①世の光

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。1章5節

すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。1章9節

わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。8章12節

あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。12章36節

わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。12章46節

光!光は闇に打ち勝つ。ゆえに人は光を求める。子供の時分、夕闇が迫る頃、遊びを止め、あかりが灯る家に足を向けた。昔は今と違って街灯は少ない。闇路を歩くときは懐中電灯を使った。光が進むべき道を照らしてくれた。また、停電となり暗黒の陰で覆われていた時、パッと電気がついて光が闇を消し去った感動の瞬間は忘れられない。漆黒の闇をすべて消し去るのが光である。

クリスマスシーズンに灯すキャンドルの光は、世の光であるイエス・キリストのシンボルである。キリストはすべての人を照らすまことの光として、約2000千年前、この地上に降誕された。キリストは、闇の霊気、心の闇、死の暗闇、そういったすべての闇を消し去ってくださるというのである。

今年9月、北海道地震で大規模停電、全域停電が発生し、ブラックアウトという言葉が広まった。テレビでは普段ネオン輝く繁華街が闇に覆われている様を映し出していた。光を失った街。私はこの光景をテレビで見た時に思い越していたみことばが、12章36節「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」、12章46節「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです」である。ブラックアウトは生活する上で大問題である。しかし私は、人類が一番恐れなければならないのは霊的な闇であり、それ故に、人類が一番必要としなければならないのは、イエス・キリストという光であると思った。

今年も災害続きで、災害はいつ起こるかわからないから備えをしましょうというニュースが、繰り返し流れていた。災害の度に備えは万全であったのかということが言われる。けれども一番大切な備えを忘れてはいないだろうか。やがてすべての人に死の暗闇が訪れる。キリストは新約聖書において、死後の世界について、しばし「外の暗闇」という表現をとっている。その世界は完全なるブラックアウトである。死後の暗闇は地上のブラックアウトより問題である。この死後のブラックアウトの備えをしている人がどれだけいるだろうか。このブラックアウトは全人類が直面している課題である。そう思う時に、「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」ということばが心に響いてくる。

 

②いのちのパン

わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。6章35節

わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。6章51節

キリストの時代、庶民の生活は豊かでなく、人々は安い大麦のパンで飢えをしのいでいた。また聖書の舞台のユダヤは乾燥地帯であったため、水の確保も容易ではなかった。飢え、渇きは身近な問題であった。現在は世界で8億人の人が飢えていると言われている。こうしたことと裏腹に、日本では年間3千万トンの食糧を廃棄しているという現実がある。私たちは飢えの現実味には乏しいかもしれない。しかし、この時代とこの場所のことを考えてみよう。キリストが「わたしはいのちのパンです」と宣言された背景には、一般庶民は貧しく、庶民の第一の関心はパン、食糧ということにあった。この時代、物質的パンを十分に与えてくれる人物を救い主として担ぎ上げようという機運があった。実際、民衆はその期待をキリストに寄せた。いつの時代でも、それは変わらない。人々はパンを十分に与えてくれる人物と期待するや否や、ヒットラーでもスターリンでも担ぎ上げてしまう物質主義に陥った。キリストは人々が自分にパンを求めているのを知って、不思議な発言をした。「わたしがいのちのパンです」と。キリストが与えようとしたのは麦で作ったパンのことではない。永遠のいのちというパンであった。それがわたしだと宣言したのである。キリストというパンを食べるなら死ぬことがない。しかし、麦で作ったパンを求めていた民衆は、キリストの宣言に戸惑いを隠せなかった。人々の多くは、ただお腹を満たすことにしか関心がなかったからである。だが、パンはお腹を満たしても、永遠のいのちをもたらすものではない。

パンとは、当然ながら食べるものである。キリストは、食べるようにして私を信じ受け入れなさいというのである。その人に永遠のいのちが与えられるのである。

 

③救いの門

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。10章7節

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また、安らかに出入りし、牧草を見つけます。10章9節

これは、キリストが羊飼いのたとえの中で言われたことばである。羊飼いの家屋に隣り合って一つの土地があって、そこを塀で囲って、夜は羊をそこに入れて寝かせた。その囲いには門がついていて、羊はそこから出入りする。キリストは私たち人間を羊になぞらえて、わたしは救いの門であると言うわけである。ある人たちは、救いに至る門はいくつもあるかのように思い違いしているが、羊が出入りする門は一つしかない。裏門とかはない。門はただ一つ。これがキリストのことばの前提となっている。キリストは救いに至る唯一の門であるということである。この門を通るならば救われる。救いの門を探している人はキリストのもとへ来てください。

 

④良い羊飼い

わたしが来たのは羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。10章10,11節

キリストは門であり、羊飼いである。キリストの降誕の知らせを一番最初に聞いたのも羊飼いたちであった。御使いが現れ、「きょうダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生れになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまっているみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」と告げ知らせたわけである。羊飼いと聞いて、大概の人が正しくないイメージを抱いてしまう。ヨーロッパやアメリカの近代の牧畜を思い描いてしまうからである。テレビのドキュメンタリーやドラマや映画で紹介されるのは、羊飼いが羊の後ろから追い立てるようにして歩いている牧歌的な姿である。だが、聖書の舞台のユダヤは、そんなのどかではない。地形は険しく、危険な岩とか洞窟とか崖が多いところなので、必ず羊飼いが先頭に立ち、杖で道を確かめながら前を進み、羊はその後ろをついて行くのである。羊飼いは羊を襲う狼や熊といった野獣とも戦わなければならなかった。羊たちは、道に迷うだけではなく、崖から落ちたり、野獣に襲われることが実際にあった。私たちの人生も牧歌的かというなら、そうではないだろう。それは皆さんが体験から良くご存じのはずである。危険に満ちた道、狭い道、誘惑の穴、欺き、いろんなことを経験されてきたはずである。そして今も人には言えない悩みを抱えているはずである。そして自分は弱い者でしかないこともご存じのはずである。人の前で強く見せても。聖書では羊は愚かで弱い動物の代表であるが、キリストはそれを私たちに当てはめている。そして羊飼いの必要性を訴えている。

当時、一匹の羊が迷い出たら、羊飼いは見つけ出すまで捜索するのが常識だった。ところが、それ以上のことが言われている。キリストは、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」とまで宣言した。キリストは失われた私たちを捜し求めるためにこの地上に来られ、ご存じのように、十字架にかかり、私たちのために命まで捨てられた。それは、私たちを罪と滅びより救い、助け出し、永遠のいのちを与えるためだった。クリスマスカラーの赤は、キリストが十字架上で流された血の色を意味している。キリストは十字架刑を避けることができた。それはご自分でもそう言われていた。けれども、神から離れ、迷い出て、罪に服従し、悪魔どもに捕えられている私たちを黙って見ていることはできず、自ら命を投げ出し救おうとされたということである。それが、キリストにとって、「羊のために命を捨てます」ということであった。具体的には、私たちの罪の身代わりとなって十字架に身を差し出し、刑罰を受け、死なれたということである。キリストは私たちを愛し、私たちを罪と滅びから救い、永遠のいのちを与えるために、自発的にいのちを捨てられたのである。このために、キリストはこの地上に人となって来られた。それがクリスマスである。

 

⑤復活、いのち

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。11章25節

 

キリストは十字架の死後、三日目によみがえられた。使徒ペテロは新約聖書に記さ

れている最初の説教で、「この方が、死につながれていることなど、ありえないからです」(使徒2章24節)と語っている。死の鎖につながれている方が救い主であることなどあり得ない。死の闇にとどまっている方が光であることなどあり得ない。死につながれている方が永遠のいのちであることなどあり得ない。キリストは死からよみがえった永遠のいのちである。いのちの光である。罪の力も死の闇も、このお方を食い尽くすことはできなかった。ほんとうのいのちは死に勝る。死に勝るいのちを持っておられるお方を信じる者は、死んでも生きるのである。永遠のいのちを持つのである。

クリスマスにはモミの木が飾られる。それには意味がある。モミの木は常緑樹で、永遠のいのちの象徴である。ホセア書14章8節にはこうある。「わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得るのだ」。ここで、主なる神は、「わたしは永遠のいのちだ」と宣言している。それがイエス・キリストである。

 

⑥道、真理、いのち

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。14章6節

 

キリストは、私があなたがたの歩むべき道であるとまで言われている。この道は真理の道であり、いのちの道である。さて道というものは、目的地があってこその道である。キリストは目的地としてどこを意識しているのだろうか。それは神のみもとである天の御国と言って良いだろう。そこに行く道がある。ことわざに「近道は遠道」というものがある。目的地に早く行こうとして近道を選び、結果的に失敗したという経験をお持ちだろう。ひどいのは反対方向に向かってしまったという場合である。私も何度か経験がある。人はなぜ道に迷うのか、色々な理由がある。幾つか例を挙げると…「地図を持って行くのを忘れた」ナルホド!「別の地図を持って行ってしまった」悲劇!「この道で合っているだろうと油断していた」油断大敵!「すべての道はローマに通じていると思い込んでいる(どこかに出るだろう、目的地に通じるだろうと安易な気持ちでいた)」良くやるマチガイ。そのうち、自分がどこを歩いているのか、走っているのかもわからなくなる。「途中、寄り道をしていたら、脇道にそれてしまった」これも良くある。「妙なプライドを持っていて、迷っても人に絶対に聞かない」男が良くやる。男はなかなか聞かない人種。「道がわからなくなっても、絶対に引き返さない、前進あるのみ」私も経験がある。引き返すのは損に思ってしまう。「やたら裏道を使う」裏道のほうがかっこいいと思って、裏道に進んで迷うというパターン。これも経験する。「雨が降っている夜だと、いつも通る道でも本当に迷う」これもわかる。自宅近辺でも迷ったりする。

私たちは、神のみもとに行く道において、やみくもに自分の感を頼りに進むとか、どの道を通ってもやがては着くだとか、絶対に誰にも聞かないとか、絶対引き返さないとかやっていたら、どうなるのだろうか。キリストはヨハネの福音書において、この世界、今の時代を何度も「夜」にたとえている。キリストのこの認識が「世の光」という言葉の前提にもなっている。夜は右も左もわからなくなる。自分がどこを歩いているのか、走っているのかもわからなくなる。

キリストが「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われた時、聖書の原語を見ると、「わたしが」ということばが強調されている。「わたしが唯一の道なのだ、わたしを通れ」と言われたい。聖書というナビはキリストを指し示している。そしてキリストご自身が「わたしこそが道だ」と宣言されている。確信をもって。皆さんも、キリストの宣言に信頼を置いていただきたい。そうするなら、道は途中で途切れ、崖で終わるということはない。闇路で迷子になるということはない。

 

⑦まことのぶどうの木

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。

わたしはまことのぶどうの木で、あなたがたは枝です。15章4,5節

 

ぶどうはキリストが降誕されたイスラエルの地にあって、一般的なくだものだった。ぶどう園は至る所で見られた。さて、枝はどうやったら実を結ぶことができるのか。ぶどうの木にとどまることによってである。それは単純な原則である。ぶどうの木にとどまっていない枝はどうなったのか。人々はそれを寄せ集め、火に投げ込んで燃やしてしまった。私たちは何にとどまったらいいのかと教えられるたとえである。自分の人生哲学に依存するのか。八百万の神々に依存するのか。アルコールやドラックと言わず、人は何かに依存しているという現実がある。単純に物や人への依存もある。特に何も意識していないという人も、怒りや苦々しさ、恨み、ねたみなどにとどまっていることがしばしばである。私たちは何にとどまろうとしているのだろうか。また何にとどまってしまっているのだろうか。もし、それが私たちにいのちを与えてくれるものでないのならば、私たちは、それらに背を向け、単純に、真っ直ぐに救い主イエス・キリストに心のまなざしを向け、このお方にとどまりたいと思う。

ぶどうの木のたとえは、先ず、キリストがいのちであるということを伝えていることを覚えよう。キリストご自身が、これまで何度もご自身がいのちであることを伝えてこられた。このお方にとどまるということである。キリストにはすべての罪も悲しみも死も飲み尽くす生命力がある。このお方にとどまるならば、私たちは枯れ枝になって滅びることはない。また、このぶどうの木のたとえは、キリストが愛であることも教えている。ぶどうの木のたとえを読み進めていくと、キリストは「わたしの愛の中にとどまりなさい」と語られ、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」という宣言が続いている。いのちを捨てるというこの大きな愛を、キリストご自身が十字架において実践された。キリストは全き愛である。このお方にとどまる人は幸いである。多くの人が今にいたるまでの愛の欠損のゆえに、心理的に精神的に病んでいると言われている。そして愛の欠けを満たすために空しいものに依存してしまう。けれども満たされることはない。満たしてくれると思っても、それは一時だけのことである。けれどもキリストは裏切らない。自信をもって、「わたしにとどまりなさい」「わたしの愛の中にとどまりなさい」と呼びかけておられる。

キリストにとどまるというのは、いのちまで捨ててくださったキリストの愛を、自分に向けられたものとして信じるということが必要である。キリストは私たちひとりひとりのために、この地上に人となって来られ、そして私たちひとりひとりのために十字架についてくださった愛の神である。「わたしにとどまりなさい」という招きそのものが愛の招きである。キリストはいのちである。愛である。キリストにとどまろう。キリストのうちに私たちが必要とするすべてのものがある。

「わたしにとどまりなさい」の勧めに対するキリストの約束は「わたしも、あなたがたの中にとどまります」である。今から約二千年前、キリストは天の栄光をかなぐり捨てて地上に来られた時、すなわちマリヤがキリストを出産する時、どの宿屋も満杯で泊まる部屋はなく、人の宿から追いやられ、家畜小屋で生まれられた。イスラエルのベツレヘムでの出来事である。この世はキリストの家畜小屋での誕生をロマンティックに語るが、家畜小屋での誕生は、この世がキリストにとどまることを拒んだということの裏返しとして見ることができよう。人々にはキリストを心に受け入れる態度はなく、世の事柄で心がいっぱいになっていた。最初にキリストの誕生を祝おうとしてかけつけたのも、貧しく世間では余り顧みられない社会的地位の低い羊飼いたちでしかなかった。世界最初のクリスマスにおいて、キリストにとどまろうとしたのは、ほんの一握りの人たちでしかなかった。現代も、現状は同じではないだろうか。そして人々は、キリスト抜きでクリスマスを祝っている。もっとクリスマスをと。しかし、そこにキリストはいない。

私たちひとりひとりが「わたしにとどまりなさい」という御声に応答して、ほんとうのクリスマスをお祝いしたいと思う。