私たちはイエス・キリストを信じ受け入れたとき、私たちのうちに聖霊が宿った。私たちは聖霊の住まいである。パウロは先に、この聖霊を悲しませてはならないことを命じている(エペソ4章30節)。聖霊は人格をもつ神の聖霊なので、私たちの罪に反応し、悲しむお方である。喜ぶのは悪魔である。そうならないために、今日の教えでは、もっと積極的に「御霊に満たされなさい」と命じられている。

今日の箇所は酒についての教えから始まっている。「酒に酔ってはいけません」。このみことばの背景には当時のエペソの町の不道徳がある。「堕落の闇、その道徳は動物以下で、エペソの住民は、不道徳にふけることがお似合いだった」(紀元前5世紀 ヘラクレス)。パウロは先に不道徳を繰り返し戒めていた(エペソ4章17~20節、同5章3~5節)いつの時代でも不道徳と酒はセットだった。このエペソにおいてもそうであった。また酒は異教の儀式にも密接に関係していた。異教の礼拝では神々と一体になる手段として、恍惚状態になるための様々な方法を用いた。儀式に参加する者は自己催眠をかけたりダンスを踊ったりして感情を高め、神々と交わるために感覚と思考を麻痺させるまで酒をあおり、乱交パーティまがいのことを行った。エペソがある小アジアはぶどうの産地で、しかも酒の神バッカスが祀られていた。人々は神々の前で酔って、歌って、踊った。

酒を飲むか飲まないかは、それ自体はクリスチャンの霊性のしるしではない。飲むなという禁止命令はない。飲む量や酔うことへの禁止命令はある。聖書は飲酒に関して、否定的にも、ある場合には肯定的にも描いている。「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい」(第一テモテ5章23節)もある。このように肯定的に描いている場合であっても、当時の事情に心を留めておかなければならない。当時は水が悪かった。ワインは安心だった。抗菌作用がある。今は塩素等で殺菌しているし安全な水が売られている。日本などは昔から水質が良い。だが、この時代、この場所の水はそうではない。そして当時のワインはアルコール度数が低いものが多かった。ジュース感覚のものが多かった(アルコール度数2.25~2.75%まで)。ぶどう酒は抗菌作用の他、健康保持作用も様々ある。抗酸化作用、体温を保持する作用など。それで禁止していない。ただ酔うことは旧約聖書でも新約聖書でも禁止している。18節前半の直訳は「ぶどう酒に酔ってはいけません」。ぶどうの成分に問題があるわけではなく、ようするに用い方次第となる。「酔う」ことそのものを楽しむという領域は、闇に属し、愚かさに属することになる。酒は一般的に感覚を高揚させ、幸せな気分を一時的に生み出す。また悩みや悲しみや苦しみといった感情を、一時的にまぎらわしてくれる。それならばいいのかと言うと、酒は人の感覚や良心を麻痺させ、自制を失わせる。このコントロールが効かなくなってしまうことに問題がある。それは何がしかの問題を招く。18節後半の「そこには放蕩があるからです」を、新共同訳は「それは身を持ち崩すもとです」と訳している。旧約聖書で義人とされているノアもロトも酒で泥酔して失敗した。現代では暴力事件の半分が酒がからんでいると言う。交通事故もまたしかり。だから飲酒運転の取締りが厳しくなった。また精神科医の間では酒はうつを助長し、悪化させるものとして警告を発している。秋田県はうつの発症率も日本酒の消費量もトップクラス。秋田県人は全国一酒に強い県民であることがDNA鑑定の結果、医学的にも証明されているようだが、強いならばいいだろうと安易に考えることでもない。

神さまは、酒はどこまで許されるのだろうかと、そこにだけ心を向ける人を喜ばない。18節は酒に酔うことと御霊に満たされることが対比して言われている。御霊に満たされることに心を向ける人こそ幸いなのである。酒に逃避し、酒に満たされて、コントロールを失うことを選び取る意味はない。

では、「御霊に満たされなさい」の命令を見よう。「満たされる」の原語は<プレーロー>。その意味は「満ち満ちること」。ちょうどコップのふちまで並々と水が注がれるようなものである。このことばをもう少し詳しく見てみよう。このことばは、「しみ込む」という意味をもち、肉の腐敗を止めたり味付けするために、塩を肉にしみ込ませるときなどに用いた。私たちの思考、ことば、ふるまいに聖霊がしみ込むというイメージをもっていいと思う。聖霊の品性である「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」が私たちにしみ込む、そうなるなら幸いである。

そして、このことばには、「完全な支配」という含蓄がある。私たちはどんなものに支配されてしまうことがあるだろうか。マタイ15章18~20節を開こう。「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来ます」。私たちはこれらの汚れで心を満たすことが起きる。私はある日の朝、まだ完全に目が覚めていない時に、無意識のうちに特定できない人を殺める思いを抱いてしまったことがある。その日の朝に開いたみことばがこの箇所だった。自分の心の中に、主が語る汚れがあることを思い知らされた。ルカ6章11節を開こう。「すっかり分別を失って」(直訳、新改訳2017「怒りに満ち」)。私たちは怒りに満ちることがある。使徒5章3節を開こう。「あなたはサタンに心を奪われて」(直訳「サタンがあなたの心を満たして」。私たちはサタンの思いに満たされることが起きる。私たちは今見たように、汚れた思いや、怒りや、苦々しい思いや、サタンの思いに満たされ、それで心が支配されてしまうということが起きる。そうなるならば、すでに学んだように、聖霊を悲しませることになる。「神の聖霊を悲しませてはいけません。」(エペソ4章30節)。だから今日は、聖霊に関する積極的命令に心を留めよう。

聖霊に満たされるために、私たちの側で為す分は何だろうか。次のような説明を読んだ。「聖霊に満たされるためには神のみこころに服従する必要がある」。これはどうだろうか。がんばって努力して百点採れないと御霊のご褒美はいただけませんよ、と言われたら、全員無理ではないだろうか。東大合格よりはるかに難しいことが言われている。だいいち、神のみこころに服従できないからこそ、御霊の満たしを求めるのではないだろうか。次に述べるジム・シンバラ牧師のことばは本当である。

 

今日、神のみことばを忠実に説き明かす説教者の中にも、リバイバルを願う者たちの中にも、次のような発言をして、無意識のうちに神の働きを妨げている人たちがいます。「まず第一に、あなたがたの生活において罪に打ち勝ちなさい。そうすれば、神は御霊の力を与えてくださいます。罪に勝利した時、あなたがたは神の全き祝福をいただくことができるようになります」。そして悪習慣からの脱却、日々のデボーションの確立など、信者が果たすべき事柄を並べ立て、これもすべて、ペンテコステの完全な祝福にあずかるためだと宣言します。

しかし、皆さん、どうか冷静に考えてみてください。そもそも御霊の力をいただいてもいない者が、自分の弱さに打ち勝って悪習慣から抜け出し、キリストに似た者となることなど、できるはずがありません。私の場合、御霊に助けていただかなければ、一歩たりとも先に進むことができません。「御霊を体験するためにはA地点からB地点に行かなければならない」という教えは間違っています。私にはB地点まで行く力が全くないからです。私をA地点からB地点へと進ませ、最後のZ地点まで到達させてくださるのは、神の恵みの力にほかなりません。

ところで、私たちの態度や行動も変えていただかなければならないのでしょうか。そのとおりです。神は私たちの心も、心の表れである態度や行動も、徹底的に一新しなければならないと考えておられます。もしも、聖霊なる神が私たちの内側でその働きをしてくださらないとしたら、私たちは少しも変わっていかないでしょう。

「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます」(ローマ8章26節)。私はこれまで、このみことばに何度もすがりついてきました。御霊に満たされるためには、自分の至らなさや必要を痛感し、たましいの飢え渇きを覚え、恵みの御座におられる方のもとに行かなければなりません。そしてそこで、自分では解決できない弱さをこのお方に訴えればよいのです。「主よ。私には正されなければならないことが山ほどあります。私は無力で弱い人間ですから自分で自分を正すことはできません。ぜひとも、あなたの御力をいただかなければならないのです。自分の生き方、家族との関わり、教会生活や奉仕などを、これまでと違ったものにしたいと願っています。どうか今、私のところにいらして、あなたの御霊で満たしてください」と。

 

今のことばが正解である。自分ではどうすることもできない弱さや、至らない点を、まず主に告白することである。多くの場合、「頭ではわかっているけれども、自分ではどうすることもできないのよ」と言って、そこで終わってしまっている。これはある意味ずるい。自分の至らなさを罪として具体的に告白し、変えていただこうという、謙遜で勇気あるプロセスを踏まないで、逃げているだけである。私たちはありのままの姿で主のもとに行き、自分の至らなさ等を告白し、聖霊の助けと満たしを求めよう。「どうしようもないのよ」で終わっていたり、臭いものにふたしているだけでは何も変わらない。また先に見たように、自分の力で何とか解決しようとしているだけなのも徒労に終わる。ジム・シンバラ牧師が語っているように、「御霊に満たされるためには、自分の至らなさや必要を痛感し、たましいの飢え渇きを覚え、恵みの御座におられる方のもとに行かなければなりません。そしてそこで、自分では解決できない弱さをこのお方に訴えればよいのです。」これを実践しよう。

パウロは、御霊の満たしから生じるものを、今日の箇所では二つ取り上げている。それはエペソ4章31節ですでに見た、聖霊を悲しませる「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしり、悪意」といったものと正反対のものである。聖霊の満たしから生じる一つ目は、賛美である(19節)。ある人は、「良い声をもっているかどうか、調子をはずさないかどうかは別として、聖霊に満たされたクリスチャンは歌うクリスチャンである」と言った。歌うことそのものが聖霊に満たされているしるしとは言い難いが、けれども心が主に向かって解放されているので、賛美が歌になるというのは確かである。

「詩」とは、主に詩編にメロディをつけた歌と思われる。初代教会時代、詩編を歌うというのが当然のごとく行われていただろう。「賛美」<ヒュムノス>は、神をたたえるという内容の歌。キリストをたたえる歌もあっただろう。多くの学者は、新約聖書に記されているみことばにメロディがつけられて歌われた可能性を指摘している。「霊の歌」は、神の真理を音楽で表現しようというもので、証の歌。歌詞においては「詩」や「賛美」よりも創作的と言えるだろう。神の真理を表す自由詩にメロディをつけたもの。いずれ、御霊に満たされた人は演歌で人生が終わることはない。賛美が心に生まれ、口に出す出さないはともかく賛美することが習慣となり、それは歌にもなる。

御霊の満たしから生じる二つ目は、感謝である(20節)。二言目には人の悪口か不平というのは終わりにしたい。感謝の人生へと踏み出そう。ここでは感謝が、「いつでも、すべてのことについて」と言われている。これは、神の愛をしっかりと信じ、この世界と人生における神の摂理の御手をしっかりと認め、神の恵みに自分の心をしっかりと浸していなければできないことである。賛美も感謝も信仰生活のバロメーターである。また祈りにおいて感謝は、賛美とともに欠かせない。ウィリアム・ヘンドリクセンは次のように述べている。「人が感謝なしで祈る時は、祈りの翼がもぎ取られているので飛び立つことができない」。これは賛美にも言えると思う。賛美と感謝のない祈りは飛び立つことができないか、飛び立っても、低空飛行ですぐに墜落する。

今日は「御霊に満たされなさい」という有名なみことばを中心に見た。このみことばだけ切り取られてしまうことが多いが、この前後のみこととばとのつながりにも注意を払いながら見させていただいた。次回の箇所は、家庭生活の教えであるが、御霊に満たされた家庭人とはどういうものなのかを描いていると言ってもよいだろう。先に紹介させていただいたジム・シンバラ牧師の祈りの事例もそれに気づかせてくれる。「主よ。私には正されなければならにことが山ほどあります。私は無力で弱い人間ですから自分で自分を正すことはできません。ぜひとも、あなたの御力をいただかなければならないのです。自分の生き方、家族との関わり、教会生活や奉仕などを、これまでと違ったものにしたいと願っています。どうか今、私のところにいらして、あなたの御霊で満たしてください」。私たちが御霊の満たしが必要な理由は至る所にある。

私たちは、日々、御霊を求めよう。イエスさまはこう約束されている。「あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」(ルカ11章11~13節)。この約束に私たちもあずかっていこう。「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」。天の父に求め、聖霊をいだだこう。