今日のタイトルは、18節の「しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」からつけさせていただいた。

今日の箇所は、ダニエルとともにエルサレムから捕虜となってバビロン帝国に連れて来られた3人が主役である。

バビロンの王ネブカデネザルは見上げるほど巨大な金の像を作って、拝むことを国民に強要した(1節)。高さ約27メートル、幅約2.7メートル。日本で一番高い像は牛久大仏の110メートル。それよりははるかに小さく感じるかもしれないが、当時にあっては世界一高い像であったかもしれない。ネブカデネザルは2章で巨大な像の夢を見ており、それとの関連があるかもしれないが、ネブカデネザルは、国家権力者にありがちな誇大妄想にとりつかれていたようである。2章で見た夢では、頭だけが金でできていたが、おそらく彼は、頭だけ金じゃ飽き足らなくなって、全身が金の像をイメージして、それを造らせようと考えたのだろう。その金の像は自分の権力の象徴だった。これだけ大きな像であると、表面にだけ金を被せるという手法がとられたかもしれないが、ネブカデネザルは金をかき集めに集め、純金の像に仕上げたかもしれない。もし、こんな像が今も残っていたら、文化遺産になることまちがいなし。

そして奉献式の日が訪れた。この日、ダニエルはどうしていたのかわかっていない。諸説あるが、とにかく、今日注目すべきはダニエルの三人の友である。これら三人は、偶像の神々の名が込められた名前に改名されてしまっていた。だが、「名は体を表す」にはならなかった。全くそうでないことは、今日の記事からも明らかになる。

ネブカデネザル王は恐ろしい命令を出していた。それは、金の像を拝まない者は、火の燃える炉の中に投げ込む、という余りにも理不尽な命令である(11節)。偶像の神の名前を付けられた三人のユダヤ人たちは、バビロンに連れて来られてから一度も神々に仕えようとはしなかった。この時も、態度は決まっていた(12節)。

彼らは、すぐに火の燃える炉の中に投げ込まれてしまうことはなかった。ネブカデネザル王は、彼らがダニエル同様、すぐれた人材であることを知っていたからである。そこで、彼らに最後のチャンスを与える。「もし私が造った像を拝むなら・・・」。しかし彼らの心は少しもぶれない(16節)。原文では「私たちは」が強調されていて、「態度は決まっていますよ。王様が何と言おうと」という決意である。彼らは決然とした態度をとる。彼らはネブカデネザル王を恐れてはいない。彼らが恐れていたのは、まこと唯一の神、天地万物の創造者なる神である。

マタイ10章28節を開こう。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなど恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい」。「ゲヘナ」とはエルサレム南西にある谷で、この頃はゴミだけではなく、家畜や人間の死体焼却場とされていた。常に火が燃えている様は地獄、火の池を連想させた。ここに投げ込まれるのは、ネブカデネザルが設けた火の燃える炉の中に投げ込まれるより、はるかに恐い。

黙示録13章11~18節を見よ。12節の「この獣」とは、世の終わりに現れる偽預言者。「最初の獣」が反キリスト。偽預言者は反キリストの像を造り、それを拝むよう、地上の人々に強要する。この反キリストの像を拝んでしまう人はどうなるのだろうか。黙示録14章9~12節にその答えがある。10節後半に「火と硫黄とで苦しめられる」とあるが、これが火の池での苦しみの描写である。これが獣とその像を拝む者の報いである。私たちが恐れるべきお方は、まことの神であって、獣ではない。

ダニエルの三人の友は、もし神が火の燃える炉の中から救い出してくださらなくとも、絶対に拝まないという決意を表す(18節)。彼らは火の燃える炉の中に投げ込まれるが、御使いの助けがあった。彼らは焦げもせず、以前と全く変わらない姿で、火の中から出てきた(24~27節)。信仰を貫き通した彼らの姿勢は王に認められることになり、それだけではない、彼らの神を侮る者は許されない、という命令が下される(28~29節)。これは、つまり、彼ら少数者の宗教は、この異教の地で公認の宗教となったということである。この道筋を作ったのはダニエルと三人の友である。この王様側の反応から教えられることは、臆せず信仰の態度を明瞭にする者は、最初はどうであっても、尊敬されるに至るということである。信仰が本物だと認められるに至る。ダニエルの三人の友は、信仰告白をことばと態度で貫いた。あいまいにしなかった。弱腰にならず、決然たる態度で、選ぶべき神を選び取った。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、ダニエルにならって、栄えることになる(30節)。

さて、今日の物語に心を留めつつ、時代を戦前、戦時中にまでさかのぼり、国家神道体制下でのキリスト教界の過ちを振り返ってみよう。1890年のこと、教育勅語が公布され、同時に天皇の「御真影」への拝礼が求められることとなった。「御真影」とは、神であるとされる人間の写真である。1891年1月、東京の第一高等学校の教諭であった内村鑑三が教育勅語、御真影に礼拝せよと命じられた時、それを拒み、不敬罪に問われたことは有名である。けれども実は、後日、本意を翻した。彼は体調を崩し病床に伏していたが、陳謝することに同意し、友人に代理として教育勅語に敬礼してもらうことになる。それでも、内村鑑三の態度は勇気のあるほうであった。この当時の日本のキリスト教会は、教育勅語敬礼や神社参拝は宗教行為ではないという見解に傾き、神道イデオロギーの国家権力に妥協していったのである。

日本の朝鮮統治、皇民化政策にあっては、日本のキリスト者たちは政府の手先として働き、神社非宗教を唱え、神社参拝を朝鮮人キリスト者に強要した。この皇民化政策に抵抗した有名な朝鮮人キリスト者に安利淑がいる。彼女の証は「たといそうでなくとも」というタイトルで日本でも出版され、多くの方に感銘を与えた。彼女は自分の心の弱さを嘆く、かよわい女性にすぎなかったが、偶像崇拝を押しつける日本政府に立ち向かい、結果、拘束され、死刑の宣告を受ける。けれども5年後の1945年に出獄となる。

国家神道体制下で、日本でも敢然と抵抗した人たちはいなかったのかということだが、わずかだがいらっしゃった。良く知られているのは、岐阜県の大垣市の美濃ミッションの人たちだった。1933年、日曜学校の生徒の一人が、伊勢大神宮参拝の修学旅行に参加できないと告げた。この12歳の少年と11歳の弟は、クリスチャンとしてそのような偶像崇拝に加わることはできないと明言した。警官たちが宣教師のところを訪れ、戦いの火蓋は切って落とされた。教会の入り口には群衆が押し寄せ、罵詈雑言を吐いた。「天の神さまは助けてくださるというが、お前たちを助けはしないぞ」。そう怒鳴ると、群衆が笑った。市の至る所に「国体護持のため、美濃ミッションに反対しよう」というポスターまで貼られることになった。そして美濃ミッションの記事は新聞の全国版にまで取り上げられ、その見出しには、「美濃ミッションは聖書の神以外いかなる神をも認めようとしない」とあった。宣教師、そして美濃ミッションのメンバーは、決して妥協はしない、と決意を固めていた。「もしそうでなくても」の日本版である。美濃ミッションは、ダニエルの三人の友がそうであったように、不思議にも様々な危害から守られていく。中国との戦争に突入する1937年以降、多くの宣教師が路傍で集会を禁じられる中、美濃ミッションは何の干渉も受けなかったという。宣教師たちは日本から追放されることもなかった。役人たちは美濃ミッションの妥協しない立場を認識するようになり、さらに尊敬すら払うようになったと言われている。

1941年、安利淑が投獄中、日本のプロテスタント諸派は、一つになって合同した。国家神道を強要する日本政府に立ち向かうためではない。その逆である。「日本キリスト教団」が政府主導で結成された。日本の大部分の教派が、この日本キリスト教団に加盟する。それは、この教団に加盟していれば、政府公認の宗教として公けに活動できるからである。しかし、政府公認の宗教になるとは、イコール、国家神道に服従することを意味した。これは、日本のプロテスタントキリスト教史の大きな汚点となった。このように言われている。「高い役職にあったクリスチャンらは、明治天皇と妃の霊を祭った東京の明治神宮や英霊を祭った九段の靖国神社祭壇の前で礼拝を行った。著名なキリスト教界の指導者らも伊勢の皇大神宮の社前でキリスト教関係の計画を奉告した。日本本土内のキリスト教系の学校のほとんど例外なく神社参拝に参加した」。

1944年に、日本キリスト教団はアジア諸国の教会に書簡を送っている。その文面を見ると、日本軍の戦いは、敵国である米英に対する聖戦であること。万世一系の天皇が治める日本は世界の中で抜きんでている神の国であり、日本は世界を指導し、支配するのにふさわしいこと。だから、アジアの諸教会も日本に協力し、天皇制にならうべきことが書かれている。

「日曜学校教師の友」の一文も紹介しよう。子供たちをどのように教育していたかをうかがい知れる。「勅語を奉じ、天皇に忠節を尽くすことは、同時に我らの神に従い、仕えることになる」。とんでもない理屈がまかり通っていた。これが当時のキリスト教界の現状であった。

シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、ネブカデネザル王から、金の像を拝むなら死なずに済むぞ、と誘惑を受けたわけだが、それの現代版をやってみよう。「いいか。君たちは聖書の神に熱心であることはよくわかる。だが熱心も度を過ぎるのは良くない。全体の規律を乱すのはよくない。それにな。像にひれ伏さなかったら、死んでしまうのだぞ。そうなったらおしまいだ。君たちはまだ若い。将来がある。いいか。年寄りの知恵を授けよう。ひれ伏せ、拝め。それでも信仰は続けられるじゃないか。拝むなら、君たちの集会所を造ってあげてもよいぞ。政府公認の宗教にもしてやろう。聖書の神さまを伝える働きができるのだ。ただ、金の像を拝むことも忘れてはならぬぞ。また集会所に御真影を祭ることも忘れるな」。これは二股かけた信仰の勧め、妥協の提案。

また、こう言って来るかもしれない。「これは偶像崇拝の問題ではない。わたしネブカデネザル自身、これを神と思ってはいない。これは帝国一致の象徴なんだ。国旗に敬礼するのと同じだ。愛国心の問題なんだ。お前たちはバビロニア帝国の国民とされているのだろう。殺されずに済み、この国で養ってもらっているだろう。恩義を感じているだろう。だったら、おじぎしなさい。そうして感謝を示しなさい。忠誠を表しなさい。愛国心を示しなさい。お前たちは、神は愛なり、と言っているじゃないか。」

これがうまくいかないときは、心に、次のささやきがあるかもしれない。「聖書では、偶像の神は実際にはいないと言っているではないか。偶像の神は実際にはいないとしたら、偶像にひれ伏して拝んでも、どうということはないではないか。ないものはないのだから、伏し拝んでも偶像崇拝にはならない。形だけ、頭を下げればいいだけだ。」

実際、このようにして、偶像崇拝の罪は犯されてきた。だが、また別の理屈でも、偶像崇拝を容認している人たちがいる。二つ事例を挙げよう。一つは、前回述べた、宗教的多元主義、包括主義の立場に立つキリスト者たちの論法である。この人たちは、「宗教の形態はキリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教いろいろあっても、行き着くところは同じ神さまだから、どこで何を拝んでも偶像崇拝にはならない」と主張したり、「キリスト教以外の宗教は不完全というだけで、真理の光はそこにもある。救いもある。だから敬意を払って拝んだほうが良い」。カトリックや聖書信仰に立たないプロテスタントの教会はこんな感じである。彼らは、他の宗教も身内でしょ、という論法で、偶像崇拝を偶像崇拝としないのである。

もう一つは、キリストなどの絵画の前で拝む人たちの理屈である。ギリシャ正教会のイコンが有名ある。キリストなどを描いた絵である。彼らは、その前で祈り、口づけしたりする。同じく、キリスト像などの前で、ひざまずいて拝む方々もいる。彼らの論理はこうである。「自分たちは像そのものを拝んではいない。絵そのものを拝んではいない。それら目に見えるものを媒介として、目に見えない神を拝んでいるのだ。だから、偶像崇拝にはあたらない」。けれども、これも屁理屈でしかない。というのは、仏教徒が仏像を拝むことについてどう言っているかというと、「自分たちは石や木を拝んでいるのではない。それらを媒介として、目に見えない神仏を拝んでいるのだ」と言っている。この理屈が通れば、何にでも頭を下げることは許される。聖遺物崇拝なども盛んに行われてきた歴史がある。

神は何と命じられたのか。モーセの十戒の第一戒と二戒を読んで確認しよう。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない・・・偶像を造ってはならない・・・それらを拝んではならない」(出エジプト20章1~6節)。命令は単純明快である。頭が良すぎる人たちは、これらの命令を、ななめから、裏からと、いろんな読み方をして、また、こね回して、みことばの真理を骨抜きにしてしまっている。そして自分たちに都合のいい教えを編み出してしまっている。私たちは、単純、素直な神の子どもとして、みことばを曲げず、聖書信仰に立ち、神の命令に従おう。