私たちは身だしなみを一応、気にする。顔にごはん粒が付いていないかとか、洋服にクリーニングのタグ(札)がついていなかとか。黙示録3章14節以降を見ると、ラオデキヤ教会に対するイエスさまのことばが記されている。イエスさまは、あなたがたは「自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」と叱責されている。ラオデキヤは織物の産地で、黒い布地が有名であったが、「あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい」と愛の皮肉を述べられる。また、ラオデキヤは目薬の産地で多くの盲人が集まる地域であったが、「目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい」と愛の皮肉を述べられる。今日、私たちが目を開いて見たいことは、神の武具を装着しているか、それらを使っているか否かである。

今日は、神の武具についての二回目である。キリスト者の戦いとは霊的戦いである。私たちは光と闇、神と悪魔という二つの異なる霊性の戦いの場に置かれている。前回は、神の武具について、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備えについて学んだ。私たちは、しっかりと真理を身につけていたい。また神の前に責められることのない心で、胸当てに割れ目のない生活を送っていたい。そして福音を理解し、神との平和、人との平和を保ち、平和の福音を生きる者でありたい。今日は四番目から残りの武具を見よう。

第四は「信仰の大盾」である。ローマの兵士が使用していた盾には二種類あった。一つは直径約60センチの丸盾。敵と剣で戦うときに用いた。もう一つがパウロが言及している盾で、幅約75センチ、高さ約1メートル35センチの四角い盾。兵士の体をすっぽりと覆うことを目的として作られていた。その大きな戸のような盾の背後に身を隠せば安全である。それは硬い木で作られており、金属で覆われていたり、オイルを塗った厚い革で覆われていた。この大盾には革のベルトが付いていて、そのベルトを肩口に掛け、大盾は背中に負った。戦いの時、大盾をもった兵士たちは、戦いの前面で横並びして、整列して、大盾を前方に押し出して、前の人の腰をつかみ、中腰となって敵に向かっていった。こうすれば、敵がいくら矢を放っても、大盾に当たって大丈夫である。また味方の兵士たちは、大盾をもった兵士の後から、安心して攻撃をしかけることができる。

当時の「火矢」であるが、矢の先端部分には、油から作られた黒い粘着物質(ピッチ)に浸した布が巻きつけられていた。矢を放つ直前に、それに火を付けて、敵軍めがけて放った。その矢に触れるものは、発火し、燃えた。その矢が兵士に向けられた場合、体を刺すというだけではなく、兵士を燃やす力があった。彼らが身につけている衣服、武具はまちがいなく損傷した。パウロはこの火矢で悪魔の攻撃、誘惑を表わしているわけである。

では、信仰の大盾を取るとは、実際、何を意味するのだろうか。一言で言えば、神への信頼である。それを示す、幾つかのみことばを紹介しよう。「神は拠り頼む者の盾」(箴言30章5節)。私たちは神さまの守りを信じることができる。「大盾で囲むように愛で囲まれます」(詩編5編12節)。私たちは神さまの愛を信じることができる。「主に信頼する者には、恵みがその人を取り囲む」(詩編32編10節)。私たちは主の恵みによって安心が生まれる。

悪者の放つ火矢には、疑い、恐れといったものがあるだろう。自分は愛されているのだろうか、見捨てられないだろうか、という疑い。そして、困難に直面して、もうだめになってしまうのではという恐れ。よく経験させられるところである。中傷、ののしりのたぐいの火矢もある。それは身近な人から来るかもしれない。それとは反対に、甘言、甘い誘惑の火矢もある。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢に働きかけてくるものである。偽りの教えの火矢もある。イエスさまご自身、こういった数々の火矢を荒野の誘惑から十字架刑に至るまで受けた。イエスさまの父なる神への信頼は揺るがず、火矢をすべて跳ね除けた。

信仰の大盾を取らないで、無防備となり、自分はだめだとボッーとしていたらどうなるだろうか。マイナスの思いに支配され、失望、落胆に沈んで動けなくなってしまう。信仰の大盾を取らないで、この世の人のことばの矢をグサッ、グサッと受けていたらどうなるだろうか。心は傷だらけで、炎上する。信仰の大盾を取らないで、代りに、この世のものを頼りにし、しがみつこうとしているならどうなるだろうか。実際、それらは頼りにはならないので、たましいは生気を失い、やがて腐ってしまう。また、偽りの教えをしきりに受け取っていたらどうなるだろうか。信仰は死線を彷徨うことになる。悪魔の攻撃に対して、ただの受け身でいてはいけない。信仰の大盾を取るのである。悪魔に付け入るスキを与えないためである。その背後に身を隠せば安全である。具体的に、これは、キリストに信頼するということでもある。キリストは十字架につけられる前夜、勝利を先取りした発言をされた。「この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません」(ヨハネ14章31節)。「あなた方は、世にあっては艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16章33節)。また、こう祈られた。「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします」(ヨハネ17章15節)。キリストは信仰の盾となってくださる。

第五は「救いのかぶと」である。頭をやられたら致命的である。大盾に少し穴が空いて負傷することはあるかもしれない。でもまだ生きている。しかし、かぶとをかぶっていないで、頭を剣で一撃されたら、もう終わりである。かぶとは敵の剣を意識して作られた。かぶとの外側は青銅で覆われていた。また当時のかぶとは先がとがっていたとも言う。それには意味がある。当時の剣は長さ90センチから120センチで、幅の広い両刃の剣である。その剣を敵の頭めがけて振るった。敵の頭蓋骨を粉砕するためである。かぶとに打撃が加えたとき、かぶとの先がとがっていることにより、打撃が横にそれてしまうという効果がある。このかぶと被っているのと被っていないのとでは大きな違いがある。私たちにとって救いのかぶととは、キリストとも言える。キリストを信じているならば救われているからである。キリストは私たちの救いである。

また、第一テサロニケ5章8節には、「救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう」というパウロの勧めがある。救いというのは、三つの面、過去、現在、未来がある。私たちはキリストにあって過去に救われた。そして現在も救われている。そして私たちは最終的に救われるだろう。つまり未来における救いの完成である。現在における戦いが激しいと、救いの望みを失ってしまう人がいる。失望に捕らわれてしまうということである。そうした人たちがいらっしゃる。信じていたって仕方がないと。信仰が何になると。その人たちは救のかぶとを脱ごうとしてしまっている。何があっても救いのかぶとを脱いではいけない。たとい試練が続いたとしても、救いの望みをしっかりもっていれば、最後まで戦い抜ける。悪魔のねらいは私たちの信仰を粉砕すること。その罠にまんまとはまってしまってはならない。

第五は「御霊の与える剣」である。武具のリストの中で挙げられている唯一の攻撃用の武具である。ここの「剣」の原語は、幅広の剣を意味する<ロムファイア>ではなく、<マカイラ>という短剣を指すことばが使用されている。これは振り回すものではなく、注意深く、的をねらって突き刺すときに用いられる。この剣は私たちにとって「神のことば」であると言うのである。ご存じのように、聖書は御霊のことばである(第二テモテ3章16節)。神のことばは真理で誤りがない(エペソ1章13節)。聖書に誤りがありうるとする教会は数多くあるが、剣の切れ味を鈍くしたいのだろうか。剣を使い物にならないようにしたいのだろうか。聖書は誤りのない神のことばであり、著者は神の聖霊である。神のことばは真理であるがゆえに、切れ味があり、力がある。神のことばが最大の武器となる。悪魔は神のことばを恐れる。

「神のことば」の「ことば」という訳にもふれておこう。「ことば」は<ロゴス>が使われることが多いが、この箇所は<レーマ>である。<ロゴス>と<レーマ>は互換性がある用語であるが、ここで<レーマ>が使用されていることには意味があるだろう。<レーマ>は、「個人的なことば、特別な宣言」に用いられることばである。剣を振るうにふさわしいことばだと思わないだろうか。私たちは、知識としてみことばを持っている、というだけでは意味をなさない。みことばが、聖書という本の中に閉じ込められているだけでは意味をなさない。そのみことばが聖書から飛び出して、生活の現場で、個人的なことばとなり、宣言となり、用いられなければならない。それがレーマの意味するところである。それが剣を振るうということである。もし剣を家宝だと言って床の間に飾っているだけなら意味をなさない。

マルチン・ルターは自分の体験を次のように記している。「ある時、たましいの敵が私のところへ来て、こう言った。『マルチン・ルターよ。お前はひどい罪人だ。お前は地獄に落ちるぞ。』『私はひどい罪人だ。その通りだ。・・・私は自分が罪人であることを告白するよ。しかし、だからなんだというのだ!』『そのためにお前は地獄に落ちるのだ!』『私が罪人であるのは本当だ。しかし聖書にはこう書かれている。“キリスト・イエスは罪人を救うために来られた。”それゆえ、私も救われるのだ。さあ、さっさとどこかへ行くがいい!』こうして私はたましいの敵をやりこめて、みことばの剣を用いて、私のもとから追い払いました」。これは一つの実例である。

御霊の与える剣を振るう模範は、なんと言っても、イエスさまである。イエスさまは荒野の誘惑の場面で、聖書にはこう書いてある、こう書いてある、こう書いてあると、三回みことばを声に出して宣言された。悪魔は勝てないとわかると去っていった(ルカ4章1~13節)。私たちはみことばの剣を振るっているだろうか。私たちは日本教というか、日本独特の信仰心に慣らされすぎてしまい、その誤りに気づかないで、偶像崇拝をしてしまうことが起こりうる。また、その地方ならではの物の考え方や風習に絡み取られ、自分もそれに影響されてしまい、その問題点に気づかないでいるということが起こりうる。また、その時代の価値基準に慣らされてしまい、それに迎合してしまうことが起こりうる。日曜は教会で礼拝するけれども、普段の日はこの世の人と同じ思考パターンで生きてしまうという現実が生まれる。つまり、剣は鞘に収まったままということである。だから私たちは、イエスさまに倣わなければならない。

そして私たちは、自分のためだけではなく、隣人のためにも、御霊の剣を振るうのである。キリストを宣べ伝える働きもそうである。パウロは言っている。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10章17節)。みことばがもつ真理の力、いのちの力を信じて、みことばを伝えよう。

また、みことばに基づいてアドバイスする、指導するという機会もあるだろう。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができるのです」(ヘブル4章12節)。みことばは鋭利で鋭い。内なる人のメスとなる。

今、御霊の剣をふるうことを見てきた。しかし、聖書と遠ざかっている生活をしていると、剣がなかなか抜けない。剣を全く使えないでいると、一方的に切りつけられて、突き刺されて、おしまいとなってしまう。あれどこだっけ、なんだっけと、もたもたやっているうちに、バッサリ、またはグサッとやられてしまう。みことばが心に浮かばないとか、暗唱しているのは微々たる箇所とかであると、生活の現場で、防戦一方となり、武具はボロボロとなり、ジリジリと敗走することになる。

名士は陰での稽古を怠らない。剣道の選手は竹刀を使っての稽古を怠らない。野球選手だったらバットの素振りを一日千回以上したりする。卓球選手だったらラケットのラリー。以前読んだ卓球女子の福原愛さんの新聞記事は印象に残っている。少女時代、お母さんと毎日ラリーの練習をしていた。休みの日は朝8時から夜10時まで、二人で千回ラリーができるまで一日が終わることがなかった。「1本でもミスをすると最初からまた始める。たとえ999本で途切れても」。千本ラリーの特訓を大人ではなくあどけない少女がしていた。ご本人は、あのラリーが自分の原点だと言い切る。

クリスチャンにとって大切なことは二つある。一つは聖書通読である。わかりにくい箇所もあるが、とにかく通読をくり返してください。頭と心に記憶させることである。これをくり返していると、最初はぴんとこなかった箇所も、自分の生活体験を通して、心にストンと落ちることが起きて来る。また聖書は聖書で解釈するという原則があるが、通読を続けていると、わからなかった旧約の箇所が新約の箇所を通してわかる、わからなかった新約の箇所が旧約の箇所を通してわかる、ということが起きてくる。聖書全体を読んでいくので、聖書的世界観、聖書的思考が自然と身に着くようになる。また、間違った教えを聞いた時に、それは間違っていると気づけるようになる。あの先生が言ったから、あの本に書いてあったからと、鵜呑みにしないようになる。偽りの教えは、大抵が聖書を引用してくる。荒野の誘惑でも、悪魔はイエスさまに対して、聖書のみことばを用いた。イエスさまを神殿の頂に立たせて、「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる』とも、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる』とも書いてあるからです」(ルカ4章9~11節)。悪魔の引用は詩編91篇からの引用だったけれども、それは、文脈を無視した引用で、聖書全体の教えからも外れていた引用だった。イエスさまは、それに気づいた。私たちも気づくことが求められる。現代は、偽りの教えが蔓延している時代である。不純物が混入した教え、みことばを曲げた教えを教えている教会は多い。

もう一つ大切なことは、結果的に聖書通読になるかもしれないが、読む箇所を1章だけ程度に限定して精読するデボーションである。じっくり時間をかけて短い箇所を味わう。心に深く教えられるまで聖書を閉じない。ヤコブは「みことばを聞いて行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分がながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます」(ヤコブ1章23,24節)と言っているが、聖書を読んで、閉じた瞬間、どこを読んで、何の教えだったか忘れるような読み方はデボーションでは禁止である。心に写るまで読む。そしてデボーションではみことばを通して教えられたことを祈る。気づいた自分の過ちは告白する。みことばを実践できるように祈る。このデボーションは毎日行うことである。みことばを読み、みことばを祈ることである。

そして、生活の現場でみことばの剣を振るうわけである。みことばの剣を振るうことは運動神経のない人でもできる。運動神経は関係ない。体が弱くてもできる。覚えておきたいことは力はみことばにあるということである。みことばは、私たちの肉体の強さ、弱さにも関係なく使える。みことばの剣を使う秘訣は、肉体の修練にはなく、霊的修練にある。みことばの知識を増し加えよう。みことばを心に写していこう。そして、生活の現場で、みことばの剣を振るう体験を積み重ねていこう。みことばが自分と他人に、生きて働くことを体験していこう。今、自分がどうしたらいいかわからないと悩む時は、特にみことばに向かおう。平穏な毎日と思える時もスキを作らないように、みことばに親しもう。こうして、前回と今回で学んだ防御の武具を身につけ、生活の現場で、みことばの剣を振るっていこう。次回は、18以降から、祈りの戦いについて学ぶこととする。