今日の区分から家庭生活に関する勧めが6章4節まで続く。実は21節の「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」の立ち位置が論議されてきた。21節は前の文章と後の文章のどちらに属するのかと。その受取り方で新しい区分がどこから始まるのかが違ってくる。新改訳第三版は22節から改行となって新しい区分となっているが、新改訳2017は21節から改行となっている。新共同訳も21節から改行となっている。文法や21節の勧めの内容から総合的に判断して21節から新しい区分が始まると受け取って良いだろう。キリストにある互いの服従ということが具体化される場が家庭である。しかし、それは18節で命令されていた「御霊に満たされなさい」という命令とは無関係ではなく、御霊の助けをいただいてこそ実行できる勧めなのである。

今日は妻たちへの勧めを見る。まず最初に、新約聖書時代の女性観について話しておこう。新約聖書の時代、女性は奴隷と同等か、それよりも少しまし程度にしかみなされていなかった。ユダヤ人の場合、多くのユダヤ人は朝、このように祈ったという。“神よ。わたしは異邦人や奴隷や女性でないことに感謝します。”ギリシャ人の場合もひどかった。女性は子どもを産んで家事をまかせられていたものにすぎなかった。当時のこのようなことばがある。“情婦を楽しみのためにもち、妾を同居するためにもち、合法的に子どもをもつためと家事の諸事の管理人とするために妻をもつ。”女性の立場は以上のようであった。いわゆる男尊女卑である。

ところが教会が形成されていった時代のローマ社会では、別の意味でこれまた悪かった。結婚した女性の貞潔は失われ、そしてルックスが悪くなるからといって、子どもを宿すことを嫌った。そして男まさりになり、レスリングや拳闘といった男のスポーツを盛んにするようになった。男と女の違いは性の違いだけだといった男女同権論を振りかざしていった。当然、びびる夫たちが出てきた。

日本も先のユダヤとギリシャのような誤った男尊女卑の時代が長く続いてきたし、今は振り子が逆に振れて、ローマ社会の誤った男女同権論や女性解放運動が台頭してきた。もちろん、女性の地位を認めるとともに、夫が家事を手伝うのは良いことであるし、育児にかかわることも大切である。けれども極端な考え方が見られる。過日の朝日新聞に、“育児を母親が担わなければならない理由は科学的にはない。父親でもいいし、血のつながっていない人でもいい”という記事が掲載されていた。男性と女性の違いは子どもを産むか産まないかだけというような極端に走ったら、家庭は崩壊する。

現代は男尊女卑と誤った男女同権論が混在していたわけだが、当時も混在していた。パウロが特に主張したいことは、夫と妻の関係は、キリストと教会の関係と同じであるということである。夫であるキリストは妻である教会を卑しめない。自分自身を命をかけて教会のために献げ、愛し、リーダーシップをもって天の御国まで導く。妻である教会はキリストを敬い、従う。そこにはうるわしい一つの関係、一心同体の関係がある。この関係は、先の男尊女卑でも、男なんて何よ、の女性解放運動でもない。自分の役割、機能ということを認め合いながらのうるわしい一つとなった関係である。これに倣い、夫と妻も家庭を築くということである。

「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい」(22節)。「従いなさい」という動詞のスタイルは、自発的な服従を意味している。つまり、いやいやながらの服従ではないということ。自由意志に基づいた服従。快く従うこと。喜んで従うこと。ため息つきながら、コンチキショーといった服従ではない。あくまでも自発的な服従、心からの服従でなければならない。えぇ~、そんな~!そうしなければならない理由は、神が定めた機能的秩序によると、夫はかしら(リーダー)であるから。そして悪いことに、「主に従うように」という条件付き。いくらなんでも~!確かに彼は主人だけれども、主キリストとは別ものじゃない、という声も聞こえて来る。さらに悪いことに、24節では「すべてのことにおいて、夫に従うべきです」。ある英訳では、「どんなことでも、喜んで夫に従わなければなりません」。どんなことでも喜んでなんてムリ~!やってられない~!

私も、奥さん方の気苦労を思うと何も言えないので、ここからしばらく、家庭生活の専門家リチャード・ストラウス先生のことばをもって励ましたい(未出版)。

“ご婦人方、あなたの夫のリーダーシップに対する従順は、実は主に対する服従なのです。なぜなら、主があなたにそうするように命じられているからです。もしあなたが、夫のためにどうしても従えないとしたら、主のためにそうしなさい。主はあなたを完璧な愛で愛しておられます。主の愛に応えて、あなたの夫に従いなさい。”~「主のために」「主の愛に応えて」という理由がカギ。

“「でも、主人は全然私の気持ちを考えてくれません。私は自分の権利を守らなくてはなりません」。神はあなたがあらゆることにおいてあなたの夫に従うべきだと言っておられます。神はそれがあなたにとって最善になると知っておられたに違いありません。さもなければ、決してあなたにそう求めようとはなされなかったでしょう。あなたの意志を神にささげなさい。自分は喜んで従順な伴侶になりますと申し上げなさい。この命令を守ることによって。神の栄光は豊かに現されるのです。”~確かに、自分の気持ち、自分の好み、自分の権利、そうしたものにとらわれすぎる罠というものはあるかもしれない。神への献身を新たにする必要があるかもしれない。

“「しかし、夫はどうしようもない根性なしなんです。主人に比べたら、チャーリー・ブラウンだってジブラルタルの岩山に見えます。一体どうやってあんな人に服従したり、頼ったりできるでしょうか」。試してみなさい。あらゆることにおいて主に従うように、夫に従おうとしてみなさい。ただみことばに従い、結果は主におまかせしなさい。夫が本当に決定をくだすべきときには、夫の判断に従いなさい。夫をこきおろしたり、あざけったり、みくびったり、他人と比較したりする代りに、多少は夫の能力に信頼していることを表わしてみなさい。夫に向かってあなたが一番だと、またあなたを頼りにできて感謝だと言ってやりなさい。そして神があなたの態度を用いて夫を、神がそうさせたいと望んでいる男にしてくださるのを見ていてご覧なさい。”~「ジブラルタルの岩山」とは、地中海の入口にある岬をなすどしっとした一枚岩。観光の名所となっている。そうした頼もしく見える岩山とは真逆に見える。でも、そうしたご主人をパリサイ人的に見下すのではなく、敬う態度を表しなさいということ。

“「服従だのなんだのは、夫がクリスチャンだったら全然問題ではないでしょうが、私の主人はそうではありません」。この件に関する中心的な聖書箇所は、第一ペテロ三章です。これはあらゆる妻に向けて書かれていますが、そこには不信者の夫をもつ妻たちに対する特別な指示があります。”

では、ここから私が、第一ペテロ3章の勧めを簡単に説き明かすことにする。3章1~6節をお開きください。3,4節の命令は女性特有の二つのことが意識されていると思われる。一つは当時の女性は特にそうであったが、装飾品に凝っていたということ(3節)。こうしたオシャレにお金と時間を相当つぎ込んでいたらしい。もう一つは、女性特有の情緒的弱さが意識されていると思われる(4節)。女性は、むら気、怒りっぽさ、口やかましさ、小言、愚痴っぽさがあると言う。夫はそれを恐れ、心に緊張が走る。これは福音を伝える上でマイナス。こうしたことが背景としてあり、「柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい」と命じられている。「柔和」という原語は、「自制の効いている心」。当たり前のごとく感情の爆発ではない。また、このことばは謙遜の同義語で、「へりくだった心」を意味する。奥様が清く正しく、上から目線のパリサイ人になると、夫は間違いなく、気持ちが離れて行く。このようなケースはよく耳にする。また柔和は、「優しい心」を意味する。「穏やか」は、温和なこと、心乱されないこと、落ち着きを意味する。これらの心の飾りは、1節の「無言のふるまい」と調和する。これは夫と口をきくなということではなく、口やかましい小言は証にならないということである。もし柔和と穏やかさを身につけていれば、夫は聖書の教えの内容を非難しても、教えによって変えられた妻をむげに非難しようがない。

従う動機は1節の「神のものとされる」ためである。この目標のもとに従うその服従は、強制的な奴隷制とは全然違う。個人性の喪失でも個性の喪失でもない。神のものとされてほしいと積極的に自発的に従うのだから、奴隷のそれとは違う。それは従うことによって逆に相手を神に引きつけるような、能動的服従である。

模範にはアブラハムの妻サラが取り上げられている(6節)。アブラハムが象徴的に信仰の父であったように、妻のサラは象徴的に服従の母なのである。確かにサラの服従の度合いはずば抜けている。彼女も欠けのある人には違いなかったが、アブラハムの冒険の旅に同行し、アブラハムに従い通した。

けれども、エペソ5章24節にあるように「すべてのことにおいて」従うというのは極端ではないかという意見もあるだろう。例外はあるだろうと言われるかもしれないが、例外というか、従わなくてもいい事柄はある。偶像崇拝や罪を犯すことである。こうしたことは常識のこととして、いちいち言われていない。また犯罪の対象となるようなケースも別である。夫が妻に対して完全な隷属を望み、自分の意に沿わないと妻に暴力を振るう、刃物でおどすというケースの相談を受けたことがある。夫は病的性格。全く話合いにもならない。いつ殺されるかわからない恐怖が常に妻側にある。命の確保が第一で、こうしたケースは別問題である。

「すべてのことにおいて」従うという場合、精神性の問題として気をつけなければならないことはある。現代は共依存の問題が叫ばれている。「共依存」ということばは、夫がアルコール依存症で、妻が夫を支えるという構図の中で使用され出した、不健康な人間関係を指す用語である。この事例にもかかわったことがある。クリスチャンのご夫妻だった。奥様は病院で共依存を指摘された。夫婦の共依存の場合、奥様は、「夫は私がいなければダメなんだ」と支える妻を一生懸命演じる。実は、奥様の方は、「支える妻」という関係性に依存してしまっている。のめりこんでしまっている。だが、ご自分が依存していることに気づいていない。多くの場合、やってあげすぎとなる。そのままだと、夫のためにも自分のためにもならない依存関係が続いてしまう。依存という表現を使うことが許されるならば、依存すべきは主イエス・キリストであって、人ではない。そして人に依存するのではなく、キリストにあって自立した存在として相手にかかわることが求められる。

「すべてのことにおいて」という従う領域では、妻特有の領域がある。そして今、それはクリスチャン女性の間でも放棄されつつあると言われているものである。世論もそれを後押ししたりしている。それはこの世の男女論の影響と、現代特有の忙しさに起因している。それは何かと言うのなら「家事」である。テトス2章5節をご覧ください。「家事」とある。このことばは「家」<オイコス>と「仕事」<エルゴン>の合成語である。<エルゴン>は、単に一般的な意味における労働を意味するのではなく、特別な仕事、職務といったことも意味する。「わたしの召した任務<エルゴン>につかせなさい」(使徒13章2節)。家事は神から与えられた任務。家というのは、妻にとって神さまによって与えられた職務を行う場所。家事というのは神の召しによって与えられた仕事。この理解は妻だけでなく夫ももたなければならない。ある夫が専業主婦として朝から晩まで立ち働いている妻に対して、会話の中で、お前は何にもしていない、と言ったそうである。お金を得る仕事をしていないという意味で。これは奥様ご本人から聞いた。自分は使用人としか思われていないんじゃないかと言っておられた。

最近は死後離婚が急増していると言われている。夫が亡くなってからの手続きである。夫の親戚との関係を断ちたいという理由から死後離婚を選択する女性がいるが、新聞で読んだのは、夫と同じお墓に入りたくないという理由で、死後離婚を選択した女性の事例である。彼女は自分の体の具合がどうだろうが関係なく、奴隷か使用人のように夫に扱われたらしい。

家事は神の召しによる仕事なのだから、ご主人のしている仕事と優劣はない。誇りをもってできる仕事なのである。周囲もそのことを認めなければならないし、また、本人も大切な仕事としてしなければならないことである。外で働いている女性も、妻としての自分の基本的任務はどこにあるのかを受け止め、忙しいなりに、やれることをやる姿勢はもたなければならない。家族の協力はもちろん欠かせない。

最後に一つの証をして終わろう。韓国の男性の証に次のようなものがあった。彼は大手銀行の元役員であって、その後、証券会社の社長をされた方である。彼は50歳で信仰をもったが、その前までは家でワンマンだった。宴会が終わって、夜中、家に戻ってきた時など、奥さんをたたき起こして水を出させることが男らしいと信じていた人だった。しかし、彼が酔っぱらって帰ると、いつも、子どもと涙しながら祈っている奥さんの姿があった。また彼が問題に巻き込まれて銀行をやめなければならなかった時、奥さんは愛をもって励ましてあげた。彼はその奥さんの姿勢に負けた。奥さんに、「オレが何をしてあげれば幸せになれるのか」と聞いた時、奥さんは迷わず、こう答えた。「一か月間、家事を休ませて」と答えただろうか。そうではない。「私を愛しているなら聖書を読んでほしい」。彼はそれから聖書を読むようになり、信仰をもつようになった。彼は結婚してはじめて、何十年もたってから、それまで奥さんをどんなに粗末にしていたかをようやく悟ったという。

キリストを恐れ尊びながらみことばに従う女性の強さにまさるものはない。今日のみことばを実践しよう。