前回、信仰の戦いについて10~13節からご一緒に学んだ。キリスト者の戦いは人やこの世のシステムとの戦いというのではなく、霊的な戦いで、それは悪魔との戦いである。私たちは人を敵視してしまうことがあるが、敵は人ではなく、背後で働く悪の力である。パウロはこの戦いに際して、自分が目にしていたローマ兵士の武具をたとえに、キリスト者が身につけるべき武具を挙げていく。今回と次回の二回にわたって、その武具を学んでいこう。

パウロは14節で、まず「しっかりと立ちなさい」と戦闘意欲をかき立てている。今日学ぶ武具は、しっかりと立つための備えである。

第一の武具は「真理の帯」である(14節前半)。帯とは、腰に巻いた皮製の帯のようだが、しばし、兵士の防護服の上にぐるりと巻かれ、剣もつるしたベルトとして説明されてしまっていることが多い。しかし、実際は、防護服の上ではなく、下に、下腹部を保護するために腰に巻きつけた、皮製の前掛けだと思われる。この帯を締めるというのは保護のためだけではない。帯を締めるのは機敏な動きをするためである。帯を締めると機敏に行動できるわけである。その帯が今日の箇所では「真理の帯」と言われている。この真理とは、みことばに啓示された「神の真理」のことである(1章13節)。真理をもっていないのは悪魔である。悪魔はキリストによって「偽りの父」と呼ばれている(ヨハネ8章44節)。その偽りを真理だと人間に吹聴するわけである。それで人はだまされる。アダムとエバは神によって善悪の知識の木の実を食べないように禁止命令を出されていた。「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(2章17節)。けれども蛇の誘惑は「あなたがたは決して死にません」(3章4節)、それどころか、続いて「あなたがたは神のようになり」と偽りを吹き込んだ。「自分の意のままに生きればいい、神の裁きなんかない」。それどころか「神のようになれる」という夢を提示した。現代の宗教、哲学、心理学はまさに、「自分の意のままに生きればいい、それは罪なんかじゃない、裁かれる罪なんてないから大丈夫」と説き伏せてくる。また、「あなたは神の原石、あなたは神のようになれる」と誘惑してくる。誘惑の手段は昔も今も変わらない。そして、初代教会時代から続くキリストに関する偽りの教えは、キリストを信じるだけでは救われないとか、キリストはまことの神にしてまことの人にあらず、そうしたたぐいのものだった。詐欺グループは偽りを見破られると、手口がだんだん巧妙になると言われているが、それと同じようなことがキリスト教界においても起こっていった。現代は、一見、正統的な信仰告白を持ちながら、実際は異端的なグループが増えていると言われている。世の終わりには、多くの人々が反キリストに騙されることが聖書で預言されている。悪魔の偽りはしばし真理に似ている。だが「似ている」ということばには不吉な響きがある。「似ている」という一語の中に、途方もない違いが隠されている。その違いを判別する手段は、真理のみことばだけである。悪魔は真理の大海に一滴の毒をも混入させ、私たちを欺こうとする。その違いを判別する識別力は、真理の帯を締めたしもべだけがもつことができる。神の武具において、真理が最初に来ているということが重要である。これがなおざりにされれば、すべてがなし崩しになる。しっかりと真理の帯を締めよう。まず、聖書は客観的に誤りのない神のことばという聖書信仰に立って、毎日、聖書に親しむ習慣を身につけることが大切である。

第二の武具は「正義の胸当て」である(14節後半)。胸を前後から被うものが胸当てである。心臓や肺臓が一撃をくらえばおしまいである。胸は打撃や剣、矢から守らなければならない。胸当ては、皮や亜麻布に動物のひづめや角をスライスしたものを縫い込んだり、金属を縫い込んだして作られていた。また鋳型に入れて作られた金属製のものもあった。この胸当ては「正義」と言われている。「正義」と訳されていることばは「義」と訳すことができ、事実、他の箇所では「義」と訳されているので、キリストを信じる信仰によって与えられる義のことだという見解もある。「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(ローマ3章23,24節)。数々の罪を犯し、何のいさおしもない者が、ただキリストを信じる信仰によって罪赦され、義と認められる。これは法的な義と言えよう。私たちは、悪魔が私たちを罪人であると攻撃する時、「私の過去の罪は精算され、私にはキリストの義が与えられている」と主張できる。

今述べたことは真実であるが、今日のエペソの箇所では、法的な義というよりも、倫理的な義、道徳的な義のことが念頭にあると思われる。つまり、神の前に責められない心をもって生活するということである。「14節の胸当てとは何でしょうか。それは、正義です。あなたは、サタンと戦うとき、あなたの弱点がどこにあるか、ご存じでしょうか。それは、あなたの生活における罪です。それが、記憶すべき単純な原則なのです。あなたが正しいときには、サタンはあなたを刺し通す箇所を見つけられません。しかし、あなたが誘惑に対して、肉によって応答して罪を犯し始めるやいなや、突然あなたの武具に大きな割れ目ができます。そして、サタンと悪霊たちは、そこに武具を突き刺すことができるのです。正しい生活がなされているときは、サタンは侵入の入口がありません」(ジョン・マッカーサー・ジュニア)。エペソ4章27節の「悪魔に機会を与えないようにしなさい」の学びの時に、悪魔に足場を与えてしまう罪に警戒することを学んだ。罪は心に食い込み、悪魔が攻撃する足場となる。正義の胸当てにヒビが入っていたり、割れていると気づいたら、胸当ての修復である。罪を告白し、キリストの血潮によってきよめていただき、義を勝ち取るのである。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(第一ヨハネ1章9節)。こうして神の前に責められることのない心をもって歩んで行くのである。パウロはこう告白している。「私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています」(使徒24章16節)。

第三の武具は「平和の福音の備え」である(15節)。当教会のスリッパには「PEACE」の文字が入っている。この15節を意識している。スリッパはすぐに脱げてしまうし、ふにゃふにゃで弱いが、靴はしっかりと立ち、前に進むために欠かせない。靴は用途に応じて、様々な作りになっている。ビジネス用、パーティ用、レジャー用、登山用、スポーツ用、それぞれが違う。靴は、どういう動きが要求されるのか、地面はどうなっているのか、そうした違いによって様々な工夫がされている。当時の兵士の靴はどうだったのだろうか。戦いを考えた機能を持ち合わせていた。ラフな動きに耐えなければならない。でこぼこ岩を登ったりしなければならない。とげのある所を踏みつけていかなければならない。砂利が敷き詰められた小川を渡らなければならない。足にまめや傷ができたり、腫れあがったりしてしまうなら戦えなくなってしまうので、しっかり保護するものでなければならない。剣や盾を動かす時にすべったりしてはならない。すばやく前進、あるいは後退できるものでなければならない。ローマ兵士の靴底は、時に動きを考慮して、金属の小片や釘が打ちこまれていたという。防御と攻撃において足場は大事である。

キリストの兵士は「平和の福音の備え」を履くように言われている。この箇所はイザヤ52章7節に基づいていると思われる。開いてみよう。「良い知らせを伝える者の足は、山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる』とシオンに言う者の足は」。「良い知らせ」、すなわち福音が「平和」と言い換えられ、また「救い」と言い換えられている。福音、平和、救いを伝える人の足が賞賛されている。キリストの兵士の役割は平和の福音を伝えることにある。この平和の福音は、先ずキリストが伝えられた。「それから、キリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました」(エペソ2章17節)。さきほど述べたように「平和」は「救い」の同義語である。救われたというのは、言い換えると、神との平和を得たということである。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」(ローマ5章1節)。神との平和を持つ、それが福音のもたらす益の一つである。また福音は人と人との間にも平和をもたらす。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し」(エペソ2章14節)。人種国籍関係なく、互いに敵対関係にあった民族同士であっても、キリストを信じる信仰によって同じ神の国の民とされ、神の家族とされる。このように福音は、神との平和をもたらし、人との平和をもたらす。

では、「平和の福音の備えをはきなさい」とはどういうことだろうか。まず福音を信じなさい、ということなのだろうか。いや、この命令は、もうすでに福音を信じている人に言われている。よく見ると、「平和の福音をはきなさい」とは言われていない。不思議な表現になっていて、「平和の福音の備えをはきなさい」となっている。つまり、「福音を伝えるのにふさわしい備えをしなさい」ということだろう。どんな備えが必要だろうか。福音の中身について正しい知識を持っていることが必要だろう。キリストは神の救い主であること、神の国の王であること。キリストは私たちの罪のために十字架につき、よみがえられたこと。キリストを信じる者に罪の赦し、神の子とされる特権、永遠のいのちが与えられること。そうした知識を持っていなければならない。

また知識として知っているというだけではなく、平和の福音を生きていることが必要だろう。それはどういうことだろうか。一つは、神との平和をもっているということである。黙示録12章11節によれば、悪魔は「私たちの兄弟たちの告発者」「日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」と言われている。悪魔は私たちに、あなたは救われていないと思わせたい。あなたの罪は赦されていないと思わせたい。だから、私たちはしっかりと自らが福音を受け入れている必要がある。つまり、私はかつてあの罪この罪犯したけれども、私はキリストを信じているので、私はキリストの血潮によって罪赦され、神との平和を持っていると。この福音の真理に立たないと、足元がすべってしまう。宗教改革者のルターが悪魔の誘惑に会った時のことである。悪魔はルターに語りかける。「おまえは救われているのか?」ルターは答える。「私は救われているという感じはしない。しかし救われていると知っている。みことばがそう告げているから」。これが正しい。

平和の福音を生きていることの二つ目は、人との平和をもっているということである。キリストを信じている者同士が仲たがい、いがみ合い、争いなどをしているなら、平和の福音を生きていない。それでは前に進めない。私たちは互いに平和を作ることに心を砕くことが必要である。

北海道で牧会していられる三橋恵理也牧師の証は印象的だった。未信者のご主人をもつ姉妹が、ご主人とともに自宅に訪ねて来る日のことであった。三橋先生ご夫妻、夫婦喧嘩が始まってしまった。訪問者たちが来られるのが見える。でもまだ喧嘩が続く。玄関のチャイムが鳴る音がした。でもこのままでは出れない!玄関を離れ、帰りかける二人が見える。その間、先生ご夫妻はどうにか和解の祈りをささげた。後を追いかけ、家に入ってもらった。未信者の御主人は決心へと導かれる。これは平和の福音の備えを急いで履いた実例となろう。まだ片方履いていない、とならなくて幸いだった。

今日は、霊的戦いを戦うために、神の武具の三つを見た。真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え。私たちは、みことばの真理をしっかり身につけよう。そして真理という知識を身につけることだけでよしとせず、神の前に責められない心をもつことを心がけよう。そしてすべらない足となるべく、平和の福音の備えをしっかり履こう。