仕事とは何なのだろうか。「仕事」は漢字の語源的には単に「すること」を意味する。そうすると何でも仕事になってくる。赤ちゃんのお仕事は泣くこと、ミルクを飲むこと、ウンチをすること、という風に。仕事がない人はいない。時代とともに、仕事は職業という意味合いを持つようになっていったわけである。私たちは仕事というときに、それは生活の糧を得るために必要なものという感覚が強い。また、生きがいを感じるために自分の能力を発揮するためにあるもの、といった感覚がある。確かに食べるために働くのであり、自分の適性にかなった仕事に就くことは喜びである。しかしながら、仕事にはもっと深い意味があるように思う。

そもそも、聖書は仕事についてどのように見ているだろうか。神は六日間で世界を創造されたとある。神の仕事である。神は六日目に人間を造られる時、「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて、彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように」(創世記1章26節)と言われた。神は世界統治の仕事を人間にゆだねられた。神はご自身のかたちに造られたアダムとエバにこう命じられた。「地を満たせ。地を従えよ」(1章27節)。アダムについてはこうも言われている。「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた」(2章15節)。最初のアダムは農耕の仕事を命ぜられた。神が人間に仕事を託した。仕事とは神から来るものであり、人間本来のものなのである。ある人は言っている。「仕事に関するクリスチャンの理解とはどういうものなのでしょう?仕事は本来、人が生きるために行うことではなく、人はむしろ、それをするために生きるのです」(作家ドロシー・セイヤーズ)。これは正しい。そして神は、仕事と休息のバランスも定められた。仕事を行うのは六日間である。「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない」(出エジプト20章6節)。これは神の仕事、六日間の創造に並行している。そして神は七日目に休まれたように、人間も一日は安息日として過ごすように命じられている。神は仕事中毒も勧めていないというバランスがある。そして安息日は礼拝の日であった。

私たちはなぜ仕事をするのかということの前提として、仕事を神との関わりで見ることが必要であり、仕事とは神からの召しであると、まず知らなければならない。神のかたちに造られた人間は仕事に召されている。最初の人間がした仕事は、先ほど見たように労働の種類からすると、肉体労働だった。知的労働であれ、肉体労働であれ、すべての仕事は人間としての品格があり、尊いものなのである。エペソ5章21~24節の「妻への勧め」で家事について学んだが、家事も神の召しの仕事であるということをお話させていただいた。その時、私は、テトス2章5節で記されている妻の務めの「家事」を引用して、「家事」の意味について説明させていただいた。

「家事」ということばは「家」<オイコス>と「仕事」<エルゴン>の合成語である。<エルゴン>は、単に一般的な意味における労働を意味するのではなく、特別な仕事、職務といったことも意味する。使徒13章2節で<エルゴン>は「任務」と訳されており、「わたしの召した任務<エルゴン>につかせなさい」とある。家事は神から与えられた任務である。

クリスチャンの仕事の目的は何だろうか。仕事内容としては、地球全体とそこで生きるすべてのものに関わることだが、仕事の目的としては神の栄光のためであり、仕事を通して神と人とに仕えることにある。仕事において、神を喜ばせているだろうか、神の御名を汚すことをしていないだろうか、隣人を愛する精神にかなっているだろうか、社会全体の利益に仕えているだろうか、そうしたことを吟味させられる。近年の新聞の報道などを見てもわかるが、法に触れない範囲で、触れてもバレないようにして最大限の利益を得ることが目的となっているケースが多い。神を恐れない社会は、高い倫理観、人間性を尊重する社内の管理システム、高品質の品物、顧客の幸せ、人間全体の幸せのために何が最善か、ということがなおざりにされていく。クリスチャンは仕事を通して神と人に仕えていくわけでだから、世の人以上に高い目標をもって、世の人とは違う目利きをもつべきだろう。また職場で直接福音を語れなくとも、ことばとふるまいでキリストを証するということを心がけていくだろう。

では続いて、雇用関係について、経営者と労働者の関係について、雇い主と従業員の関係について、上司と部下の関係について見ていこう。エペソ人への手紙では、直接的には奴隷と主人の主従関係の教えとなっている。まず、当時の奴隷について説明しておこう。当時、ローマ帝国内には六千万人の奴隷がいたという。当時はまちがった労働観があり、労働は人間を卑しめるものとされていた。そしてあらゆる仕事は奴隷によってなされた。医師や教師さえも奴隷であった。5節で「奴隷たちよ」というときにアフリカから連れて来られた人権を全く認められない奴隷とは違うことを知って欲しいと思う。江戸時代などに普通にあった年季奉公に近いもの。奴隷は家族や私有財産を持つことも許され、その財産を使って自由人になることもできた。けれども、奴隷は一般的に不当に卑しめられていたことはまちがいない。アリストテレスは言う。「奴隷は生きた道具であり、道具は命を持たない道具のようなものだからである」。奴隷は道具以上にみなされていない。ヴァロという人物は奴隷を農耕用具の中に分類した。ことばを話す道具が奴隷で、ことばを話さない道具が家畜、音も出さないものが運搬具であると言う。カトーという人物は次のように言った。「年老いた奴隷は屑山に捨てなければならない。奴隷が病んでいるとき、平常どおりの賃金を与えることは途方もない贅沢である。年老いた病気の奴隷は、壊れて役に立たない道具にすぎない」。

奴隷が逃亡したときは額に逃亡者を意味するFの文字を焼きつけられ、最悪の場合は死刑だった。主人の気まぐれで殺されてしまう奴隷も多かった。愛玩具のうずらを殺したという理由で十字架刑、ガラスの器を落として割ったという理由だけで、凶暴なやつめうなぎのいる池に生きたまま投げ込まれる。タオルを無くしたという理由だけで拷問にかけられたり、焼印を押される。残酷な鞭の音や、鎖のチャリンチャリンという音を楽しむ残酷な主人は多かった。女主人たちも恐かった。腹が立つという理由だけで死刑。女主人たちによって髪の毛を引き抜かれたり、女主人の爪で頬を引っ掻かれたりした。主人たちが奴隷たちにすることはどんなことでも正当化されてしまった。事実上、奴隷たちには何の権利もなかった。

奴隷たちは罰を恐れて服従しているというだけで、また食べられなくなるから服従しているだけで、主人たちに不信感を抱き、敵対心を抱いて生活していた。「奴隷の数だけ敵あり」という諺すら残っている。奴隷たちにとって敵とは主人だった。こうした背景を理解して、5~7節を今一度読んでみよう。随分、チャレンジに満ちた教えであることがわかる。「キリストに従うように、恐れおののいて、真心から」(5節)。主人が善良で優しい主人に対してならわかるが、しかしそうでなくても、主に対してするように、「恐れおののいて」、つまり、敬意をもって。それもいやいやではなく「真心から」。このことばは「衷心から」と訳すことができよう(原語は「一つの心で」)。続いて「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく」(6節前半)。仕える動機が、ただ怒らせないようにとか、評価が下がらないようにとか、給料が下がらないようにとかいうだけだったら空しい。また周囲の目がある時だけ一生懸命であとは手を抜くというのだったら空しい。パウロは「キリストのしもべとして、心から神のみこころを行う」ように命じている(6節後半)。神を意識して、最善はどうすることなのかを考え、自分の仕事に忠実で誠実さをつらぬくようあるようにという勧めである。パウロはまとめとして「人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい」(7節)と命じている。ある方は、この箇所から、「クリスチャンは明るく喜びながら仕事をすべきです」と説明しているが、もし本当に主に仕えるようにするなら、誠実に仕えるだろうし、苦虫を踏みつぶしたような心と顔で仕事はしないだろう。

パウロは8節で、奴隷たちへの報いを述べて励ましている。パウロは良い仕事をすれば、主からの報いがあることを告げている。ここに慰めがある。現代は、軽い労働、少ない労働時間、しかしながらたくさんの給料、長い休日を望む。しかし、そうやすやすと願いはかなわない。共産主義的社会主義においては、いくらがんばっても、まじめに働いても、それにふさわしい対価が得られず、人々は働く意欲を失うと言われているが、私たちは最終的に主からの報いに心を留めるわけである。

では、主人に対する教えに移ろう(9節)。「奴隷に対して同じようにふるまいなさい」と、ここで「同じように」ということばがカギになるであろう。奴隷は主人に対して、敬意、真心、誠実さ、善意といったことが求められていた。それも「主に仕えるように」して(7節)。つまり、主人はキリストにならって、しもべとしてのリーダーシップを発揮するように求められている。参考までにマルコ10章42~45節を開こう。キリストはリーダーに「みなに仕える者になりなさい」(43節後半)「みなのしもべになりなさい」(44節)と命じている。「しもべ」<ドゥーロス>は「奴隷」を意味することばである。キリストが、この仕えるしもべとしてのリーダーシップの模範を示されたわけである。

この世は、ピラミット構造の組織が一般的である。トップが権力を握り、下部の組織の人は階級構造の上の人たちの利益のために、組織の駒、道具として動くことだけが求められる。トップはエゴで支配する傲慢なリーダーであることが多い。皆にイエスマンになることを求め、ロボットとして使い、自分の利益のために仕えさせる。責任問題が発生すると、とかげのしっぽ切りで、下部の人に責任を押しつけて、事を始末する。しかし仕えるしもべとしてのリーダーシップをもつ人物は、精神的には逆ピラミットをイメージしていて、自分を底辺に置く。そして部下、顧客、すべてに仕えようとする。もちろん、主に仕えるようにということなので、一人ひとりを道具とはみたりしない。部下に対しては権限を委譲し、仕事をまかせる。その人は部下が一生懸命働いている間、自分はパチンコ屋に行って遊んだりしてはいない。部下を助けつつ、リーダーとしての仕事に専心する。また神の導きを仰ぎ、導きを受けたことは組織に伝達する。問題が発生すれば、責任をしっかりとる。

ある女性が入社してほどなくして大きなミスを犯してしまった。彼女は解雇を覚悟したが、上司が責任を全部被ってくれたそうである。結果、その上司の社内での評判は落ちてしまった。上司の行動に驚いた女性は、上司のもとに御礼を言いに行った。これまで、自分の成果を横取りする上司はいても、間違いを被ってくれた上司は一人もいなかったそうである。この女性はこの人と今までの上司の違いを知りたいと思った。女性が上司にしつこく尋ねると、その上司はこう言ったと言う。「私はクリスチャンでね。イエス・キリストが私の間違いを被ってくれたから、神さまは私を受け入れてくださったんだ。イエスさまは十字架で死んでまで、私の間違いをかばってくれたんだよ。だから私も他の人の間違いでも責任を取りたいと思う。それに、そうしてくれたイエスさまのおかげで、実際にそうする力をいただくことができるんだ」。このような上司がいたらすばらしい。

では、エペソ6章9節に戻ろう。パウロは主人たちがしがちなことを念頭に「おどすことはやめなさい」と命じる。今で言うパワハラ禁止である。キリストにある主人はセクハラもパワハラもしない。当時もセクハラ、パワハラは当たり前で、堂々と行われていた。前に述べたように、刑罰、死刑まで主人の権限でできた。気に入らなくなった奴隷は売り払ってしまえば良かった。こうした社会にあって、パウロの命令は異例であった。けれども、これこそ当たり前のことである。使用人も神に愛されているひとりの人間である。隣人愛をもって接しなければならない。自分が使っている労働者や奴隷と比べて、自分のほうが良い人間ですぐれているなどと決して思ってはいけない。だが、そうした高ぶりが悲劇を生む。脅迫、恫喝、むち打ち、その他。その人の社会的階級が奴隷であっても、神の前には同じ神のかたちに造られた人間であり、キリストがいのちを捨てるほどに愛されている人間である。主人は奴隷の能力や生産性だけに興味をもってしまって、尊い人格であることを忘れてしまう誘惑が大きかったと思う。たとえキリスト者の主人であっても、その誘惑があった。

「彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることはないことをしているのですから」(9節後半)。主人は自分を含めてすべての人の主が天におられることを意識して、主の前にへりくだらなければならない。奴隷よりも自分がすぐれているなどと思うべきではない。

こうしたパウロの教えがローマ帝国内に浸透していき、キリスト者となる主人、キリスト者となる奴隷が増えていった。キリスト者の奴隷から奴隷へ、キリスト者の主人から奴隷へ、ある場合はキリスト者の奴隷から主人へと、良い感化がなされていった。主人も奴隷もキリスト者となる家庭が増えていったであろう。

パウロは、この時、奴隷制の撤廃を言ってはいない。キリスト者少数の時代であるので、そのような運動ができなかったということがあるかもしれないが、考えて見ると、大切なことは法の整備とか、組織体制をどうするかということ以上に、そこに身を置く人の問題であると知る。奴隷と主人が敵同士である関係をやめて、互いに愛をもって仕え合えば、内側から問題は解決していく。御国の律法が優先され、互いの幸せのために生きて行く関係が生まれる。奴隷制も意味がなさなくなる。やはり、変えられなければならないのは、先ず人間である。共産主義等は、社会の不幸の原因は外側の制度であると考える。社会システムを変え、不平等を無くすことだと考える。けれども、人が変わらなければ全て理想で終わる。考えてみれば、キリストも政治運動はしなかった。社会改革運動はしなかった。愛を説き、愛を実践した。福音を通して人を変えることを優先した。私たちは社会人として、キリスト者として、それぞれの立場で、今日の教えを実践しよう。主に仕え、他者に仕え、隣人愛を実践し、人間全体の利益を思い巡らし、自分にできることを実践し、キリストを証しして歩んで行こう。