今日のみことばを解説するにあたり、秋田県の小中学生の事情をちょっと調べてみた。47都道府県別ランキングで特徴をつかむことができる。小中の全国学力テスト~国語が一位。中学生読書率一位。小中の宿題実行率一位。小中の自宅学習率一位。小学生通塾率最低。不登校小学生数最低。小中の学校快適率一位。小中の家庭内会話率一位。小学生携帯電話・スマートフォン所有率最低。中学生長時間テレビ視聴率最低。中学生長時間ネット使用率最低。これらから見えてくることは、秋田の子どもたちは純朴であるということ。家族とのコミュニケーションはけっこうあり、勉強もまじめにやっている。けれども、それより上の世代の統計を見ると、ひきこもりが多くなり、高齢者は希望を失っているという姿が見えてくる。明るい希望を未来に与えるのは聖書だけだと信じる。

パウロは先に、夫婦への勧めを5章22~33節で語った。今日の箇所は、いわゆる親子への勧めとなっている。初めに、子どもを対象に語られている(1~3節)。親がいればどんなに年をとっていても子どもは子どもであるわけだが、「子ども」<テクノン>(1節)と訳されていることばは「幼い子ども」を意味することばなので、親の保護下にある年齢の子どもたちが想定されている。しかしながら、成人を過ぎた子どもでも、パウロの教えには耳を傾ける必要がある。

「主にあって両親に従いなさい」(1節)。「従う」と訳されていることばは「聞き従う」という意味のことばである。4節では父たちに対して、「主の教育と訓戒によって育てなさい」と言われているわけだが、親は主のみことばを子どもに教える責任がある。子どもは親を通して伝えられた主のみことばの教えに聞いて従うという責任があることを知る。家族ぐるみで万引きしていて捕まった家族がいたが、子どもは親の犯罪の指示に聞き従ったわけである。ここは、そのような意味で「従いなさい」(聞き従いなさい)と言われているわけではない。けれども、神さまが与えてくれた親として、どんな親であっても敬うことはすべきであり、基本的に、親の言うことに、それが間違いでないならば聞き従う責任がある。その理由は「あなたの父と母を敬え」(2節)という戒めにある。この戒めは「第一の戒め」と言われているが、モーセの十戒では五番目に位置する(出エジプト20章12節)。しかし、対人関係の戒めでは一番目に位置しているので、「第一の戒め」となる。なぜ対人関係の戒めで最初に位置づけられているのかというなら、家族が社会の基礎となる単位だからということがあげられよう。家族生活が人間生活、社会生活の基盤。これがダメになったらすべてがダメになっていく。親を敬うということが社会生活の基本中の基本となる。親を敬わなければならない理由の霊的側面は、親を敬うことが神を敬うことにつながるということがあげられる。「敬う」は「重んずる」の意。このヘブル語の名詞形<カーボード>は「栄光」の意。親は神の栄光を代表する存在。神の権威を代表する存在という言い方もできよう。よって、子どもは自分に立てられた親を敬う義務がある。また親は神の栄光を代表する存在、神の権威を代表する存在として、子どもの牧会者、教師として教え導く責任がある。親と子はそのような関係に神によって定められている。親を敬わなければならない実際的側面もあるだろう。子どもは親に養ってもらっているわけだから、それだけでも敬ってしかるべし、ということにもなるだろう。けれども覚えておかなければならないことは、たといどんな親であっても親は親であるということ。出エジプト記21章17節では、この第一の戒めを守らない者に対するさばきが記されている。「自分の父または母をのろう者は、必ず殺さなければならない」。先ほど「敬う」の意味は「重んずる」ことだとお話したが、「のろう」<キッレール>の意味は「軽んずる」である。それは「敬う」と反対の行為である。そしてそれは死のさばきをもたらす。つまり罪であるということ。私を含めて、完全な親はいない。親に殺されそうになった子どももいる。捨てられた子どももいる。けれども、「あなたの父と母を敬え」は普遍的な命令なのである。親に捨てられた女性がクリスチャンとなって、父親を捜しだし、父親に赦したことを伝え、神にあって愛していることを伝えた物語を読んだことがある。過日は幼い頃に母親に捨てられた男性が、母親捜しの旅の帰りに当教会に立ち寄ってくださり、そのお気持ちを伺う機会がもてた。やはり、血のつながった親子は特別な関係であると思わされるし、神さまはこの関係を重視されていることを知る。

次に、親への勧めを見よう(4節)。「父たちよ」で始まるが、「父」は親の代表として言われていると思われる。だから「母」も耳を傾けなければならない。子どもは平均すれば約18年間、親元に留めておかれる。親の影響力は大である。幼稚園、学校といった他の組織や機関も、子どもたちの人格の形成に影響を与えないわけではないが、親と同程度の影響を及ぼすものではない。今は共働き世帯が多く、子どもを小さい時から、保育園や幼稚園に預ける。学校にいる時間も昔と比べ長くなった。塾に通う子ども多い。学童保育もある。しかし学校時代でさえ、睡眠時間以外に、一週あたり50時間ほどは家庭の中、あるいはその近辺で費やされる。一番大切なことは家庭で学ぶと言って良い。そうすると親の責任は大なわけだが、自分は振り返ってみると、失格だったと思う。しかし、やり直しが効かないという現実がある。悪かったところは神さまと子どもに赦してもらうほかはない。親が愛情に満ち、神さまと近い人格であると、その子どもは神との関係を築くのが容易だと言われる。親が冷淡で怒りっぽく、子どもをはねつけるような親であると、その子どもは、神は遠くにいて、自分に個人的に関心は持っていないように感じるかもしれない。また、神は辛辣で、短気で、少しでも間違った行動を取ると小言を言うようなお方であると受け取ってしまうかもしれない。親は神のイメージを表す存在で、子どもたちの前に生きた実物教育となっているわけである。

4節前半で、「子どもをおこらせてはいけません」とある。子どもに注意したら、ふくれっ面になり、おこってしまった、ということがあるではないかと言われるかもしれないが、そういう意図で言われているのではない。そんなことを言ったら、子どもに注意もできなくなる。しつけができなくなる。ここでは、悪い意味で子どももおこらせるな、ということである。そうしたことは親である私たちが多かれ少なかれ経験してきたことである。年がら年中、夫婦喧嘩をしている人たちがいた。そして子どもたちにも辛辣だった。しかし、人前でだけ良いキリスト者をふるまっていた。子どもたちは怒り、神を拒絶した。次のようなものもどうだろうか。子どもたちに対して、ものをほしがるな、がまんしなさい、質素な生活が一番と言いながら、金持ちをうらやむ姿をさらす。子どもたちに親切な口の利き方をしなさいと言いながら、子どもたちの前で人の悪口を言う。言っていることとやっていることに一貫性がない場合、子どもはおこる。また、次の危険性もある。今の若者世代のクリスチャンたちのアンケートによると(アメリカ版)、大人たちの律法主義に苛立っていることがわかる。つまり、パリサイ人っぽいということ。

さて、子どもによっては表面に怒りを表すというよりも、性格的に、負の感情が内側にこもってしまう子もいる。ある女性の両親は、娘が下品な言葉遣いをしたからといって、彼女の口を石鹸で洗ったという。しかし彼女は両親の部屋から互いに口汚くののしりあっているのを聞いてしまう。彼女は情緒障害にまでなってしまった。

子どもの怒りは、とんでもない形で爆発もする。神戸の連続児童殺傷事件は世間を震撼させ、その後も同じような事件が続いているが、その犯人少年Aは、厳しく育てられ、弟が生まれた時、「足が痛い」と訴えたことがあった。医者に行くと、母親は、「もっと、かまってあげてください。精神面から来ているのでしょう」とアドバイスされたことがあった。またこの少年Aは小学生の時の作文でお母さんを「魔界の大魔王」になぞらえた。うつろな表情で宙を見つめて、「お母さんの姿が見えない」と言い出したこともあったという。親にあるがままを受け入れられていないという実感で育った子どもは、「自分は誰にも愛されていない」という被害者意識を勝手に強め、概して人に対して攻撃的となる。鑑別所に入れられる少年の多くは、愛情不足が明らかであると言われている。少年Aは逮捕後に両親と面会した際、泣きじゃくりながらこう怒鳴った。「親だったらわかれよー」。近年は幼児虐待のニュースが絶えないが、そんな大げさなことでなくとも、自分のストレスを正当化して子どもにぶつけてしまうことも誰でも起こりうる。そして負の連鎖が生まれてしまう。

結局、親の人格が問われる。親の愛情が問われる。しかし、その先、過保護になっていいということではない。何でも、子どもの肩をもてばいいということではない。子どもが消しゴムを返してもらえないことに腹を立て、親子でその子を泥棒呼ばわりして不登校に追い込んだ記事を読んだことがある。この事件には裏話があって、最初に友だちの消しゴムを借りたままなくして黙っていたのは当事者の方。自分に都合の悪いことは黙って、逆に相手を悪い者扱いにしようとしていた。親は客観的判断が望まれるのに、子どもを守るイコール子どもの味方をすればいいと、被害者意識に凝り固まってしまっていた。こうした親バカの事例も尽きないだろう。

親はどうしたらいいのかわからなくなることがあるが、過保護はいただけない。参考として箴言22章6節を開こう。「若者をその行く道にふさわしく教育せよ」。「教育せよ」と訳されているヘブル語の主要な、そして文字通りの意味は、「せばめる」である。つまり、子どもたちの通り道の両側を生垣で囲い、封じ込めて、正しい道を歩ませよ、と言っておられるのである。ここには制限、矯正の概念がある。ある小さな女の子がスーパーで癇癪を起こし、泣いたり、叫んだりして、次々に品物を要求し、母親を困らせていた。その小さな女の子は、母親をコントロールする術を知っていた。それを見ていたある女の子は、自分の母親に向かって名言を吐いた。「母さん、あの人が子どもを本当に愛していたら、あんな風にさせておかないわよね」。この女の子の私見は鋭い。現代は欲望を抑えることが美徳という意識が大人でも薄れ、欲望を抑えたり、コントロールする力が無くなってきていると言われる。現代特有の問題としては、スマートフォンのゲームのやりすぎが社会問題化している。親も対応を迫られている。

近年の教育学、児童心理学も信頼できない問題を抱えている。なぜなら生善説に立っているからである(人間は生まれながらにして善)。生まれながらにして人間は罪人という人間観には立たない。もはや罪という概念も払拭され、罰という概念は時代遅れのものとされようとしている。

生善説に関して、スパンク(尻たたき)についても触れておこう。スパンクが必要かどうかは色々な意見があるが、ただ問題は、現代の児童心理学は、生善説に立って、スパンクを必要悪だとしていることである。こんな風にである。「子どもは生来善である。そのたましいは進化を遂げていく。子どもを抑制したり、罰したりしてはいけない。そのような圧力はマイナスである。子どもには自己表現する必要がある。好きなことを行い、自由にさせることが成長期には必要である。そうすれば、結局、何の問題もなくなるだろう」。これは人間の性質が分かっていない。確かに感情まかせの報復行為的なスパンクは子ども害するだけである。けれども愛の鞭というのは古くて新しい真理である。エペソ6章4節の「教育」と訳されているギリシャ語<パイデイア>は別の箇所で「懲らしめ」と訳されている。ヘブル12章5~6節を見よ。「わが子よ。主の<懲らしめ>を軽んじてはならない。・・・主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」。このことばは「しつけ」とも訳すことができ、矯正、すなわち、子どもたちが道を踏み外すとき、連れ戻すことを含んでいる。

不良少女の母親がまちがった人間観に立つカウンセラーから、子どもに何の矯正も加えずに、子どもの要求に応えるようにしなさい、とアドバイスを受けた実話を読んだことがある。少女が家に仲間を連れ込む。アルコール、ドラックし放題。母親は彼女の命令のなすがまま、食べものを買ってきてあげたり、ご機嫌取りに励んだ。ある時、少女は自分の要求とちょっとズレたことをした母親に殴る蹴るの暴行を働き、その母親は洗面所で死んでしまった。当の本人は虫が一匹死んだ程度の罪悪感しかなく、仲間たちと部屋でバカ騒ぎを続けたという。

現代の子どもたちが置かれている霊的環境は決して良いものではない。ニューエージムーブメントを含めて、社会全体が、善と悪のボーダーラインを取り払おうとしている。善と悪の相対化である。もはや絶対的基準というものはなく、何でも許される時代になってきた。性道徳も子どもをつくらなければいいという風に。また日本では聖書の神の存在に否定的である。子どもたちのたましいは汚染されていく。だから、やはり、4節後半の「主の教育と訓戒によって育てなさい」を最終的に尊ばなければならない。学校の勉強大切でしょう、部活大切でしょう、受験勉強が大切、そう言って、みことばを伝えることを疎かにして、何にもならなくしてしまった親がいる。

キリスト教教育の目標は何だろうか。簡単に三つに分けると、私たち親は、そして大人は、第一に、子どもたちが創造主なる神を信じるように教育する必要がある。第二に、イエス・キリストを救い主と信じるように教育する必要がある。第三に、キリストの弟子となるように教育する必要がある。キリスト者の価値観を身につけさせるということである。そのためには、みことばによる教育を施す必要がある。もちろん、食生活、睡眠、時間と金銭の使い方といった自己規律を教える必要がある。礼節や社会性を身につけさせる必要がある。けれども、これら三つの柱を尊ぶということである。

本日、後半のほうで、教育とは、制限、矯正の概念があることを学んだ。神が望む道は狭い。それはキリストに従う道、いのちへの道である。真の教育は、子どもたちにこの道を歩ませることである。

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入っていく者は多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(マタイ7章13~14節)。

親自身がこの狭い道を歩まなければならない。親自身が絶えずみことばに学び、自分を矯正し、キリストに従う道を歩んで行くのである。