パウロの手紙もラストに近づいてきた。「終わりに言います」で今日の箇所が始まっている。パウロは重要な結びのことばを述べようとしている。パウロはこれまで、教会生活について、家庭生活について、そして社会生活について教えてきた。私たちはそれぞれの場で戦いを覚えている。自分が揺さぶられることを経験する。毎日が戦いである。しかしパウロがこれから語ろうとすることは対人関係的な戦いではない。霊的な戦いである。私たちが心の目をほんとうに開くならば、私たちの敵は悪魔であると知る。

イエスさまは公生涯の初めにおいて、荒野で誘惑を受けられた。イエスさまはみことばによってこの誘惑を退けた。公生涯の半ば過ぎにはペテロを通して誘惑を受けた。受難に向かわぬようにと。イエスさまは、「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と宣言し、この誘惑を退けられた。公生涯の終わりには、ゲッセマネの園で激しい誘惑があり、イエスさまは血の汗を流して祈り、この誘惑を退けた。同じ戦いが私たちにもある。もし私たちが戦う精神を忘れ、スキだらけの生活をしているのならば、喜ぶのは誰なのだろうか。

先ず、簡単に戦いの領域を三つに分けて見てみよう。第一に、社会での戦いである。パウロはエペソにおいて、激しい戦いがあった。使徒19章に詳しい。パウロはそこでユダヤ教のリーダーたちから敵対を受ける。また彼は当時流行していた魔術に立ち向かう。さらにエペソの守護神で、不道徳をもたらしていた女神アルテミスの神殿の守護者たちから激しい攻撃を受けることになる。パウロはそこで命の危険も味わった。エペソの聖徒たちは、自分たちの住んでいるエペソという町は小アジアの中でも偶像崇拝と不道徳で有名な町であることをよくよく知っていた。新宿歌舞伎町を大きくしたような町で、周囲の人たちの生き方に倣わないということは戦いであった。私たちも多かれ少なかれ、同じような戦いがある。

第二に、教会内部での戦いである(4章14節)。エペソの教会にも偽りの教えが混入しようとしていた。偽教師たちがエペソの町にもやってきていた。そうした者たちが真理に偽りを上手に混ぜて、不一致、分裂をもたらす。現代も、偽りの教えが蔓延している。私は、個人的に偽りの教えを見抜くことに関心があり、それが自分の賜物の一つでもあると自覚している。

第三に、個人的な戦いである。悪魔との戦いという時に、危機感なく、マンガチックに考えてしまうことがある。思い出していただきたい。4章27節で「悪魔に機会を与えないようにしなさい」とパウロが警告したとき、パウロが何を意識していたのかを。直接的には一節前の「怒り」「憤り」が意識にあった。これらはありふれた感情である。悪魔のねらいは罪を犯させ、たましいを汚し破壊し、さらには人と人との間も破壊してしまうこと。悪魔の誘惑は身近なものなのである。現実的なものである。他人事ではないのである。また、神に従うのをやめさせようとするというのも、キリストの生涯に見るごとく、悪魔の常套手段である。

ある牧師や司祭たちは、悪魔は存在しないとまで宣言している。だが、これは愚かしい。私たちははっきりと知っておこう。この世は神と悪魔という二つの異なる霊性の戦いの場であるということを。この世界は光と闇という二つの異なる霊性の戦いの場である。善と悪の戦いの場である。現代の悪魔の策略に関して心に留めておきたいことがある。現代は性の解放、多様な家族のあり方に象徴されるように、道徳的にゆるくなってきた。現代は善と悪の両極性を認めなくなってきた。つまり善と悪を対峙させないこと。善と悪を相対化してしまうこと。善と悪の区別をぼやかす、ボーダーラインをなくす。こうして善と悪の区別がなくなっていき、すべてが許されるという社会になっていく。そこからは罪や裁きという概念も排除されていく。悪は善が弱い状態、罪は過失、欠点とみなされるにとどまるからである。こうしたことの前提として、神と悪魔の両極性を認めないということがある。つまり、世界は二つの異なる霊性の戦いの場ではなく、世界には一つの霊性しかないとする。すべてのものに神的性質を身に帯びさせていく。これはもともと、仏教、神道、その他の東洋思想に見られるもので、新興宗教のたぐいも同じである。東洋神秘主義をルーツにもつニューエイジムーブメントもそうである。森羅万象すべては神、宇宙にあるすべてものが神の性質を帯びているとする。人間も神の一部、神の原石とする。この一つの霊性しかないという教えの背後に、悪魔は自分の存在を隠している。善と悪の両極性はない、この世界には一つの霊性しかない。この思想が今、世界で幅を効かし、倫理、道徳、宗教の分野に影響を与えている。

では、今日のみことばから学んでいこう。「主にあって、その大能の力によって強められなさい」(10節)。パウロはキリスト者たちが信仰生活の戦いの戦いにおいて、弱くなりやすく、恐れやすく、臆病になりやすい、ということを良く知っていた。パウロは後に、エペソで牧会している弟子テモテに手紙を書く。それが第一テモテと第二テモテの手紙である。一番弟子のテモテはエペソで、想像以上の困難が続いて弱腰になってしまっていた。そこでパウロはこう励ましている。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」(第二テモテ1章7節)。私たちも神の大能の力によって、強くしていただくことが必要ではないだろうか。パウロは先に、この力について、こう語っている。「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように」(エペソ1章19節)。私たちも強くされることを祈り、神のすぐれた力を体験していこう。

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために」(11節前半)。現代的な悪魔の策略に対しては先に触れた。「策略」ということばの原語は、狡猾に忍び寄り不意に獲物に飛びつく野生動物に対して使用されてきたことばである。テレビで、野生動物が獲物に気づかれないようにして忍び寄り獲物をしとめるシーンは何度も見てきただろう。私たちは獲物にされている。他人事ではない。多くの人はこの事に全く気づいてもいない。その手段は実に狡猾なわけである。神を装って私たちに近づく。真理と善、愛と光を装って私たちに近づく。肉欲をそそるエサをぶらさげて近づく。その後、猛毒の牙でしとめる。誘惑の手段はコンビニの商品の数ほどある。私たちに罪を犯させ、まことの神から引き離すためなら何でもやる。奇跡、不思議さえも。悪魔の策略に気づかないでいると、手遅れにもなる。考えさせられたカエルの実験がある。カエルを熱いお湯が入ったなべにいきなり入れると飛び出してしまう。しかしカエルを冷たい水の入ったなべに入れておいて徐々に温めていくと、カエルはじーっとしていて、なべの中でやがて死んでしまう。カエル事ではない。私たちも気をつけていないと、そうなってしまう。

悪魔は堕天使と言われている(イザヤ14章12~14節、エゼキエル28章12~17節で暗示)。聖書で彼は35回「悪魔」と呼ばれている(ギリシャ語は<ディアボロス>、「中傷する者」の意)。52回「サタン」と呼ばれている(ヘブル語で「敵対する者」の意)。また「悪霊どものかしら」(ルカ11章15節)、「偽りの父」(ヨハネ8章44節)、「この世を支配する者」(ヨハネ16章11節)、「この世の神」(第二コリント4章4節)、「空中の権威をもつ支配者」(エペソ2章2節)、その他、「竜」とか、「誘惑する者」など、多くの呼び名が当てはめられている。悪魔は架空の存在ではない。ただの悪の象徴ではない。神に敵対し、人を滅びに至らしめる狡猾な策略家である。

パウロは悪魔を意識し、「神のすべての武具を身につけなさい」と命じている(11節の後半)。信仰の武具の詳細は次回以降見ていくが、この時パウロは牢獄に囚われていた。見張り人は兵士であったので、武具を装着していたローマ兵士の姿をしょっちゅう見ていただろう。彼はその姿を見ながら、信仰の戦いについて瞑想していたと思う。

12節でパウロは、私たちの戦いの相手について陳述している。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」。ここは悪魔の軍団の紹介となっているが、特徴は一つ一つの単語が複数形になっていることである。「主権」は「支配」とも訳せるが(新改訳2017)、原文では複数形。よって「もろもろの支配」と訳せる。次の「力」も複数形である。よって「もろもろの力」と訳せる。「この暗やみの世界の支配者たち」も複数形。ここまでの表現を見ると、悪魔の軍団にも階級組織があることが伺える。最後に、「天にいるもろもろの悪霊」。直訳は「天にいるもろもろの霊的勢力」、いずれ複数形である。これらから教えられることは、悪魔は一人で活動するのではなく手下である堕ちた天使どもを使うということ。パウロは悪魔の階級組織の全貌とか、数がどのくらいいるかということを伝えようとはしていない。大切なことは戦う姿勢である。

パウロはこれらの敵に対して「格闘」ということばを使っている。「格闘」ということばはレスリングのような取っ組み合いの戦いを意味するが、古代の「格闘」の意味は重いということをお伝えしておく。古代のレスリングは現代のようにおとなしくない。また現代のプロレスのように、ごまかしの芝居ではない。命がけの戦いだった。勝者は命を守り、敗者は命を失うという生死を分けた戦いであった。パウロがこの後に詳述する武具、武器を見ていっても遊び事でないことがはっきりわかる。悪魔とその手下どもは、自分たちがやがて永遠の滅びの穴に投げ込まれるという審判の時が来ることを知っている。それで今、死にもの狂いになって、多くのたましいを道連れにしようと暴れ回っている。三つの福音書に記されている、ガダラ人(ゲラサ人)の地での悪霊追い出しの記事で、悪霊どものことばとしてこうある。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめにこられたのですか」(マタイ8章29節)。「その時」とは「定められた審判の時」である。彼らは自分たちの滅びの時が近づいていることを知っている。彼らは最後の力をふりしぼって戦おうとしている。

「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい」(13節)。「邪悪な日に際して」とはいつの日のことを指すのかは諸説あり、はっきりしない。危急の時が意識されていたのかもしれない。私たちにとっては今がすでに邪悪な日として認識すべきなのかもしれない。キリスト再臨前は再臨が近づけば近づくほど時代は悪くなると預言されている。邪悪な日の備えとして、ここでも「神のすべての武具をとりなさい」と命じられているが、それはキリストの兵士として、「いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように」なるためである。私たちの戦いはどちらが勝つかわからない終わりの見えない戦いをするのではない。悪魔は狡猾で力をもつ。しかし全知全能ではない。またキリストは十字架で明確に勝利を勝ち取られた。すでに勝利は宣言された。まだ戦いは残っているが勝利の実は全世界中にやがて明らかになるのである。第二次世界大戦時、連合軍がヨーロッパに上陸して、全世界は戦争が終結したと感じた。しかしその後も何ヶ月か死闘が続いた。寒さと疲労、危険と苦痛、爆撃による破壊、炎を上げる飛行機の急降下、しかし終わりは確実に来ていた。キリストは私たちにとっての勝利者である。キリストは勝利を勝ち取られ、1章20,21節で学んだように、大能の御座に着座され、すべての支配、権力、主権の上に、すべての名の上に高く置かれた。「すべての支配、権力、主権の上に」(21節)とは、堕天使である悪魔とその手下の悪霊どもが意識されていることを以前学んだ。キリストは十字架にかかり、よみがえり、天に昇り、神の右に着座され、至高の権威をもつ方となられた。私たちはこのお方の権威によって闇の力と戦う。私たちは目を覚まし、勝利の主キリストの御名によって信仰の戦いを戦おう。

次週とその次の週は、神の武具について学び、キリストの兵士の武装について学びたいと思う。