人間の存在について日本の学校等で教えられてきたことは、数十億年前に単純な生物が誕生し、徐々に徐々に進化し、そして700万年前頃に、人間の先祖となるサルが現れたというものである。ところが今年5月、興味を引く科学ニュースが報じられた。進化論の立場に立つ科学者たちが10万種以上の生物種のDNAの解析を行った。その結果、地球上に存在する生命のほとんどが10万年から20万年前に、ほぼ同時期に出現したというもの。そして中間種は存在しないというもの。進化論の定説をくつがえすデータに研究者たちは驚いている。また進化論では、人間の先祖はアフリカで誕生したというのが定説となっているが、この事も最近の遺伝子研究の進歩でわからなくなってきているらしい。考古学においては、アフリカ以外の地域から、古い現生人類の化石が発掘されている。また、進化論者が心待ちにしている中間種の化石は発掘されていない。反対に、遺跡発掘調査により、旧約聖書の物語の真実性が次々と裏づけられている。科学、考古学の進歩は聖書の権威を証明する方向に向かうだろう。

今日の聖書の箇所は、教会がスタートした頃の、約二千年前の記事である。場所はギリシャの「アテネ」(16節)。アテネオリンピックなどで名前が知られている。アテネは当時から、文化水準が高い有名な町だった。ソクラテスやプラトンの故郷だったし、アリストテレスやエピクロス、ゼノンといった有名な哲学者が帰化した町であった。

18節に「エピクロス派とストア派の哲学者たち」と記されているが、現代の思想の源流がこれらの派に見出すことができる。「エピクロス派」は一般に快楽主義と言われている。彼らが言う快楽は享楽のことを意味せず、過度な執着心や苦痛や恐れから解放されて、心地良い気分になる状態。精神の安定、ストレス解放といったところである。彼らはこれを得るために世の喧噪から離れ、静かに生きようとした。「ストア派」は禁欲主義。「ストイック」ということばは、ここから生じた。感情を余り表に出さない人に対して用いられることが多い。ストア派の人たちは理性によって感情に打ち勝つことが幸福と信じていた。エピクロス派もストア派も共通しているのは、心が穏やかで静かな状態を目指すということだった。現代の哲学、心理学、宗教も、心の平静や心の平安を目指している。穏やかで静かな心を得るためにはどうしたらいいのかと。日本人も昔からこのようなことを追求してきた。

21節を見ると、アテネの人は、耳新しいことを話したり聞いたりすることが趣味のようになっていたことがわかる。そんな教えがあるんだ、そんな主義主張があるんだ、なるほど、おもしろい。現代人はアテネ人以上である。テレビ、ラジオ、ネット、書物から、たくさんの情報が目に、耳に入ってくる。皆さんは、それをどう受け止め、どう処理しているだろうか。

アテネの人たちは思索好きというだけでなく、日本人と同じく八百万の神々を拝んでいた。22節を見れば、使徒パウロはアテネ人に対して「宗教心にあつい」と語っている。アテネでは道のそこここに、神々が祭られていた。23節では「知られない神に」と刻まれた祭壇までもが祭られていた事実が記されている。私たち日本人も、なんだかよくわからないまま、そこに神秘性を感じて、多くのものを祭って拝んでいる。アテネの人たちと日本人は似ているので、24節以降の使徒パウロの説教に耳を傾ける理由があると思う。

先ず、神とはどこにおられるだろうか。24節を見れば、「手でこしらえた宮などにはお住みになりません」とある。ではどこに?28節を見れば、「私たちは、神の中に生き、動き、存在しているのです」とある。神はその存在において、ここからここまでというお方はない。存在において無限である。限りがない。この宇宙にも入りきらない。聖書はこのようなお方を、限りある石や木になぞらえることも許していない。29節では、「神を人間の技術や工夫で造った金や銀などの像と同じものと考えてはいけません」と言われている。神の偉大さを思えば、そういうことになる。

次に、神が何をなされたのかを見てみよう。24節では、この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった」と言われている。つまり、神は創造主であるということである。当時、神についてよく言われていたことは、神と自然界は一体であるというもの。神と自然界の区別がない。神が自然界を造ったとは言わない。自然イコール神である。日本も同じである。だから、山も木々も信仰の対象となっていく。人間さえもが神として祀られるようになる。

25節前半を見よう。神は創造主であり、自立自存の神である。「自立自存」というのは、何にも頼らず、自分で存在できるということである。「また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません」。神は誰のお世話になる必要もなく存在できる。お団子、お酒を供えないといけないとか、顔が剝げたから補修してあげないといけないとか、火事の時は運び出してあげないといけないとか、そういった必要はない。つまり、神は全能の神である。人の助けはいらない。

25節後半を見よう。神は人間にすべてものを供給されるお方である。「神はすべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです」。神は人に仕えられる必要があるどころか、人間に必要なすべてを与える方であると言われている。神は人間を造り、生き物となるために命を与え、肉体の命と息すなわちたましいを与え、水も空気も食物も、その他、生きるに必要な環境をすべて与えてくださった方である。地球自体が、人間の住居となるべく造られ、与えられた。

26節を見よう。「神は、ひとりの人からすべてを造り出して、地の全面に住まわせた」と、このストーリーは創世記に記されている。進化論は、私たち人間は物質から偶然で生命が生まれた進化の産物であると主張し、この記述を否定する。進化論とは、ある時、物質からバクテリアのような原始生物が誕生して自己複製をくり返して人間にまでなったという仮説。ところが、バクテリアを構成するアミノ酸一個にしても、これが偶然に誕生する確率は天文学的確率で、人間でさえもアミノ酸一個造れていない。またDNA一つ造れていない。なのに偶然を叫ぶのだろうか。人間なら誰でも体内に持っている約100年近く休まず働き続ける心臓という器官一つを考えても、設計者の存在を思わずにはおれない。2013年の事、ドイツと日本の研究者チームが、日本が誇るスーパーコンピューター京と人間の脳を比較する実験を行った。人間の脳が1分で処理できたものをスパコンの京は40分かかったそうである。スーパーコンピューターは誰が作ったのだろうか。ではそれよりすぐれている人間の脳は偶然の産物ということはあり得るのだろうか。聖書が教える真実は進化論ではなく、創造論である。

26節は、神は創造主であるとともに、世界と歴史の支配者であることを告げている。「それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました」。聖書には地球の創世から世の終わりに至るまでのすべての時代について記されている。神はそれぞれの時代の人間の住まいの境界も定めておられる。私たちはなぜか21世紀に生かされている。この島国日本で。

このようにして、神は人間をなぜ創造し、生かしておくのかということだが、これからの時間は、神と人間の関係について見ていこう。私たち人間は人生の目的を問う。なぜ人は生きているのかと。その明確な答えは聖書だけが与えてくれる。27節にこう言われている。「これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見い出すこともあるのです」。神を求めない民族はいないという。なぜ神を求めるのだろうか。神は存在するからである。神という存在を抹消して世界と人間の存在は成り立たない。人間の価値も生きる目的も生まれない。

次のような話を読んだ。“ある日先生は、生徒に「洋服は何のために存在しているの?」と問いかけた。生徒は「着るためです」と答えた。次に「靴は?」と聞くと、「履くためです」と答えた。続いて先生は「自動車は?家は?」と聞いていったが、生徒はいとも簡単に答えていった。最後に先生は、「では、人間は何のために存在していると思う?」と聞いたが、生徒は真剣に考えたすえ、「先生、僕にはその答えがわからないのです」と答えた。この生徒は、最も大切な質問に対する答えを、まだ持っていなかったのである。”

さて、人間は神によって造られたので、神を求めるようにできている。人間は神のもとに立ち返るまで、心休まらない。アウグスチヌスというクリスチャンの有名なことばがある。「主よ。あなたが私たちをお造りになりました。ゆえに私たちの心はあなたのうちに憩うまで休まりません」。皆様にも神を求める心があると思う。私たちの心は神のうちに憩うまで休まらない。それは、私たち人間は、神とともに、神のために生きるように造られているからである。これが人間が存在する意味である。

神のもとに立ち返ろうとする時、障害となるのが私たち人間の罪である。だからパウロは悔い改めについて語っている。「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます」(30節)。悔い改めとは罪からの悔い改めである。当時の哲学も、その他の宗教も、この罪を軽視してしまっている。罪のことなど深刻に考えないように諭してしまっている。

神道はどうだろうか。神道にはさばきを招く罪という概念はない。それを否定している。一見罪に見えるものは、水で流せるものとか、たましいの上っ面に付いている祓えば取れる程度のちりとして捕える。汚れとか悪とかいう概念はあるが、それを善の不完全な状態として捉えているだけである。神道は、もともと、人は生まれながら善であるという人間観に立っている。神道では死後50日経つと、霊は神になると教えている。五十日祭がその時である。神道は言うなれば、人はたましいの進化を遂げて神になれるという教えである。よって、神社では死者が神として祭られるのが当たり前となる。

仏教はどうだろうか。釈迦は紀元前5世紀に生まれたが、彼は死後はどうなるか、永遠のたましいは存在するのかということについては答えていない。彼は東洋の哲学者であり、無神論者であり、今この生においてどのような心持ちで生きるべきかを教えたのである。彼の死後、原始仏教とインド古来の輪廻転生の教えが一体となってしまった。小乗仏教の誕生である。小乗仏教では、人は死ねば六道輪廻のどこかの世界に生まれ変わり、そこが修行の場となるとする。六道輪廻の最高の世界は天上界だが、そこも寿命があって苦しみの世界だと言う。そして、やっと天上界に入れたとしても、天上界から地獄に生まれ変わる可能性もあると言われている。この六道輪廻の円環の世界から解脱することが救いというわけなのだが、そこに到達するまで永遠に近い時間を過ごすことが普通になる。次に大乗仏教が誕生する。大乗仏教になると、釈迦をはじめ、様々な仏がいわば神々として拝まれ、有神論的になる。天上界にいる菩薩などもサポーターとなり、人の力の助けとなる。小乗仏教は自力であるが、大乗仏教は自力プラス他力である。そして、その後、浄土教が誕生する。他力本願ということばが定着する。浄土教によれば人間は計り知れなく罪深いので、自らの力で救われることは不可能とする。ただ阿弥陀仏の一方的なあわれみによる他はないと説く。親鸞などは、阿弥陀仏に念仏の思いを向けた時点で、すでに救われているとする。では阿弥陀仏とは誰なのかということだが、阿弥陀仏は十劫の昔に地上で国王だったそう。劫という数字の単位だが、億、兆、京の次の次の次の次に来る単位。その一劫の十倍の年数の昔には人間どころか地球すら存在していない。宇宙も存在していてかどうかわからない。しかし、その頃、この地上で国王であったというのである。これをどう考えたらいいのだろうか。いずれ、阿弥陀仏も、もとは人間に過ぎなかった存在ということになる。それにまた、罪を赦してくれるといっても、どのようにして罪を赦してくれるのかもよくわかっていない。その権威も本当にあるのかどうかもわからない。この阿弥陀仏は十劫の昔に修行を積んで悟りを開き、西方浄土を打ち建てたと言う。一般にこの世界は極楽とも言われている。この世界に阿弥陀仏は人間を入れてくださると言う。ただ勘違いしてならないのは、極楽は永遠不変の世界ではないということ。永遠不変の存在を認めないというのが仏教の根本思想である。また極楽は天の御国と違って最終の理想郷ではなく、そこで修行をして悟りを得るための場所なのである。極楽で悟りを得て、正真正銘の仏になれる。長期間の修行という概念は仏教に付きものである。亡くなって五十日後に神になれるという神道とは違う。神道が50メートルの短距離走だとすれば、仏教はマラソンか耐久レースに匹敵する。神道と仏教の共通点としては、神道も仏教も創造主という存在を見ないということがある。罪の問題に関しては、仏教のほうが真面目に捉えているだろう。

私たちが本当の平安を得るためには、罪からの救いをいただいて、創造主なる神に立ち返ることが必要であると聖書は説く。そのためには、罪からの確かな救いを保証する出来事や罪からの救いを保証する確かな存在が必要になってくる。

聖書において神は、父、子、聖霊の三位一体であり、御子なる神が救い主として時至り人となられたとある。それがイエス・キリストである。彼は今から約二千年前、人となって西アジアのイスラエルに出現された。キリストはもともと人間に過ぎなかったのに神仏になった人物ではなく、神が天から降り人となった存在である。しかも神話的人物ではなく、歴史に実在した人物である。キリストの生涯は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書に記されている。

31節を読もう。「なぜなら、神はお立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです」(前半)。お立てになったひとりの人」とはイエス・キリストである。すべての人に罪の審判の時が来る。罪には裁きが伴うという事実から私たちは目を背けてはならない。永遠の滅びを招くこの罪の問題はどう解決したらいいのだろうか。お祓いでどうにかなるだろうか。善行でつぐなうことができるのだろうか。この世かあの世で修行を積めばいつかは解決すのだろうか。はたまた神々の助けを借りることで解決するのだろうか。必要なことは二つある。一つは30節で見た悔い改めである。創造主を認めず、信ぜず、従わないで生きてきたことや、神の義に反するもろもろの罪を、この神の前にへりくだって認めることである。もう一つはイエス・キリストを罪からの救い主として信じることである。31節後半に、「その方を死者からよみがえらせることによって」とあるが、前提としてキリストが一度死んだということがある。何のために死んだのか。寿命だったのか。いや30歳過ぎた若さだったのでそうではない。病気でもない。重罪人として、当時、最も重い死刑手段だった十字架刑に処せられたわけである。それは当時のユダヤ教指導者のねたみによるものであったが、キリストはのがれることができた十字架にあえてかかり、この十字架の上で全人類の罪、私と皆さんの罪を負い、身代わりにさばきを受けてくださったのである。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(第二コリント5章21節)。罪の解決はこの十字架にある。この世の哲学も、人の作った宗教も、罪の問題をうやむやにして、仮想現実の世界で解決しようとしているように思う。神は時至り、歴史の中で、キリストの十字架を通して、罪を処罰し、罪からの救いのみわざを成し遂げてくださった。それはリアルなみわざである。

32節をご覧ください。「死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い…」。では、彼らは何を信じていたのだろうか。アテネの人たちは、女神、男神含め、ギリシャ神話に語られているいろいろな神々の存在を信じていた。ギリシャ神話の最初の神、原初神はカオスといって、天と地が形なく混じり合った混沌とした状態を意味する。それが始まりで、そこから大地の女神ガイアが生まれ、ガイアから、様々な神々が生まれていったと言われている。アテネの守護神はアテナという女神であった。いずれ彼らは、死者の復活を否定しながら、ただの死んだ人間や架空の存在を拝んでいたわけである。キリストはただの死んだ人間ではない。架空の存在でもない。キリストの復活はキリストがただの人間ではないこと、人間に権威を持つ神であることの証明、いのちの君であることの証明である。

最後に、使徒の働き4章8~12節の使徒ペテロの裁判での弁明のことばを読んで終わる。「・・・この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。・・・この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです」。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。」その理由は三つある。第一に、キリストは人となられたまことの神だからである。第二に、キリストは十字架の上で私たちの罪の身代わりとなってくださったからである。第三に、キリストは死からよみがえられたからである。誰でも、キリストのもとに来る時にさ迷う人生に終止符を打つことができ、本当の平安を得ることができるのである。キリストを通して神に立ち返るとき、自分のほんとうの居場所を見つけ、真の安らぎを得ることができるのである。