今日で、エペソ人への手紙の講解メッセージを終了する。エペソ人への手紙は祈りの教えで終わる。今日は20節までから祈りをテーマに学ぶ(21節以降は結びのことばであるが、この箇所は、後日、奉仕をテーマにした時に取り扱う予定)。今日の祈りの教えは、10節以降の霊の戦いの文脈の最後に来ている。これまで13~17節から神の武具について二回に渡って学んできた。神の武具は17節の「御霊の与える剣である、神のことば」で終わりである。祈りは神の武具とはされていない。では、祈りはどういう位置づけなのだろうか。それは文脈から明らかである。

13節では「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい」と命じられている。14節冒頭では、「では、しっかりと立ちなさい」と覚悟を命じられている。祈りは、しっかりと立ち、神の武具をしっかりと装着し、霊的戦いを戦わしめるためにある。自分が神のしもべとしてしっかりと立ち、神の武具を身に着け、霊的戦いにおいて勝利するために祈ることはもちろんのこと、最近、あの人は失望していて救いのかぶとを脱ぎそうだとか、人を恨んでばかりで平和の福音の備えを脱ぎそうだとか、偽りの教えにひきずりこまれそうだとか、そうした様子を見て、的を得たとりなしの祈りを捧げることが求められるだろう。18節三行目に「すべての聖徒のために」祈るように言われているが、すべてのクリスチャンが神の武具をしっかりと身につけて、霊的戦いを戦い、勝利して欲しいというパウロの願いが見える。攻撃の武具は、御霊の与える剣である神のことばということであったが、パウロは19,20節で、自分がそのみことばの剣を振るえるよう、とりなしの祈りを要請している。

私たちはなぜ互いのために祈るのかをよくよく考えてみなければならない。病のいやし・・・災いからの救い・・・平穏無事な生活・・・確かにそれらのためにも祈る。しかしパウロが祈りの内容として強調したいことはそういうことではない。仲間の聖徒たちが、福音を伝える戦士としてしっかりと立つことができるよう、神の武具を身につけりっぱに戦えるよう、とりなしの祈りをしなさい、ということなのである。パウロはこの時、ローマの牢獄の中にいた。しかし、牢獄の中で守られるようにとか、繋がれている鎖で皮膚が炎症を起こしているから早くいやされるようにとか、風邪を引かないようにとか、リクエストしていない。番兵がいつも優しくしてくれるようにとかリクエストしていない。牢獄の中にあっても、鎖につながれていても、福音を大胆に語れるようにとリクエストしている(19,20節)。私たちは互いのために慰めや守りを祈ることも必要だが、お互いが悪魔に負けないで信仰に堅く立ち、福音を伝える使者として用いられるように祈るべきである。焦点はそこに合せるべきである。自分がとりなしの祈りの課題を挙げるときも、年がら年中、健康が守られるように、ということであったら、それは聖書的かどうか、考えてもらわなければならない。自分が霊的に成長し、キリストの証人として強められ、実を結ぶということが考えにおよばないとしたら、修正されなければならない。

では、これから18節のみことばを丁寧に味わいたい。18節には「すべて」ということばが原文において四回使用されている。「すべての祈りと願い」「どんなときにも(すべてのときに)」「すべての聖徒のために」「忍耐の限りを尽くして(すべての忍耐のうちに)」。パウロは「すべて」ということばを多用して、祈りに力を入れるようにアピールしている。では、これから、18節より、五つの祈りの姿勢を学んでいこう。

第一は、すべての祈りと願いを用いる。「祈り」とは一般的な求めを意味することばである。「願い」とは特別な求めを意味することばである。両者は同義語である。両者とも神に願い求めることである。ここで「すべての祈りと願い」とは、あらゆる種類の祈りについて言われている。どんな祈りが考えられるだろうか。公けでの祈り、プライベートの祈り、声を出しての祈り、無言での祈り、時間を取り分けての祈り、瞬間的な祈り、座っての祈り、ひざまずいての祈り、立っての祈り、プレヤーウォーキングのような歩きながらの祈り、車を運転しながらの祈り、2~3人での祈り、群衆での祈り、礼拝での祈り、祈祷会での祈り、朝の祈り、食事の時の祈り、夕べの祈り、断食祈祷、連鎖祈祷など。

第二は、どんなときにも御霊によって祈る。「御霊によって」の直訳は「御霊のうちに」である。「よって」<エン>の原語の意味は、「~の範囲の中に」である。浴槽にどっぷり浸かっていることをイメージしてもいい。御霊にどっぷり浸かった祈りという印象を与える。サムエル・チャドウィックは言う。「御霊のうちに祈る人たちは、御霊のうちにあらなければならない」。パウロは5章18節で「御霊に満たされなさい」と命じているが、御霊との関係を築くことが先決であると知る。アンドリュー・マーレーは述べている。「祈りの人生と聖霊の人生の関係は、密接で分かつことができない」。「聖霊の内住の度合いは、祈りの力の正確な量りである。私たちのうちに住まう聖霊は、言葉や考えにおいて祈るのではなく、言葉を口に出すことよりも深い、息といのちにおいて祈る。まさに、私たちの内に住むキリストの霊において祈ることこそが、真の祈りである」。この御霊による祈りをすべての時にささげるわけである。「どんなときにも」という訳は、「あらゆる機会に」と訳すこともできよう。

祈りにおける御霊の働きは、三つに分けて見ることができる。一つ目は、祈りにふさわしい心を与えるということである。御霊は世界中のすべての苦しみ、心痛と一つになっている。御霊が感じ取っていない失意、隠された涙、痛みはない。また罪の世界に現実に触れ、そこにある損なわれた人生、壊れた家庭、罪に縛られたたましいを見て、苦悶しておられる。そして、それらの人々を救いたいと願っておられる。そして、また神の子であるクリスチャンたちに対して、深い愛情をもっておられる。ローマ5章5節では、「聖霊によって神の愛が私たちに注がれている」とある。御霊は正しい祈りを唇に上らせる以前に、とりなすにふさわしい心を私たちに与える。私たちの祈りは心が伴わない門切り型になりやすいので、御霊の助けが必要である。

御霊の二つ目の働きは、祈りの方向性を導くということである。私たちは神のご計画やみこころというものを完全にはわからない。どう祈っていいかわからないこともある。しかし御霊は祈りを導き助ける。ローマ8章26~27節を参考に開こう。御霊は何をどう祈るか導いてくださる。その声は私たちのものだけれども、御霊は私たちのうちで願い、私たちを通して願う。その願いは神の御思いと合致している。御霊は祈りの主権者である。だからこのお方に心を開こう。アンドリュー・マーレーは言う。「自分自身を明け渡す時にのみ、御霊は私たちのうちで祈る」。ジェームズ・マッコンキーは言う。「祈りに対して聖霊が導くことに、不服従の姿勢を絶対取るな」。御霊は突如、あの事のために祈るのだよ、あの人のために祈るのだよと、祈りに召すこともある。私たちは誰が危険に直面しているとか、誰が誘惑に会っているとかわからないが、すべてをご存じの御霊が、私たちにとりなしの重荷を与え、心に印象を与えることがある。その時、とっさに祈ったりするわけである。また、継続して重荷が消えない課題があるならば、それも御霊によるものと判断して良い。

御霊の三つ目の働きは、祈りに力を与えるということである。祈りとは戦いである。だから力がいる。サムエル・チャドウィックは祈りにおける力の欠けを嘆いている。「祈りは情熱の代わりに一つの独白になっている。教会の力の無さは、他に説明はいらない。祈りがないということは、情熱と力がないということである」。私たちは祈っても、御霊の助けがないと力は入らないだろう。気づくと独白どころか、おい寝りしていることもしばしである。私たちは御霊によって霊的格闘の力を頂かなければならない。

では祈りの姿勢に戻ろう。祈りの姿勢の第三は、絶えず目をさまして祈る。これはもちろん、霊の目を開いて祈ることである。それは、悪魔の策略の鈍感でいることや、御霊の導きに鈍感でいることではない。アレクサンダー・ヘイは言う。「私たちが祈れないのは、目をさましていないからです。私たちの肉は、霊の世界の敵に対してあまりにも目を注ぎません。私たちが敵の働きを知らなければ、私たちに大きな危険が迫っているときにも、それに気づかないでしょう。・・・霊の目が開かれているとは、聖霊の導きに敏感であることです。聖霊は私たちに危険を教えてくださいます。また、とりなしの重荷を与えてくださいます。何のために誰のために祈ればいいのかを教えてくださいます。勝利する祈りは聖霊に導かれる祈りです。聖霊のうちに祈る祈りです」。以上から分かるように、目をさまして祈ることと、御霊によって祈ることは表裏一体である。

第四は、忍耐の限りを尽くして祈る。まずは祈りを尊ぶことである。よく、悪魔の策略は教会から祈りを無くすこと、クリスチャンから祈りを無くすことだと言われる。悪魔は、私たちがただ忙しく動き回ったり、この世の楽しみに没頭するように仕向け、祈りを奪う。また祈りのことばよりも、人のうわさ話、スキャンダルのことばに口を使わせる。フォーサイスは言う。「クリスチャンにとって最悪の罪は祈らないことである」。ウェスレイ・デュエルは言う。「祈らないことはぐうたらなクリスチャンの罪です」。アンドリュー・マーレーは言う。「サタンは私たちを祈りの人とならせまいとして、あらゆる力を行使する」。使徒たちはゲッセマネの園で、目をさましていることができず熟睡してしまった。キリストは彼らを見つけて言われた。「あなたがたは、そんなに1時間でも、わたしといっしょに目を覚ましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」(マタイ26章40,41節)。

かつて悪魔崇拝者で回心した方が言っていた。「私は悪魔に一晩中祈っていた。けれどもクリスチャンたちは1時間祈ることすらできない」。だから敗北するのだと。祈りは愛の神との交わりという安息の側面がある。しかし霊の戦いということにおいて、祈りは忍耐を要することはまちがいない。祈りの答えが与えられるための忍耐ということにおいては、ジョージ・ミュラーが良く模範に上げられる。「祈り始めることでは十分ではない。一定の期間、祈り続けることでも足りない。私たちは、忍耐して、信じて、答えを得るまで祈り続けなければならない」。彼は、一つの祈りが答えられるために、何年も、何十年も忍耐して祈った。私たちは祈りは苦手と口にする。そもそも得意な人などいない。それは苦手でも何でもしなければならないことである。

現代人は忙しいことは確かである。けれども、それも言い訳にはできない。ある人は言っている。「私たちは祈らないことを『弱さ』、また『非常に忙しい状態』と呼んで、なすべきことが何かわかりつつも、さぼることばかり考える。私たちは多くの言い訳を思いつくかもしれないが、神はそれを不服従と呼ぶ。それは神に対して罪である」。祈りは、してもしなくてもどちらでもいいことではなく、キリストの兵士の義務である。ゆえに祈らないことは義務放棄となってしまう。特にとりなしの任務に忠実でなければならない。忙しい人たちがどうやって祈りの時間を作るのか、それは人それぞれである。子供がいて時間の取れないある主婦は、入浴の時間を用いた。共同生活でなかなか静まれないある方は、真夜中起きて、一定の時間を祈りに割いた。通勤の自動車や電車の時間を有効に用いるという方もいる。人それぞれである。仕事の休暇を取って祈りの日とするという方もいる。

第五は、すべての聖徒のために祈る。パウロはとりなしの務めを命じている。自分のためにしか祈らないというのは論外である。信仰をもつ前後は私も自分のためにしか祈らなかったが、いつまでもそれでいいということではない。パウロは「すべての聖徒のために」と命じている。これを実践しようとすると、とりなす人数は増えるわけである。自分が集っている教会の牧師、兄弟姉妹のため。知り合いのクリスチャンのため。重荷を持っている教会のため、宣教師のため。自分が置かれている地域の教会のため。日本の教会のため。そして外国の教会のためにも。人によっては曜日ごとに誰のために祈るか決めている方もいる。教会によっては祈祷カレンダーを作成して、共通の人、課題のために祈るようにしている。

祈りにおいては、やはりパウロが飛び抜けていて、文字通り、すべての聖徒のために祈っていたことがわかる。「あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています」(エペソ1章17節)。「私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り」(ピリピ1章3,4節)。「私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの神に感謝しています」(コロサイ1章3節)。「こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています」(コロサイ1章9節)。「私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え」(第一テサロニケ1章2節)。「私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては」(第二テモテ1章3節)。ぶっ飛ぶのは、コリント教会への記述である。「彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。・・・・労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばし食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、<日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります>」(第二コリント11章23~28節)。彼は艱難に耐えつつ、彼の心を絶えず行き来していたのは、すべての教会と、その諸問題であった。各教会はまだ未熟であった。未熟なクリスチャンたちが多かった。彼の心を痛ましめる問題も多かった。偽りの教えも入り込んできていた。パウロは各教会に対する悪魔の攻撃を覚えていた。パウロは今取り組んでいる目の前の宣教だけで忙しく、また自分の身を守ることだけで大変なはずなのに、すべての教会のために心を注ぎ出し日夜祈っていた。彼らが霊的に成長するように。信仰に堅く立つことができるように。救われる人が増し加えられて教会が成長するようにと。パウロを前にして、私たちは何の言い訳もできなくなる。まさしくパウロは祈りの戦士であった。

今日は祈りの姿勢について学んだ。神さまが、私たちをも祈りの戦士として強めてくださいますように。御霊の助けを与え、キリスト一つ心で、主のみこころを、力と忍耐をもって祈らせてくださいますように。互いにとりなし、私たちが福音を伝える使者として整えられ、勝利していくことができますように。