今年最後の礼拝を迎えた。一年間、それぞれが主に守られ、教えられ、また主の証人として用いていただいたことを感謝したい。一年間を振り返れば、この世は様々なことがあった。自然災害、社会の変動、そうしたことはこれからも続くだろう。個人的にも、何がどうなるのか予測がつかないことがある。けれども私たちは、世界と歴史の主権者であられ、私たちの父である神に導いていただくことができる。本日、2018年最後の礼拝は、新しい年を迎えるにあたり、ゆだねる信仰について学びたいと思っている。中心聖句は8節の「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」である。

詩篇4編はダビデの苦難の体験に基づいている。ひとつ前の詩編3編の表題を見ると、「ダビデがその子アブシャロムからのがれたときの讃歌」となっているが、イスラエルの王ダビデは息子アブシャロムの謀反によって、王の地位は危うくなり、命も狙われ、一時、逃亡生活を余儀なくなされた。その体験が4編に反映されている。

私たちはどうだろうか。近所や部落の人から、あらぬうわさを立てられる、中傷を浴びせられる、ということがあるかもしれない。職場で、ねたみから攻撃される、仲間はずれにされるということがあるかもしれない。友だちと思っていた人から裏切られるということがあるかもしれない。場合によっては、身内から身に覚えのないことを言われることがあるかもしれない。自分はまちがったふるまいはしていないはずなのにどうして、と悩むことになる。義の苦しみである。私たちはそういう場合、どうしたらいいだろうか。もちろん、非難してくる人と話合いの時をもつ、信頼できる人に相談する、ということがあるだろう。しかし、私たちクリスチャンには、神に祈り、すべてを吐露することができるという幸いがある。

「私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神」(1節a)。ダビデは、「私の義なる神」と神を呼んでいる。神は何が正しいかご存じである。事の真偽をご存じである。世間が捻じ曲げようとも、神は真実をご存じであられる。彼は、義なる神に判断とさばきをゆだね、助けを求めている。義の苦しみは義なる神にゆだねるのである。自分の中で、ただもんもんとしていたり、ただ人に訴えるだけの人は多い。けれども、私たちは、神に向かうことができる。神は私たちの立ち座りを含め、私たちのすべてをご存じである。隠れた言動も。そして相手方のこともすべてご存じであられる。その偽り、不正直もすべて。神の前にはすべて透明で、神は何がうそで何が本当かを知っておられる。神は義であるので、義なる神の前に、人間のこざかしい弁解、自己中心的な判断、そして正当性を装った巧妙な策略も通じない。神はすべてを見抜かれ、ご自身の義の秤にすべてをかけられる。罪とは、神の義の基準から逸れることを意味する。何が罪でそうでないかは人間が決めることではなく、神が決めることである。勝手に悪者にされ、誹謗中傷を浴びているダビデは神の義に訴えている。自分の罪ゆえに引き起こされた苦しみは自業自得なので、悔い改めて赦しを請うより他はないだろう。しかし、ここでは、そうでない場合の苦しみである。彼は神の義に訴え、助けを求めている。

ダビデは、過去における神の助けにも思いを馳せている。「あなたは、私の苦しみのときに、ゆとりを与えてくださいました」(1節b)。新改訳2017は「追いつめられたとき、あなたは私を解き放ってくださいました」と訳している。「苦しみのときに」は「狭い」という意味のことばが使われており、狭いところに追いつめられた状況、すなわち「窮地」を意味している。「ゆとりを与えてくださいました」は、「広げる」という意味のことばが使われている。ここから、窮地という苦しみからの解放ということを読み取れる。そのような過去の体験、神の恵みを振り返ることは益になる。

そしてダビデは、神にあわれみを求めている。「私をあわれみ、私の祈りを聞いてください」(1節c)。神のあわれみにすがる。苦しい時の信仰者の姿勢である。

2~5節において、ダビデは敵たちにアドバイスを試みている。ダビデは、「私は正しい。彼らは悪い。神よ。彼らにおびやかされている私を助けたまえ」で終わってはいない。ダビデは、彼らにあわれみをもって語りかけ、彼らが偽りを悔い改め、神に立ち返るようにと願っている。祈りの中で、そのように神に願っていると言っても良い。私たちも、自分が中傷されるとき、私をあわれんでくださいと、ただ自分のことだけ祈るのではなく、相手が真に神に立ち返るように祈ることができたら幸いである。キリストを十字架上で、「父よ。彼らを赦したまえ。彼らは自分で何をしているのかわからずにいるのです」と祈られた。

「人の子たちよ。いつまでもわたしの栄光をはずかしめ」(2節a)とは、王であるダビデを蔑むことは神を蔑むことに等しく、ダビデは神の代理人のような立場にあったことがわかる。2節はキリストの語りかけとしても聞こえて来る。彼らは、「むなしいものを愛し」(2節b)と、頼りにならない人間に望みをかけ、あるいはむなしい偶像に望みをかけていたのかもしれない。「まやかしものを慕い求めるのか」(2節c)の「まやかし」は「偽り」を意味し、敵たちの態度を象徴している。

神は彼らのように、かたくなに罪を悔い改めない者の祈りは聞いてくださらない。ダビデは今の自分の祈りは聞かれると確信している。「知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき、主は聞いてくださる」(3節)。事実、ダビデの祈りは聞かれ、彼は苦境から、敵の手から救い出されることになる。そして敵の策略は打ち砕かれることになる。

「恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ」(4節)。「恐れおののけ」は新改訳2017では、「震えわななけ」と訳されている。より原意に近い訳だと思う。傲慢な態度は捨て、神の前に震撼しなければならない。そして、静まり内省の時を持たなければならない。

「義のいけにえをささげ、主に拠り頼め」(5節)。いけにえをささげる時は血を流すことが伴った。血を流さなければ罪の赦しは無い。義のいけにえは、消極的には悔い改めを意味するだろう。積極的には、これまでの偽りの態度を捨て、主に従う態度を表明することを意味するだろう。私は、2~5節は、キリストに心を向けず、むなしいものを愛し、まやかしものを慕い求める、全人類に対する呼びかけのように思う。ひとりでも多くの方が、キリストの十字架のもとでひざまずくことを願う。

ダビデは、6~8節において、神への信頼を表明している。この詩編は、神への信頼の詩編である。

「多くの者は言っています。『だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか。』主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください」(6節)。「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか」というのは、この国を治めるのはダビデなのかアブシャロムなのかという、混乱した政情が背景にあってのことばであると思われるが、と同時に、いつの時代においても聞こえて来ることばのように思える。キリスト再臨し、御国の王として全世界を治める日が到来するまでは、この声が聞かれるだろう。この世は不安定で混乱しており、絶えず闇の霊気が漂っている。だから、主の御顔の光を求めずにはおれない。

ダビデは苦難と混乱の中にあっても、喜びと平安を抱いている。これが素晴らしい。「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」(7,8節)。ダビデの喜びは半端ではない。収穫の喜びにもまさる喜びを語っている。ある意味、最高の喜びである。そして、「すぐ、眠りにつきます」という深い平安について語っている。人はリラックスできないと眠れないと言われる。そのために、足は冷やすな、枕を選べ、寝る前に目に光を当てるな、夕食は辛い物や脂っこいものを控えよ、カフェインを避けよ、お風呂の入り方はこうせよ、布団に入ったら羊が一匹、羊が二匹と数えよ、その他、いろいろなことが言われている。しかし、ダビデは、リラックスするために、神にゆだねる、という最高の処方箋を伝えている。

そこで、最後に、神の摂理にゆだねる、ということをお話したい。8節は、神の摂理を語るのに引用されることがある。「摂理」とは、神の配慮を意味する。「摂理」は英語で<プロビデンス>というが、語源的には「前に」ということばと「予め見る」ということばの合成語である。神は前を予め見て、すべてを備えてくださるお方である。もちろん、来年のことも。その備えという中身は、私たちにとっての最善である。「摂理」は「配剤」という訳語も当てはめられる。配剤は、「医者がその患者の病状に応じて、必要な薬を調合する」という意味で使われる。漢方医などは、どの漢方とどの漢方を混ぜ合せばいいのか、病状に応じて、ほどよい調合加減というものを考える。そして、その調合したものを患者に出す。神さまも同じである。この人にはこれとこれ、と人によって調合が違う。調合されるものには、甘いものもあれば苦いものもあるだろう。神さまは、思わず嬉しくなるサプライズも調合するが、ちょっとつらく感じる試練も調合する。けれども、すべてが私たちのためである。すべてが神の愛から出ているものである。自然界にたとえれば、山あり谷あり。砂漠あり緑地あり。でもすべては神の御手の中にある。どうすれば最善なのかと、神が備えてくださったものである。神が前を見て、予め備えてくださるものにまちがいはない。有名な第一コリント10章13節には、「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」という摂理、配剤が記されている。試練とともに脱出の道という調合である。医者の配剤は病気が治るためであるが、神の配剤は、私たちの信仰者としての成長のため、キリストの御姿に似て行くためである。もっと大きな視点で言えば、私たちが神の栄光を現すためである。私たちのすべきことは何か。神の摂理にゆだねることである。神の摂理に信頼する時、私たちは平安をいただき、信仰の足取りが確かになる。私たちは、摂理信仰というものが、未来に向かう上では欠かせないのである。落ち着かない現状、不安な現状であるなら、なおさら、私たちは、摂理信仰に堅く立ちたいと思う。そして平安をもって来年に向かいたいと思う。神は前を予め見て、すべてを備えてくださる方である。それらすべては私たちのために益と変えられ、神の栄光に変わるのである。神の摂理の御手に、我が身をゆだねよう。