先はなかっただろう。別の視点から見れば、神はどんな不信仰の時代でも、少数の真実な信仰者を残しておかれるということである。ダニエルたちがその良い例である。

2節から当時の戦いの特徴について、簡単に説明しておく。バビロンの王ネブカデネザルは、エルサレムから奪い取った神殿の器具を、自分の偶像の神殿の中に持ち込んだ。当時のバビロンの主神はマルドゥクと言った。別名ベル。マルドゥクの神殿の中に敗戦国の神ヤーウェ礼拝の器具を安置。これは、万物を創造した唯一の神ヤーウェを信じる者たちにとって屈辱的な出来事である。当時の戦いは神々の戦いとして位置づけられていた。バビロンにとっては、「マルドゥクが勝利した!ヤーウェは敗れた!やはりバビロンの神は偉大だ!ヤーウェは取るに足らない神だ」となっていたはずである。こうした敗戦の直後、戦勝国に、年も浅い少数の信仰者たちがほうりこまれる。お前たちの神はなんだ、と卑しめられる環境に置かれる。異教の地での生活に全く不安がなかったといったらうそになるであろう。頼れる大人の信仰者もそばにいない。そして厳しいことが待っていた。

捕虜に対する処置は、生かして置く場合、たいていは同化政策である。それは、ことばも習慣も宗教も同じくしてしまおうというものである。それを象徴しているのが、7節の改名である。「ダニエルにはベルテシャツァル、ハナヌヤにはシャデラク、ミシャエルにはメシャク、アザルヤにはアベデ・ネゴ」。4人の少年はバビロン名に改名される。しかも、それらの名前はバビロンの偶像に関係する名前である。「ベルテシャツァル」は、ベル、またはネボという神が関係していると言われる。「シャデラク」には月神アクが関係していると言われている。マルドゥクが関係しているという説もある。「メシャク」も月神アクが関係していると言われている。「アベデ・ネゴ」にはネボの神が関係している。ようするに、彼らは、バビロンの偶像に仕えることを要求されているということである。しかし、彼らは与えられた名前に影響されることなかった。

信仰者にとって同化ということばを全て否定的に捕えるべきではないだろう。例えば、主イエス・キリストも同化された。ユダヤ人となり、人間の生活を営むことをよしとされ、西アジアの文化を許容し、ヘブル語、アラム語を話し、衣食住の習慣を周囲に合せ、宣教活動をされた。けれども境界線を引くことを忘れなかった。妥協できないことは妥協できないと。例えば、パリサイ人たちが守っていた無意味な伝統的な言い伝えを守ることはしなかった。パリサイ人たちはそれを見て憤慨することがあった。私たちの場合、日本人として生きて行くが、不義や偶像崇拝に同化することはできない。

偶像崇拝に関して、現代において問題となるのが多元主義と包括主義である。「多元主義」というのは、宗教はどれも同じよ、という宗教観。何を信じても一緒、という信仰観。日本はまさしくこれである。結果、すべての神々を認め、すべての神々に祈願し、頭を下げる。「分け登るふもとの道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」で、どの宗教を信じても同じ神に到達する、どの宗教を信じても等しく救われる、そんなところである。ある人は、日本は宗教のスーパーマーケットと呼んだが、背景には、こうした多元主義がある。そして、もう一つ世界中に広まりつつあるのが、「包括主義」。先ほどの多元主義が、どの宗教もみな同じよ、のどんぐりの背比べとすれば、「包括主義」は、キリスト教が頭一つ飛び抜けているけれども、他の宗教を信じても救われうる、という考え方。ローマ・カトリック、その他、聖書信仰に立たないプロテスタント教会の立場である。他の宗教にも救いや、真理のかけらを認めるわけなので、他宗教の神々の前で頭を下げることは問題ないとしてしまう。偶像巣杯の許容である。けれども、冷静になって考えてみよう。すべての宗教が創造主を認めているのだろうか。いや、違う。それどころか、オカルト的な神霊や、死んだ人の霊を神としている。だからモーセの十戒でも命じられている。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために偶像を造ってはならない。それらを拝んではならない」(出エジプト20章3~5節)。また、神と言われているすべての存在が罪の問題を解決してくれるのだろうか。それも違う。十字架という罪の身代わりで、罪からの贖いのみわざを成し遂げてくださったお方はイエス・キリストだけである。だから使徒ペテロは宣言している。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないのです」(使徒4章12節)。

ダニエルらは、明らかに多元主義にも包括主義にも立たなかった。ダニエルたちに対する実際的な同化政策は3~7節で見ることができる。4節に「カルデヤ人の文学とことばを教える」とあるが、カルデヤ人は、天文学、占い、魔術の知識を持っていた。創世記11章31節を見れば、イスラエル人の先祖アブラハムは「カルデヤ人の地ウル」に住んでいて、そこで神の召しを受けて旅立ったことがわかる。「文学」には神話や伝説が含まれており、彼らはバビロンの神々について学んだだろう。「ことば」とは、おそらくシュメール語であると思われる。その他の原語も学んだだろう。養育期間は5節を見れば「三年間」であったことがわかる。当時の穏当な教育の期間であった。目的は5節から、王に仕えさせるためであったことがわかる。

さて、彼らは中身も行動も、すっかりバビロン人になってしまっただろうか。そうではなかった(8節)。日本の朝鮮統治の時代、ご存じの方もおられると思うが、同化政策に出た。ことばも文化も変えようとした。愚かにも日本の教会もこれに加担した。朝鮮人に伝道するとは朝鮮人を日本国民に同化させることだ、それが彼らの幸せになる、と公然と主張したキリスト者たちもいた。そして彼らに日本の国家神道を強要した。それは偶像崇拝にならないから神道を受け入れなさいと。信じられないことが歴史的事実としてある。それを拒んで殉教していった朝鮮人の方々もおられた。

ダニエルたちが拒んだのは、偶像崇拝に関することだった。「王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め」とある。聖書はごちそうを食べてはいけないとか、ぶどう酒を飲んではいけないとか言われていない。彼らがこれらを拒んだというのは、信仰上の理由から来ている。王の食卓に出す上等な食べ物は神殿経由で来た。それらはまず、バビロンの守護神たちに献げられた。マルドゥク、ネボ、イシュタルなどに。ぶどう酒は献酒として、やはり献げられた。彼らはユダヤ人だったので、レビ記などに見られる食規定によって食べられないものもあったと思うが、それ以上の理由があったことは明らかである。偶像崇拝との関係で言われている。一説によると、神々に献げられた食事を食べ、健康になると、それは神々のおかげとされたと言われている。それは初代教会時代も同じで、偶像の宮に献げた肉は、ご利益があるとみなされていた。第一コリント10章ではこうした問題を扱っている。偶像の宮で、偶像の前で、偶像に献げた肉を食べる習慣があったが、それは神々との交わりを意味していたので、それは悪霊との交わりだから止めるようにパウロは告げている。また、偶像に献げられた肉が市場で普通に売られていた。古代人はその食べ物の中に悪霊が入っていて、それを食べることによって悪霊が体内に入ると信じていた。それは迷信的な考えであったわけである。また市場に売られている肉のどれが偶像に献げた肉でどれがそうでないか、わからないこともあった。パウロはこのケースにおいては詮索しないで食べてかまわないとアドバイスしている。ただし、その肉は偶像に献げた肉ですよ、と知らせた人がいるなら、その知らせた人のために食べないようにとアドバイスしている。その理由の一つは、その人につまずきを与えないために。もう一つは、その人の良心を汚さないために。その人が一緒に食べてしまって、「どうしよう、食べてしまった」となるなら、その人の弱い良心を汚すことになってしまうわけである(第一コリント8章参照)。

直接的な偶像崇拝でなくても、避ける領域があるのは確かである。神道では、神社や神棚に供える穀物を神饌というが、神饌には神の霊が宿っており、その穀物を食べることによって、神の霊を受け、自分を神格化できる、と考えられていた。日本の文化は宗教に根ざしているものが多いが、それを避けるかどうかの判断基準は、その行為に宗教色が残っているかどうかということが一つあるだろう。例えば「お年玉」であるが、元々は正月に供えられた鏡餅のことを指し、鏡餅には年神が宿っていて、それを食べると力が出るというのが由来。それがいつしか子どもたちに挙げるお正月の小遣いとなった。今は、子どもたちにお年玉を挙げることを問題視するキリスト者はいないだろう。しかし、人によってはグレーゾーンに感じる習慣、風習もある。それに関しては、その人の信仰の確信に基づいて行動すべきである。「自分が、良いと認めていることによってさばかれない人は幸福です。しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です」(ローマ14章22,23節)。

ダニエルの願いは、宦官の長を困らせるものであった。しかし、ここで、神様の驚くべきご配慮を見る(9節)。異邦人社会の中で、神はダニエルたちの味方になってくれる人を備えてくださった。同じようなことを私たちも経験することがあるだろう。神さまは私たちの周囲に、未信者の方であっても、助けとなる方を備えてくださっている。神さまのあわれみである。「ダニエルを愛し」の「愛し」と訳されていることばは、原語で<ヘセド>。通常は「恵む」と訳されることが多く、神さまからの忠実で誠実な愛を描写するのに用いられることばである。だからこれはいいかげんな愛ではない。ダニエルたちは、神によって信頼できる守り手を異邦人の中から得た。ダニエルの願いは宦官の長の立場を危うくする可能性があった。そこでテスト期間を教育係に申し出る(12,13節)。「私たちに野菜を与えて食べさせ、水を与えて飲ませ」に関して、コメントしておくと、「野菜」と訳されていることばは、「種」の複数形。大麦、小麦、そして豆類も考えられる。だから緑の野菜だけ想像する必要はない。いずれにしろ、ダニエルは神からの確信を経て、信仰によってこの粗食を提案したのだろう。そして彼らの願いどおり、彼らの健康、体力は保たれた。彼らはバビロンの神々によってではなく、彼らの信じている神によって健康が保たれたことも証されたわけである。

彼らは偶像の名前をもらい、生活のすべてが神々に結びつけられるような環境に置かれていた。けれども、彼らはしっかりと、自分たちのまことの神にある立場を貫いた。同化はするが妥協はしない。異教の地にあっても神の民として生きる。ちゃんぽんの混淆宗教になってしまうことを嫌い、ちゃんと神にあってボーダーラインを引いて生きた。それくらいいいだろう、ペコッと一回頭下げるだけだしとか、食べものの話だしとか、色々言われたかもしれないが、拒否することは拒否し、妥協、浮気はしなかった。霊的姦淫はしなかったということである。

だが、自分は神を信じている、偶像崇拝はしない、と主張しても、独善でひとりよがりで、生活も仕事ぶりもなっていなく、軽蔑されている状態ではぜんぜん証にはならない。しかし、そうでなかったことは明らかである。彼らは信頼を勝ち取った。

神さまは、彼らが異教社会にあってご自身の栄光を現す者たちとなるため、彼らにすぐれた知恵を与えられたこともわかる(17節)。私たちも、神さまに与えられている知恵、知識、賜物があるだろう。それをもって神と人とにお仕えしよう。また、元旦礼拝で詩編19編から学んだように、みことばは、たましいを生き返らせ、わきまえのない者を賢くし、人の心を喜ばせ、人の目を明るくする、神の知恵なので、みことばで心を満たそう。

ダニエルたちは宦官の長の推薦もあっただろう。王に謁見し、面接合格で、王に仕える者たちとなる(18,19節)。まことに興味深いのは20節の記述である。「王が彼らに尋ねてみると、知恵と悟りのあらゆる面で、彼らは国中のどんな呪法師、呪文師よりも十倍まさっているということがわかった」。バビロンは宗教的な国で、王たちは、国政をどうするかという時、呪法師、呪文師たちの指示を仰いだ。けれども、王の心はダニエルたちに向けられた。彼らの神にある知恵が秀でていたからである。「呪法師」は英語で<マジシャン>である。彼らは夢を説き明かすこともしていた。「呪文師」は<エクソシスト>で、魔除け祈祷師のことである。無病息災といった祈願をする。王から民衆に至るまで、何かあると、呪法師、呪文師の指示を仰いだと言われる。考えてみれば、日本も古代から同じようなことが行われてきた。シャーマンのところに足を向け、祈祷をしてもらい、指示を仰いだ。現代でも同じように、霊媒師、霊能者に足を向け、また占い、お守り、おみくじ、お祓い、願掛けといった古来からある手段に頼っている。私たちの役目は、やはり、そうした人たちの心が神さまに向かうように、神さまと神さまのことばを伝えて行くことにある。

日本人の宗教意識調査によると、おみくじを引いた、お守りを持っている、は大多数である。初詣にも多くの人が出向く。では、日本人は宗教的民族なのかと言うと、仏教、神道、キリスト教にコミットしている人はわずかという矛盾しているような調査結果となる。どのようなことに不安を抱くかという調査では、健康のこと、不慮の災害、家族のこと、仕事のことと続く。その不安の解消の手段の一つとして宗教を利用するのだと言う。宗教は現世の不安を解消するためにあればいいもので、自分の人生をゆだねるとか、その価値にゆだねるとか、そういうものではないということが見えてくる。実に現世主義的である。だが私たちは、日本人のこうした現世主義の特徴を批判しているだけではだめで、人々の現世での不安に耳を傾け、ほんとうの解決は聖書にあることを告げていきたい。人々は家庭や職場で疲れ、傷つき、心が病んでいる人が多い。主キリストもそうした人たちに時間を割き、心を砕いただろう。

私たちは呪法師、呪文師よりも、聖書を通してすぐれた知恵をいただいているし、これからもいただくことができる。そしてキリストの十字架のすばらしさも知っている。キリストは復活され、勝利者となられたことも知っている。使徒パウロは「キリストは神の力、神の知恵」とまで言っている(第一コリント1章24節)。

私たちは、異教社会にあって、偶像崇拝に妥協することは避けつつ、証しとなるふるまいをし、隣人に仕え、神の知恵を示し、神の栄光を現す者たちとなっていこう。