ルツ記もいよいよクライマックスを迎える。今日も、信仰って素晴らしいということを学ぼう。持つべきは信仰、有るべきは信仰である。

ルツ記の物語の幕開けが明るくはない。ユダのベツレヘムに住んでいたナオミの家族は、飢饉に際して、外国のモアブの地に移住した。しかし、そこでの生活は厳しかったためか、ナオミの夫のエリメレク、息子のマフロンとキルヨンは亡くなってしまう。残されたのはナオミと息子の嫁二人、ルツとオルパであった。ナオミは二人の嫁を置いて故郷に帰る決断をするが、ルツは「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私をしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」(1章16節)、そう言って、ナオミについてベツレヘムに足を踏み入れた。

古代イスラエルでは、やもめの女性が生きていくというのは厳しいものがあった。ルツは生きていくためにナオミのためにも何かしなくてはと、落穂拾いに出かけたわけである。はからずも、その畑は、エリメレクの親戚のボアズの畑であった。ボアズは親戚というだけではなく、神を恐れる誠実な人物で、しかも親切な男性だった。ルツは彼に求婚する。しかし、それはただの求婚ではなく、存亡の危機にあるエリメレク一族を救うためのものでもあった(3章9節)。当時、子どももなく、やもめになってしまった場合、亡き夫の家系が途絶えないようにと、亡き夫のもっとも近い親類がそのやもめと結婚し、亡き夫の子孫を残すように定められていた。それが買戻しである。「買戻しの権利のある親類」と訳されていることばは<ゴエル>一語である(欄外註参照)。この<ゴエル>がルツ記のカギとなることばである。4章を読んで気づかれたように、4章では「買戻し」「買い戻す」という表現が繰り返され、併せて15回登場し、<ゴエル>の重要性を伝えている。ボアズには買い戻す意志はあったが、自分よりも近い買戻しの権利のある親類がいることを知っていた。だから、手順として、まずその親類に声をかけなければならないと思った。

では4章を見ていこう。1節を見ると、ボアズは門のところへ上って行ったことがわかる。城壁に囲まれた町には門があった。この門のところで裁判が行われたり、集会がもたれるのが常であった。こうした地は建物が密集していて大きな広場がない。門のところが政治と生活の中心の場であった。彼は門のところに座った。門の外に仕事場となる畑がある。人々が畑に出かけるにはこの門を必ず通る。他所に出かける時にも通る。門のところで用事を果たそうとする人もいる。だから、この門のところに座っていれば、会いたい人と会える確率は高い。といっても、1節でもやはり、神の摂理、導きというものを感じる。「すると、ちょうど、あのボアズが言ったあの買戻しの権利のある親類の人が通りかかった」。「ちょうど」とタイミングが良い。

この門のところで、今で言う民事裁判のようなことを開く。先の親戚も他に用があって門のところへ来たと思うのだが、快く応じてくれた。2節を見れば、町の長老たちを招いたことがわかるが、調停のため、証人として彼らを招くのが常だった。それにしても、とんとん拍子の感がある。さて、ここからである。

一番目に買戻しの権利がある親類が買戻しを承認したら、ルツの求婚はご破算になる。4節の最終行を見ると、その親類は「買い戻しましょう」と言っている。ところが、6節を見ると、先の発言を否定して「買い戻すことはできません」と発言を撤回している。これはどういうことか。3節を見ると、ボアズはルツの買戻しについては言及しておらず、ナオミの夫のエリメレクの畑の買戻しについて言及している。ここで読者は、エリメレクに畑があったのだと初めて事実を知らされる。イスラエルでは死んだ者の土地が他人名義になってしまうことを防ぐために、相続地の消滅を防ぐために、この買戻しが行われた。その親類は土地を買い戻すことにおいて承認した。その次に、ボアズは5節において、土地を買い戻すだけではなく、ルツも買い戻さなければならないことを告げる。死んだ者の名をその相続地に起こすためにと。これを告げられた親類は尻込みして発言を撤回してしまった(6節)。どうしてだろうか。考えられる理由は二つぐらい挙げられる。一つはルツが外国人であるモアブの女だからということが考えられる。モアブ人いやだ!けれども、この親類の答弁を見れば、もう一つのことが考えられる。土地だけ買い戻すならば、名義は自分のものでなくても、事実上、自分が管理して自分の土地として使える。ナオミはやもめになっていて子孫を残せそうもないから、先々のことを思えば、自分の所有地が増えたのも同然。お金を払っても損にはならない。ところがルツも一緒に買い戻すという場合、その土地はエリメレク一族のルツの息子の所有地となって、自分から完全に離れてしまう。その土地に対して何の権利もなくなる。お金を払って買戻してもメリット無し。もし、この親類がそれほど裕福でなかったら、自分の相続地が増えるわけでもなんでもないところに出費がかさむだけのボランティアということで、尻込みするのはわかる。自分が貧乏して、逆に自分の相続地の一部を手放すことになってしまうかもしれないという言い訳も生まれよう。

こうして二番目に権利のあるボアズが買い戻すことになった。ボアズは、もう一度考え直してもらえますか、などと説得せず、押し付け合いは無しで、すんなり、話合いはまとまることに。当時の慣習に従って、7節以降にあるように、先の親類は自分のはきものを脱いで、権利を譲渡し、証人である長老たちの前で、ボアズによる買戻しが成立した。

イスラエル人は家系を大切にする民族である。長老たちは12節で、ユダ族の家系にあるペレツに言及している。というのは、ボアズはペレツの子孫だからである。18節以降に記載されているペレツの家系でそれは明らかである。ボアズがペレツから七代目の子孫で、十代目がダビデとなる。12節の「あなたの家が、タマルとユダに産んだペレツの家のようになりますように」という表現は含蓄がある。ペレツ誕生の経緯は創世記38章に記されている。そこを見ると、タマルもルツ同様、やもめだった。そしてタマルとユダの年の差はかなり開きがあり、これも若い女ルツと、ルツを娘さんと呼んでいたボアズの年の差の開きに似ている。

こうしてボアズとルツは結婚し、そして、ひとりの男の子を産む(13節)。「主は彼女をみごもらせた」という表現は、旧約聖書中、ここだけの表現らしい。すべてに主の主権が働き、主がご計画のうちに、みこころによって、みごもらせた。

14~17節は、祝福を受けた姑ナオミの姿がクローズアップされている。ナオミはベツレヘムに帰って来た時は、嘆きに嘆いていた。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに」(1章20,21節)。「ナオミ」という名前の意味は「快い」だった。でも私はそんな者ではないと言っていたが、今は快い。「主は私を素手で帰されました」と言っていたが、ナオミは今、その手に男の子を抱いている。夫と二人の息子を立て続けに亡くし、悲しみに明け暮れ、エリメレク一族存亡の危機に立たせられていたわけなので、喜びもひとしおだっただろう。そして、ルツに「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」と言わしめたこのおばあちゃんが、男の子を養い育てたことが16節からわかる。ナオミおばちゃんは、この男の子を、主を恐れるしもべに育てたことだろう。男の子の名前は「オベデ」と命名された(17節)。「しもべ」という意味である。彼はダビデの祖父となる。

ご存じのように、旧約聖書において、メシヤはユダ族から、そしてダビデ王の家系から出現すると預言されている。2章の講解メッセージの時に、参考箇所としてマタイ1章のイエス・キリストの系図を開いたが、ボアズもルツもイエス・キリストの系図に名前が記されていたわけである。本人たちはこんなことになるという意識はなく、ナオミも含めて、自分たちのできることは何かと、せいいっぱいやってきただけである。ナオミは夫と二人の息子に先立たれたみじめなやもめ。ルツはイスラエル人にとっては軽蔑に値するモアブ人の若いやもめ。ボアズの母親も同じく外国人でもと遊女。この人たちに共通していたのは、主なる神に対する信仰である。それぞれの信仰がかけ合わされ、主の物語が作られていった。そもそもナオミに信仰が無かったらこの物語は無かったし、ルツに信仰が無くても生まれなかった。ボアズがただの金持ちのアンポンタンでもだめだった。個人的には、地味でいいから、彼らに倣い、きちんと信仰生活を送っていきたいと思わされた。また、私たちそれぞれの信仰がかけ合わされ生まれる物語を楽しみにしたいと思った。

さて、この物語のカギとなることばは<ゴエル>であった。このことばは2章の講解でお伝えしたように、「贖う」という概念があることばである。その時に、<ゴエル>が使用されているヨブ記19章25節を開いた。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを」。ここはヨブがイエス・キリストの到来を預言した箇所と言われているが、「贖う方」と訳されているのが<ゴエル>である。<ゴエル>は「贖い主」と訳すこともできる。ルツ記ではルツの贖い主がボアズとなった。ルツは異邦人で、名もないモアブ人の女性に過ぎなかったが、ボアズに結びつけられ、イスラエルの王となるダビデの祖父を出産し、王家の家系に名を連ねることになる。しかし、霊的にはさらにすぐれていることを意味している。彼女は贖われ、贖い主自身の花嫁として高められ、救い主の家系に名を連ね、とこしえまで続く天の御国を相続する者とされた。

そして私たちも同じ特権に与っている。私たちは神なく、望みなく、天の御国の外に置かれていた者たちだったが、金や銀といった朽ちるものによらず、キリストの血の代価によって買い取られ、贖われた。パウロは語る。「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これは時至ってなされたあかしなのです」(第一テモテ2章6節)。こうして私たちは贖われ、キリストの花嫁とされ、神の養子とされ、天の御国を相続するものとされた。相続するものは、畑数枚どころではない。朽ちる家一軒ではない。銀行預金の証書数枚ではない。ペテロは語る。「また、朽ちることも、消えていくこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです」(第一ペテロ1章4節)。キリストによる買戻しは、この地上で名前を存続させるためとか、相続地が失われないようにするためとか、そういったこととは比較にならないものである。私たちの名前を永遠に天の御国に記させ、天の御国を相続地とし、そこにある一切の霊的富を継がせるためのものである。ヤコブのことばに聞こう。「よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい者たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか」(ヤコブ2章5節)。貧しき者に御国を相続させる神。その実現のために、血の代価を支払われた贖い主。

私たちが贖い主イエス・キリストを信じる信仰によって与えられたすばらしい特権に感謝して、クリスマスを迎えよう。