前回は22~24節から、「妻たちへの勧め」を見た。今日は、前半は「夫たちへの勧め」を見、後半は夫婦両者に対する勧めを、ご一緒に見たいと思っている。今日の聖書箇所はキリスト教の結婚式で良く読まれる箇所である。夫婦関係を制定されたのは神である。生物学的にそうなったというのではない。だから、神が何を教えているのかということを汲み取らなければならない。そして実は、クリスチャンの夫婦の関係は、キリストとキリストのからだである教会との関係に基礎づけられている。夫であるキリスト、妻である教会との関係に基礎づけられているということである。花婿なるキリスト、花嫁なる教会という表現も良くとられる。この関係に倣うということである。

先ず最初に、夫の妻に対する在り方を、キリストと教会に関係に基づいて、四つのキーワードを用いながら学びたい。

第一に、「選び」である(25節a)。「夫たちよ。キリストが教会を愛し」とある。キリストが教会を愛したという背後には、キリストが私たちを選んだという事実がある。1章4節には、「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼(キリスト)にあって選び」とある。同じく夫は結婚に際して、自分で今の女性を選んだ。選ぶといのは和菓子屋さんに出かけ、お菓子を選ぶように、「ど~れ~に~し~よ~う~か~な~」といった軽いことではなかったはずである。責任の伴う自己決定である。それにはいのちの日の限り、健康の時も、病の時も、富める時も、貧しい時も、堅く節操を守り、愛していきますという約束を伴うものである。神はこう言われる。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに誠実を尽くし続けた」(エレミヤ31章3節)。神の選びは永遠に愛するという自己決定だった。だから、誠実を尽くし続けた。選びとは本来このようなものである。軽いものではない。重いものである。相手を選ぶというのは相当な責任がある。愛する責任、誠実を尽くす責任が生まれる。結婚に伴う愛を、その時の好み、気分でどうするといったフィーリング、感情の問題にしてしまったり、損か得かの問題にしてしまったりするなら、よろしくない。神の選びとその愛を自分に適用しなければならないわけである。

第二に、「献身」である(25節b)。「教会のためにご自身をささげられたように」とある。キリストは罪人である私たちを選び、愛し、いのちまで捨ててくださった。そして今も罪人の集団にすぎない私たちとくびきをともにして歩んでくださっている。キリストは何ゆえに私たちを愛するのだろうか。私たちの外見のゆえだろうか。その気質、個性のゆえだろうか。私たちがキリストに何か特別なことをして差し上げただろうか。何も思い当たる節はない。思い当たるのは自分の醜さであったり、愚かさであったりする。しかし、キリストは信じられないくらいに私たちに愛を傾けてくださる。キリストの愛は、ご自身と契約を結んだ者のためにいのちを捨て、何があっても犠牲を払って愛していくというもの。それは年を重ねても変わらない。「あなたがしらがになっても、わたしは背負おう。わたしはそうしてきたのだ」(イザヤ46章4節)。この愛に倣わなければならないということである。

第三に、「きよめ」である(26~27節)。「・・・教会をきよめて聖なるものとするためであり・・・」。神の愛は、私たちの霊的成長に関心がある。私たちを道徳的に、霊的にきよめようとする。キリストは私たちの霊的成熟に仕えているが、夫もそれに倣う。妻が世から悪影響を受けないように守る。彼女の品性を低下させてしまうような悪、愚かさから守る。まちがっても罪に誘ったり、仕向けない。反対に、妻の霊的成熟のために仕える。つまり、夫は家庭のリーダーとして、妻を霊的にリードする責任がある。夫自ら祈りとみことばを尊ぶ姿勢がなければこれはできないだろう。生活の慣習も、夫婦で相談しながら、より良いかたちを目指していくわけである。

第四に、「からだ」である(28~30節)。「・・・夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません・・・」。なぜ、ここで「自分のからだのように」と言われているのか小さな疑問があった。確かに「おからだを大切に」といった気遣いのことばはある。でも、ここでは、相手の健康を気遣う以上の意味で言われている気がする。解決のヒントは31節にある。「・・・ふたりは一体となるのである」。「一体」は「一つからだ」と書く。夫婦は二人で一人。この真理を汲み取るときに、28節後半の「自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです」の意味が分かる。キリストは妻である教会に対してそうされた。パウロが教会を迫害していた時、ダマスコ途上で天から声がした。「なぜ、わたしを迫害するのか」。キリストの声だった。パウロが迫害していたのは教会であったが、キリストは「なぜ、わたしを」と言った。教会はキリストのからだである。ご自分のからだである教会の苦しみは、キリストご自身の苦しみであった。教会とはキリストにとってご自分の身に等しい(29節)。キリストは積極的には、教会を養い育て、ケアーし、励まし、守っている。こうしたことが夫の模範である。第一ペテロ3章7節では、妻は女性で弱い器であることをわきまえて生活するように、と言われている。それは、自分のからだの中の弱い器官を大事にするようにして生活していくということだろう。

パウロの夫たちへの勧めは以上であるが、夫と妻の関係は、キリストと教会の関係になぞらえることができるという神聖な事実に心を留めたい。

次に、夫と妻、両者に対する勧めを31~33節から学ぼう。31節は創世記2章24節の引用である。これは30節の「私たちはキリストのからだの部分だからです」ということばの流れで引用されたものである。「人はその父と母を離れ」(31節a)とは、物理的距離のことが言われているのではない。いわゆる親離れ、子離れである。当然のことながら、離れなければ、目標である「ふたりは一体となる」にたどりつかない。親は結婚した二人の生活を支配したり、余計な干渉は許されない。親は結婚した息子、娘に愛され、ケアーされていくことは自然である。しかしながら、夫婦となった子どもたちの間を裂くような真似はしてはいけない。結婚した子どもたちも配偶者よりも親に心をネバつかせるような依存心をもっていることはご法度である。それは本来の夫と妻の一体の関係を損なうことになる。夫婦が家庭の基盤であり、社会を構成する最小単位なのだから、二人の間に隙間や緩みを作ってしまう関係はすべて排除される必要がある。

「その妻と結ばれ」(31節b)の「結ぶ」ということばは、「結婚」の「結」を思い起こすが、原語で「結ぶ」ということばは、「固く結ばれる」という意味をもつ。それはもはやほどけない関係である。だが、そういう結婚観をもって結婚する人は減少している。

「ふたりは一体となる」(31節c)の直訳は「ひとつの肉となる」(ひとつのからだとなる)である。もはや、それは切り裂くことができない関係である。そして、それは、相手が自分のからだの一部となってしまうような関係である。これは32節にあるように、キリストと教会を指す奥義なのだが、そのまま夫婦関係に適用される。

「それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい」(33節前半)。5歳の男の子が日曜学校で学んだことを両親に話したほほえましいエピソードがある。その男の子はアダムとエバのストーリーを両親に話した。エバがアダムのあばら骨から造られたことを興奮して話した。それから数日後、彼はお母さんにこう話した。「ぼくのわき腹が傷ついているよ。ぼくには奥さんがいると思う」。ほほえましいエピソードである。エバ誕生のストーリーで覚えておきたいことは、エバはアダムの一部であるということ。だから、アダムはエバを自分の一部として愛さなければならない。同じように、夫たちは、妻のことを自分の一部として愛さなければならない。といっても、配偶者が自分の一部であると実感するには時間がかかるかもしれない。臓器や皮膚の移植手術を考えればわかる。からだになじむまで、痛みや発熱があったりする。私はこうした移植手術の経験はないが、輸血がある。中学の時の輸血が一番しんどくて、腕の痛みで涙し、何とも言えない全身の違和感が長く続いたことを覚えている。夫婦も違和感を乗り越えて、互いに成長していくわけである。

「妻もまた自分の夫を敬いなさい」(33節後半)。妻に対しては「愛する」ではなく「敬う」という命令がされている。これはキリストが教会のかしらであるということを考えればわかる。同じように、夫婦のかしら、家庭のリーダーは夫である(23節)。敬えるところが少ないかもしれない。しかし、「うちのお父さんはこうで・・・」と子どもの前で非難すべきではない。子どもは父親のことも、グチる母親のことも敬えなくなり、しいてはすべての権威に対して懐疑的になっていく。神さまさえ敬えない子どもになっていく。妻は、夫をリーダーと認め、夫の判断がだめな場合も多いが、夫を敬っているという意思表示をしていくことが大切である。

とにかく結婚生活は色々あり、平坦ではなく、互いの努力なしには全うできない。ある方が、おそらく長い結婚生活を体験した年配の方ではないかと思うが、結婚生活を次のように例えている。「お化け屋敷。入る時はドキドキし、入ったら恐怖を体験し、出口に来た時、光と笑みが待っている」。「結婚」の「婚」という漢字は、「女」偏に「たそがれ」と書く。「たそがれ」とは夕暮れ時、夕方のことである。中国では結婚式が夕方に行われ、真っ暗な夜から結婚生活がスタートした。スタートの時間帯としてもお化け屋敷かもしれない。けれども、もうちょっといい例えが欲しい。他にいい例えのある方は教えてください。

以上が、夫婦への勧めだが、幾つかのことを付け加えておきたい。一つは、夫婦どちらかが、まだ神を受け入れていないという場合でも、一体とされているという事実、一つの肉とされているという事実には変わりはない。夫の立場、妻の立場も変わらない。先に救われた配偶者は、ひとつからだにされた者として、相手の悩み、痛み、弱さ、そういったものを共有する姿勢を持ちながら、キリストのいのちを提供することに心を砕いていただいきたい。また独身であっても、キリストの花嫁という事実には変わりがないことを覚えておいていただきたい。

クリスチャン夫婦の場合は、家庭をミニチャーチとするビジョンをもっていただきたい。今日の箇所は教会形成の文脈の中で、家庭形成について言われている。家庭に教会が反映し、教会に家庭が反映するような関係。夫と妻の関係がキリストと教会の関係と重ね合わされて描かれている。結婚カウンセリングや夫婦セミナーの時は、今日の箇所から、家庭をミニチャーチとするビジョンをもつように言われる。今年7月に湯沢BBCで開催された秋田伝道隊合同礼拝で、講師の千田次郎先生が、「日曜は教会は教会堂にある。けれども、平日は教会は家庭や仕事場にある」と言われたのは本当である。キリストは言われた。「二人でも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ18章20節)。夫婦、また親子でクリスチャンとして生活していたら、その所が教会である。なぜ夫婦したいのかの理由が、独りは寂しいから、子どもがほしいから、生活にメリットがあるから、ただ相手が好きだから、そういうレベル止まりだったら、この世の人たちの結婚観のそれと何ら変わりがない。夫婦生活の目的は何か?それはキリストと教会が一つになって歩む目的と同じである。その目的とは神の栄光である。「教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように」(エペソ3章21節)。教会にクリスチャン家庭が含まれる。クリスチャン夫婦は、子どもへの信仰継承とともに、家庭はミニチャーチなのだという自覚の中で、ともに主をあがめ、キリストを証することに努めていただきたい。