私たちは自然と光にあこがれる。夜は光を灯し、夜明けに、朝日が視界を照らすことを待ち望む。カーテンを開けて光を部屋に入れる。光は人の自律神経を整え、心を明るくし、体に必要な栄養素を合成し、殺菌作用もある。暗く寒い時などは特に、光を浴びることを望む。植物も光合成をしようと光のほうに向かって身を伸ばす。

聖書はこうした自然界の光に加え、霊的な光について告げている。神ご自身が光である。「主は私の光」(詩編27編1節)、「主があなたがたの永遠の光」(イザヤ60章19節)。キリストは言われた。「わたしは世の光です」(ヨハネ8章12節)。キリストに対する人々の反応は分かれた。「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかになるためである」(ヨハネ3章19~21節)。霊的な光をすべての人が望むわけではない。夜行性のような人たちがいる。

今日の箇所でクリスチャンは「光の子ども」と呼ばれている(8節)。文章を見ると、証し人という視点から言われているようだ。キリストはかつて言われた。「だれでもあかりをつけてから、それを穴倉や、升の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。入ってくる人々に、その光が見えるためです」(ルカ11章33節)。光は照らすために、見えるためにある。クリスチャンが世の人々との接触を避けたり、消極的であることは、光の使命に反する。穴倉の光となってはいけない。キリストも接触の半分以上は世の人たちとだった。パリサイ人たちは、キリストが世の人たちと余りに接触するものだから、「食いしん坊の大酒のみ、取税人や罪人の仲間だ」(ルカ7章34節)と非難した。もしクリスチャンが世の人とのつきあいを避けて、「あの人たちは独善的な人たちだ。つきあいが悪い。自分たちの世界の中にだけ閉じこもっている」と揶揄されてしまったら、光としては失格である。私たちが見倣うべきはイエス・キリスト。キリストは悪には手をださなかったが、彼らと関係を結び、感化を与えられた。そして、真理のみことばを伝えられた。

今朝は、光の子どもの使命について見ていこう。光の子どもの使命の第一は、感化を与える、である。その感化は9節に記されていて、三つある。一つ目は「善意」。これは行動における親切さや思いやりを意味する。あの人は親切で思いやりのある人だ、と思われたのなら、証しになっている。二つ目は「正義」。これは神の目に正しい行いである。原語では、まっすぐにそれずに進むことを意味している。世の人々がクリスチャンに求めるのはまっすぐな正しさである。三つ目は「真実」(誠実)。これは偽りとか偽善の反対である。キリストはパリサイ人たちの偽善を責めた。私たちも偽善に陥ってはならない。私たちは、世の人々はクリスチャンに正しさを求めているけれども、完璧さを求めているわけではないことを知っておきたい。様々な証を聞いていると、自分の失敗を正直に話したら信頼されたとか、自分の誤りを素直に認めたら信頼されたとか、そのような話を聞く。自分の失敗をごまかす、自分の誤りを認めない、そして自分を良く見せようとする、そのような態度は、うそ偽り、ごまかしのたぐいで、真実と正反対である。自分の非を素直に認める、こうした誠実さが人々の心を開くだろう。自分が間違っているとわかっているのに、自分のプライドにしがみつき、がんばってしまうことがある。このような意味での頑固さは、誰のためにもならない。

私たちが、善意、正義、真実を携えて人々に近づいたら、よい感化を与えることになり、人々の心は神さまに開きやすくなるだろう。

光の子どもの使命は第二に、真理を伝える、である。11節以降がそのことを説明している。この使命について説明する前に、11節前半を誤解のないように伝えておこう。「実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで」、ここを誤解すると、世の人とはつきあわない独善的な人間になってしまう。キリストが警告した穴倉の光になってしまう。ここをある訳は「暗闇の不毛な行いに加担せず」と訳している。つまり、その人たちとは接点をもち、関係を結び、隣人愛をもって愛していくのだけれども、悪い行いには加担しないということである。キリストご自身がそうされた。キリストはやくざと一緒に見られていた取税人やモラルの低い人たちとつきあっていたけれども、彼らの悪に妥協はされなかった。もし悪い行いに加担する、悪に妥協するということであれば、それは光は消えたも同然である。

さて、行いやふるまいを通して感化を与えるだけが光の子どもの使命ではない。それは第一段階にすぎない。ある牧師はこう言っている。「多くのクリスチャンがこんなふうに思い込まされてきました。自分たちが信仰生活を隠すことなく、一貫性のある信仰生活をきちんと送ってさえいれば、周囲の人々はその生活を見て憧れ、どうしたらそんなふうになれるのか、自分自身で方法を見つけるだろうと。あるいは、どうしたら、そんなすばらしい生活を送れるのですか、と彼らが質問してくるかもしれないので、そのときにはいろいろに説明できるだろうと、などと考えているのです。しかし、正直な話、そんなことはまず起こりません」。絶対起こらないということではないだろう。今年に入って聞いた話だが、暗い表情をしていた病院の警備員さんが、信仰をもったら急に明るくなり、看護師から、どうしたんですか?彼女でもできたんですか?と質問されるようになり、実は・・・と証が始まり、その人との聖書の学び会が病院で始まり、そうしたら、私も聖書を学びたいという人が次から次へと病院内で起こされて行ったという話を聞いた。こういう例はまれだと思っていい。あるクリスチャンは土木現場でまじめに働いていた。行いを通してしっかり証していれば、やがて誰かが自分に質問してくるだろうと。彼は口を開かずまじめに働いた。けれども、何も起こらなかった。彼は、やっぱり自分から語らなければだめだと気づいたと証してくれた。

先の牧師はこうも言っている。「長年の間に学んだことなのですが、人々がクリスチャンの弱腰な態度に感銘を受けることはありません。私はこのことを強調する必要があります。なぜなら多くのクリスチャンが、もし自分が本当に信じていることを口にしたり、聖書の優先順位に従って生活したりしたなら、信仰を持たない人々とは自動的に疎遠にならざるを得ない、と心配しているからです。しかし、そのようなことはめったに起こりません。もう一度言わせていただきます。人々が弱々しいクリスチャンを尊敬することはありません。彼らが心の底で探し求めていることは、真理をはっきり示し、大胆にそれを実践している人々なのです。・・・なぜ私たちはそのようになれないのでしょうか?私たちはいったい何を恐れているのでしょうか?・・・信じていることのために大胆に立ち上がりましょう。弁解がましくなく、それをみんなの前に公表し、実践しましょう」。闇を恐れる光なんて、ことばの上では矛盾である。私たちは、人にどう思われるだろうか、友人にからかわれないだろうか、話したらこれまでの関係が壊れてしまうのではないだろうか、と恐れる。しかし、たといそうなったとしても、キリストが私たちのために払ってくださった犠牲の大きさに応える責任がある。

では、真理を伝えるとは具体的に何を意味するのだろうか。それは二つある。一つ目は、罪の指摘である。11節後半に「むしろ、それを明るみに出しなさい」とある。「明るみに出す」とは「白日のもとにさらす」といったことばであるが、「事がらの誤りを明らかにする」とか、「反論する」といった意味もある。会話の中で、それはまちがいです、罪です、と指摘することが証し人の役目の一つである。「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するにまさる」(箴言27章6節)。「人を責める者は、へつらいを言う者より後に、恵みを得る」(同28章23節)。反発覚悟で言うべきことは言わなければならない。

真理を伝えることの二つ目は、キリストを伝える、である。14節はイザヤ60章1節等に基づいた初代教会の讃美歌の一節と言われている。「キリストがあなたを照らされる」とあるが、光そのものであるキリストを分かち合おう。最終的に、キリストがその人を照らし、いやし、救われる。人は心の深いところを分かち合える人物を本能的に望んでいると思う。天気や健康やテレビの話では満足していない。心には闇を抱えている。空しさがある。そこに触れる会話ができるのは、光の子どもたちである。私たちは日常つきあう人との会話の中で、いつも漫然とした会話で年月が過ぎていくことがないようにしよう。死が間近い知り合いや家族であるのならばなおさらである(事例)。また列車で隣り合わせた人とか、一度限りしか会わないような人に対しても、心を留めたいと思う。16節では「機会を十分に生かして用いなさい」と命じられている。「機会」ということばは、一定の期間を表す<クロノス>ではなく、その時々を表す<カイロス>ということばが用いられている。ここ一ヶ月の間にどうにかすれば、ということではなく、今日は午前中に誰々が訪ねてくる、お昼から同窓会がある、今日は午後3時に久しぶりにあの人と会う、今日の夜は友人と食事だ、明日は一泊の社員旅行だ、あさっては丸一日自由な時間が作れる、そういう時々のことである。「十分に生かして用いる」ということばはもともと、お金に対して用いられたことばである。「時は金なり」ということわざどおりである。それらの時々を、キリストの御救いに与っていただくために、未信者のために用いる。最初はお手伝いとか、関係作りのための何かということかもしれない。ちょっとした何かをプレゼントすることかもしれない。トラクトを渡すだけかもしれない。最終目標は、その方をキリストに結びつけることにある。

以前、機会を逃して悔いに悔いた伝道者の話を聞いたことがある。詳しくは忘れてしまったが、ある人から、家族の者が病で先が長くないので、訪問して福音を伝えてくれるようにと頼まれていた。ところが、うっかり忘れてしまって、思い出して出かけてみた。「ごめんください」。玄関に出てきた方が、厳しい顔で「もう遅いです」!すでに亡くなっていたのである。泣いて悔いたとのことであった。機会を逸してしまった。後悔先に立たずである。

最後に、光のワット数を保つことをお話したい。8節が告げているように、今の私たちの立場は光である。「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました」。ここで光になろう、とは言われていない。今すでに光なのである。まず、自分は光である、光の子どもである、という自己認識に立とう。光は闇に打ち勝つ。キリストについて、「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1章5節)と言われているとおりである。けれども、光が弱まると、感化力をもてなくなる。パウロの懸念がそこにあることは、今日の箇所からも明らかである。パウロは11節前半にあるように、私たちが暗やみのわざに手を出さないように願っている。もし、そんなことをしていたら光を失ってしまう。ミイラ取りがミイラになりかねない。ある宣教師が未開人の部族伝道に遣わされた。何年かしてある人が現地の様子を見に行ったら、その宣教師は信仰を捨てており、一夫多妻の習慣にならって、たくさんの奥さんを娶って生活していたそうである。彼は光を失ってしまったのである。こんなことも起りうる。

私たちは光の子どもとして歩むために、まずは光である神ご自身との交わりを尊びたい。「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです」(詩編36編9節)。私たちの心の渇きをいやすのは、いのちの泉である神さまだけである。そして私たちの光を保ち、強めてくださるのは神さまだけである。私たちは神さまを慕い求め、何よりも神さまの感化を受けていきたい。そのようにして、暗やみの世にあって光として歩みたい。