今日の箇所は性的な汚れが取り上げられている。以前お話したように、エペソの町は性的に堕落した町として有名であった。だからヘラクレテスは、エペソの町を称して、「堕落の闇、その道徳は動物以下で、エペソの住民は、不道徳にふけることがお似合いだ」と言ったわけである。エペソは女神アルテミス信仰の総本山であり、女神アルテミス自体、セックスの神さまだった。だから性的な罪は責められるどころか、公認され、奨励される有様だった。エペソのクリスチャンたちは、このような環境の中で生活することを余儀なくなされた。

現代も性の解放が叫ばれている時代である。よって性的純潔を保つのが難しい時代である。テレビ番組、インターネット、新聞、週刊誌、コミック、写真集、映画、レンタルビデオ、ファッションなど、どれも性のイメージを色濃く投げかけている。性的情報は氾濫している。自然と目に入ってくる。この問題に対する正しい知識を、この世はほとんど提供してくれない。聖書から正しい知識を持っているはずのクリスチャンたちも、グレーゾーンから闇に足を踏み入れてしまっている。

3節において、性的汚れの禁止命令がある。「不品行」ということばに着目しよう(新改訳2017「淫らな行い」)。原語は<ポルネイア>。これは近親相姦、婚前交渉、その他の性的不道徳すべてを表すことばとして用いられている。現代でも婚前交渉は当たり前で、ただ子どもを産まないように教育されているだけである。現代はLGBTの問題もクローズアップされている(Lレズビアン、Gゲイ、Bバイセクシャル、Tトランスジェンダー╱性的同一性障がい)。同性愛者という表現は差別用語として使われなくなってきた。これらには簡単に割り切れない難しい問題も含まれているが、けれども、いずれ、どのような人であれ、婚前交渉は罪であり、不倫なども罪だとはっきり認識しなければならない。弓削達(ゆげ とおる)教授が「ローマはなぜ滅んだか」という書を執筆しているが、滅んだ原因として道徳的退廃があげられていた。性解放、女性解放が進み、不品行はもはや不品行として位置づけられないまでに性的退廃が進んで行く。純潔でいることは恥とみなされるまでの社会になって行く。使徒ペテロが殉教したネロ皇帝の時代について、セネカは言っている。「もし、人がひとりの情婦ももたないということで噂にのぼり、また他人の妻に年ごとのお手当てを払っていないと、そういう男を世の既婚婦人たちは、卑しく下等な欲情の持ち主、女奴隷との情事にあけくれる男と呼ぶ」。こうした事の裏には、性の自由を女性も謳歌しているという現実があった。ネロの母親は支配的にネロと近親相姦をくり返していたことも有名な話である。

では<ポルネイア>の代償にについて見ていこう。第一は、霊的破壊である。結婚外の関係を神が禁じられている以上、それに従わないことは必ず後味の悪い結果をもたらす。この世は、それは何でもない、楽しいことだと誘惑してくるだろう。アダムとエバもそうやってだまされ、禁断の実に手を出した。結果として神から身を隠し、いちじくの葉で身をおおい、恥意識に苦しむことになる。裁きも宣告される。ポルネイアの罪の結果は最終的に厳しい(6節,レビ20章10節参照)。そして、この罪は汚れであり、5節にあるとおり偶像崇拝なので、キリストとの関係は破壊され、霊的生活は闇となる。この霊的破壊は本人にとどまらない。神が禁じられた行為は、本人がどう思おうとも、相手を愛することではない。むしろ、傷つけることなのである。それは愛の証ではなく、罪の証にすぎない。

第二は、埋められない空しさである。コミュニケーションを深める手段として割りきってしまう人もいる。偽りの親密感を体験することによって本当に愛されているかのように感じることができる。しかし偽りの親密感は、またすぐ空しさを覚えさせるだけである。セルフイメージが低い人がこの罪にはまりやすいと言われている。セルフイメージの低い男性は、女性を征服することによって自信を築こうとする。またセルフイメージの低い女性は、自分の体で男性の愛を得ようとしたり、多くの男性をひきつけて自身を回復しようとする。いずれ、こうしたことで、淋しさ、空しさは消えはしない。

第三は、肉体の破壊である。エイズは20~21世紀最大の伝染病と言っても過言ではない。患者数が減ってきているとは言え、2016年の統計では、世界のエイズ陽性者数は3670万人。新規エイズ感染者数は年間180万人。エイズによる死亡者数は年間100万人。同性同士の行為による感染者数が多い。また「梅毒患者、増加の一途 女性10~20代の感染が増加」という日本のニュースを見た。2017年は44年ぶりに報告件数が5000件を越し、今年も昨年を上回るペースだと言う。他に、肉体の問題に関連して、中絶の問題がある。日本は中絶率が世界でもトップの国である。姦淫が殺人の罪を呼び込んでいる。

第四は、共同体の破壊である。共同体の最小単位か家族であるが、ローマ帝国も、性的不道徳で家族が壊れ、国家の壊滅につながったと言われている。

では、性の誘惑にどう対処したらいいのだろうか。みことばはこの問題で何を罪としているのかということを学ぶことを基本にして、次のことを実践することが必要であると信じる。

第一に、相手を神のかたちに造られた方として見、愛する。欲望の対象といった低次元で見ないこと。かつて誘惑にはまっていた男性が変えられてこう言っている。「『あなたの隣人を愛せよ』という聖句を思い出すと、女性を欲望の対象として見ることはできないのです」。また別の男性は言っている。「相手の女性を人格として見ることができるようになったら、女性を変な目で見ることはなくなった」。<ポルネイア>は相手を神のかたちとして見、尊ぶことはなく、相手から性だけを抽出し、自分の快楽追求の道具としてしまうことである。人格から性的な部分だけを取り出して注視してしまうことである。

第二に、キリストとの親密な関係を築くことを心がけること。みことばと祈りによって、絶えずキリストに心を向け、交わることである。ある女性は、つきあっている男性との誘惑が大きく、一線を越えることも考えた。だがそれから一年後のこと、彼女は聖書の学びからの気づきをこう語っている。「一年前の自分のばからしさに気づいた。人間に依存していたんだ…と」。ある男性はこう語っている。「自分のことを慰めてくれる主がいることを知ったら、欲求をもった自分を慰めようとすることがどうしてもやめられなかったこれまでのことがウソのように、自然としなくなった」。キリストで半分満たし、欲望で後の半分を満たすかのようになりやすい私たちである。けれども、絶えずキリストを求めることを習慣化している人は、こうした誘惑から手を引く。キリストの愛で心満たされ、またキリストの聖さが身に着いていくからである。

一人の女性の証言をご紹介しよう。「『姦淫してはならない』という戒めを知っていたけれど、淋しさや空しさを消そうとしてたくさんの異性と付き合ったり別れたりを繰り返し、性的行為も何度もしてしまっていました。別に快楽を求めていたのではなく、ただ淋しかったからです。しかし満たされることは決してなくて、むしろどんどん虚しくなって、どんどん自分が嫌いになっていきました。そんなことを繰り返しながらも、ある時、もうこんなことはやめよう、イエス様を悲しませるのはやめようと決心しました。でもそんな決心にも関わらず、再び性的な罪を繰り返し、イエス様を裏切ってしまっていたのです。その後、本当に激しい自己嫌悪に陥りました。そうしてやっとそこで聖書を開いてみたのです。(小さい頃からクリスチャンでしたが、ほとんど聖書を読みませんでしたから。)すると、ヨハネ8章でした。『私もあなたを罪に定めない。行きなさい。』というイエス様の赦しがありました。その時が私にとってイエス様との本当の出会いだったと思います。『行きなさい。もう決して罪を犯してはいけません』とおっしゃるイエス様を、もう二度と同じ事で悲しませない!と思いました。こんな汚い私を赦してくださった方を、こんな汚い罪のために十字架で死ななければならなかったイエス様を、二度と同じ罪で十字架にかけてはならないと思わされました。それから私は本当に変えられ、性的な誘惑から守られています。(気づかずに犯していることはあるかもしれませんが…)異性に頼って淋しさをまぎらわさなくとも、自分が必要とされていることを異性との付き合いの中で見い出そうとしなくても、私はみことばを通して、イエス様の私への愛を知り、その愛で喜びと満たしにあふれています。もう二度と、昔の自分には戻りたくありません。このような出来事をも益と変えてくださったイエスさまですが、やはり、性的な罪に陥らないことが一番私にとって良いことだと思います。それだからこそ、『姦淫してはならない』と神様は私たちに言われていると思っています。私たちの虚しさや淋しさを本当に満たして、喜びへと変えて下さるのは神様の愛であり、この愛に満たされているなら、性的な罪からも解放され、そんなものに近づきたいと思わなくなると思います。イエス様しか私たちを罪から守ってくださる方はおられません。イエス様を知り、イエス様の愛を知って、罪から守られるためにも、聖書のみことばを日々蓄えていかなければならないと思います。神様と共にあり、従っていくこの喜びを知ったら、もう二度と罪の生活に戻りたいと思えなくなるでしょう」。

第三に、悪魔の誘惑からの守りを祈ること。性そのものは神さまの作品であり賜物である。しかしこれを誤用させようというのが悪魔の誘惑である。ヘンゼルとグレーテルの物語をご存じだろう。二人は魔女にだまされて、甘いお菓子の家を喜んでいた。魔女は、ひっかかったなと薄気味悪い笑いを浮かべ、二人の滅びをはかっていた。当の本人たちはそんなこととはつゆ知らず、目の前の楽しみにふけっていた。同じ構図が私たちの誘惑にもある。冷静になって考えれば、このような誘惑にひっかかっていられないと気がつく。しかし、私たちは感情の生き物で弱いし、また悪魔は狡猾で、しつこい。だから、主の祈りにあるように、私たちは悪からの守りを日毎に祈るのである。自分は大丈夫という自己過信は禁物である。

その他、つけ加えると、性的刺激を受ける場にいないことも必要であろう。創世記に登場するヨセフはエジプトでしもべとして仕えていた時、女主人から誘惑を受けた。その時、彼は逃げ去った。

また夫婦の場合は、相手を敬うことが肝要だろう。クリスチャンの妻から、なんとなく軽蔑されているように思っている夫が過ちに陥るということを、実際多く見聞きしている。奥さんがパリサイ人的にりっぱになってしまうと、夫は妻から身を引き、危うくなる。

最後に、口の罪についても触れておこう(4節)。ここで三つの汚れたことばが記してある。第一に、「みだらなこと」(新改訳2017「わいせつなこと」)。いわゆる、ひわいな話、猥談である。第二に、「愚かな話」。これは旧約聖書の箴言が参考になるだろう。箴言では知恵ある者と愚か者が対比されて描かれている。簡単に言うと、愚劣なバカ話となろう。第三に、「下品な冗談」。ここはジョークそのものを非難しているのではなく、不品行に関することをジョークのねたにしている場合のことである。パウロが指摘していることばの罪は、当時の社会に蔓延していた。現代でも男の職場では、パチンコやかけ事の話、猥談などは日常的である。女性の場合は人や物に関してのむだなおしゃべりが多いと言われている。特に人の悪口が問題となる。

クリスチャンの場合は、「むしろ、感謝しなさい」(4節後半)(新改訳2017「むしろ、口にすべきは感謝のことばです」)。感謝は3,5節にある「むさぼり」と正反対である。むさぼりとは、自分の欲望をどこまでも満たそうとする願望で自己中心。あれくれ~、これ欲しい~で願いがかなわないと不満を口にする。しかし、感謝は神中心で、神にささげられるもの。私たちが積極的に口にすべきは、神の恵みに対する感謝のことばである。パウロは、第一テサロニケ5章18節では、「すべての事について、感謝しなさい」と命じている。私たちは祈りにおいても、普段のことばでも、神に感謝することを習慣化したいものである。罪を口にしない代わりに感謝を口にしたいものである。私たちはむさぼる霊的「偶像礼拝者」として生きるのではなく、口とことばと行いにおいて、神を礼拝する者としてふさわしく歩んでいきたいと思う。