現代は「アロマセラピー」が流行している。芳香を用いて、心身の健康やストレス解消に役立てるというものである。それぞれに好きなかおりは違う。男性は、うなぎを焼いているかおりとか、カレーの匂いとか、そちらのほうに関心がいくかもしれない。江戸の小咄に「うなぎの嗅ぎ賃」がある。うなぎ屋の前に行って、うなぎの匂いを腹いっぱい吸って、ご飯を食べる人のお話。聖書には、この世の人たちが知らないかおりがある。今日の箇所からは、キリストが香ばしいかおりとなったことが記されている。こんな素晴らしいかおりはない。それは十字架で放たれた愛のかおりである。

では1節から見ていこう。「神にならう者となりなさい」と命じられている。古典的名著に、トマス・ア・ケンピスの「キリストにならいて」がある。現代でも多くの人に影響を与えている。「神にならう」という表現は「キリストにならう」ということと等しい。驚くことに、パウロは第一コリント11章1節において「私がキリストに見なっているように」と、キリストにならっていることを告げている。第一コリント11章1節で「見ならう」と訳されていることばは、エペソ5章1節では「ならう」と訳されていて、原語は同じである。「ならう」ということばは、原語では、手本をなぞるの「なぞる」ということばが使用されている。皆さんは、習字その他でなぞるという経験をお持ちだろう。これを現代的なことばで言えば、コピーするということである。そしてこれは、最高の模範をまねようとするときに使用されたことばでもある。神が私たちの最高の模範である。でも私たちは、神の全能の力をまねることはできない。すべてを知る神の全知をまねることはできない。では何をまねたらいいのか。それは前後の文脈から明らかで、まねる、ならうというのは、神の愛のことだとわかる。一節前の4章32節では、キリストにある赦しの愛について言われている。神の愛のすぐれた証拠は赦しである。赦しの欠けは愛の欠けである。愛あるところには赦しがある。

昨今はニュースで、上の人が下の人に対して、ごまかしめいた弁解をして責任をなすりつける、自分が悪者にされてしまうのを避ける、というものが多かった。キリストの場合は逆で、ご自分は何も悪くないのにもかかわらず、人の罪を負って十字架にまでかかってくださった。痛みと恥じを負い、のろわれた者となってくださった。それもこれも、私たちの罪を赦すためであった。しかも、この愛は先手の愛であり、私たちが神の敵であった時、十字架の死を選んでくださったわけである。追求されても責任逃れし続け、後になって責任の一端をようやく認めるといった後味の悪さとは全く違っている。

私たちはキリストのすばらしい愛を体験した。キリストの十字架のみわざを通して、神の愛を体験した。であるならば、どうなるべきか。1節にあるように、「ですから、神に愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい」である。私たちは人から、不快なことばや取扱いを受けるかもしれない。心ない批判を受けるかもしれない。見下されるかもしれない。それに対して、私たちは萎縮したり、怒り心頭で終わっていいのか。いつまでも赦さず、何十年前のことをずっと根に持っているままでいいのか。もう一度考えてみなければならない。キリストの愛にならうことに心を砕こう。

では、神にならう、キリストの愛にならうとは、どういうことだろうか。二つのことが言える。一つは4章32節から「赦しの愛」に生きることであることがわかる。「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように」。赦しの愛を生きるためには、自分に対するキリストの赦しの愛がどれほどのものであったかを知ることが肝要である。

昨月も開いたルカ7章36~50節を開こう。パリサイ人シモンの家での出来事である。イエスさまは彼の食卓に招かれた。著者ルカはパリサイ人シモンと罪深い女を対比してクローズアップしている。シモンは自分の罪の大きさの感覚に乏しい。それゆえに赦しの必要も余り感じていない。だから自分の正しさが先に立ってしまって、キリストに対して関心はあるが淡白な態度になってしまっている。彼は社会的には紳士かもしれないが、それは外面上のことで、彼は自分の罪深さに気づいていない。人はこの人は罪深くて、あちらの人はそうでもないとランクづけする。また、あの人は罪深いが私はまじめな方だと比較する。実際、シモンがそうしている(39節)。たしかに罪深さに違いはあるだろう。しかし聖なる神の前ではそう大差ない。宮澤賢治の「どんぐりと山猫」という童話を読んだことがある。どんぐりたちが集まって裁判を始める。この中で誰が一番偉いのかと。皆めいめいが勝手なことを言ってエゴむき出しである。頭がとがっているのが偉い、丸いのが偉い、一番大きいのが偉い、背が高いのが偉い。こんな状態が三日も続き、裁判長の山猫は困っていたが、一郎という男の子から知恵を授かって判決を下す。「この中で、一番偉くなくて、バカで、めちゃくちゃで、てんでなってなくて、頭がつぶれたようなやつが一番偉い!」この短いことばで、それまでの騒ぎは治まってしまった。どんぐりの背比べのお話である。神の目にはすべての人が罪深く映っている。神さまが目をかけてくださるのは、偉くない人。シモンは自分の罪深さを自覚していないが、女性の方は自分の罪深さを認識している。だから、キリストの赦しの愛の深さも認識し、愛されている者らしくふるまっている(44~46節)。イエスさまは結論を述べる。「だから、わたしは、『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」(47節)。

ある伝道師が、ある町で困窮している人々に対して、キリストの足を涙でぬらし髪の毛でぬぐったこの女性の物語を大きな声で読んでいた。すると、泣きじゃくる女性の声が聞えてきた。ふと目を上げると、泣いていたのは、天然痘によって外見を損なわれ、やせてしまった若い女性だった。彼が励ましのことばを少しかけた後、彼女は言った。「イエスはやがて再び来ますか?女を赦された方は来ますか?わたしは彼が再び来るということを聞きました。すぐに来ますか?」その伝道師は答えた。「彼はいつでも来ることができますよ。でもなぜそんなことを聞くのですか?」彼女はこらえきれずまた泣いた後で、こう言った。「先生、彼はもうしばらく待ってくれるかしら?私の髪の毛は、彼の足をぬぐうには、まだ十分な長さになっていないから」。彼女の純粋な愛が伝わってくる表現である。

自分の罪の大きさに気づき、その罪を赦してくださるキリストの愛の大きさに気づいた者は、人に対する赦しの愛に向かうことになる。この赦しの愛が神にならうということの一つである。

南米エクアドルのジャングルにアウカ族が住んでいる。1956年にアメリカの宣教師ジム・エリオット以下5人の宣教師たちが現地に入った。しかし5人ともアウカ族の襲撃に会い、殉教してしまう。その後、紆余曲折あって、ジム・エリオットの未亡人エリザベスがアウカ族の村に入り、彼らとともに生活するようになった。夫たちを襲撃した男たちとも会うが、キリストの愛ゆえに彼らを赦し、受け入れた。そうしたこともあって、アウカ族は福音に心を開き、そのほとんどが回心するというみわざがなされた。「赦しの愛」が福音宣教とともに実践されたのである。

この赦しの愛については、先週、ナチス・ドイツの収容所に収監された経験をもつコーリー・テンブームの証も紹介した。彼女は普通の生活に戻れた時、収容所で瀕死の状態にあった姉に対して冷酷であった看護師と出会う。この看護師は姉に対して何のあわれみの心も見せなかった。相手は目をそむけて謝ろうともしない。記憶がよみがえり、赦せない気持ちが湧きあがってきた。赦すことが神の命令であることはわかっていたが、赦すことができないでいた。そんな時、彼女の心にローマ5章5節の「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」のみことばが示される。彼女は、自分の憎しみや苦々しさよりも強い聖霊の愛にゆだねる決心をする。すると、奇跡は起きた。彼女の心から憎しみが消えていた。赦していた。その後、相手と和解の時を持った。赦す愛は神さまが聖霊によって与えてくださるということを知る。

神にならうとは、第二に、「自己犠牲の愛」に生きることである。2節をご覧ください。2節前半の直訳は次のようになる。「そして愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛したように」。「キリストもあなたがたが愛したように」という勧めである。新改訳では「キリストもあなたがたを愛したように」の「ように」が訳し出されていないが、この「ように」ということばは、4章32節でも使用されている。「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように」。4章32節では赦しの愛にならうことが言われているが、では、5章2節では、「キリストもあなたがたを愛したように」となっている。ここでは、どのような愛にならうことが言われているのだろうか。もちろん、赦しの愛も含まれているが、それだけではない。2節の後半がその答えである。「私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました」。キリストが私たちの模範、お手本とされているが、ここから、愛は赦しとともに、自分を与えること、犠牲にすること、献げることであることがわかる。ヨハネは勧めている。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」(第一ヨハネ3章16節)。

この「自己犠牲の愛」について留意すべきことがある。2節後半を良く見ると、私たちを愛して十字架でいのちを捨ててくださったキリストの献げる対象が、人ではなく神とされている。日本の演歌等では「あなたを愛し~、あなたに身をささげます~」と、ささげる対象は人である。これが当たり前のような気がする。けれども、ここでは、キリストは私たちを愛していのちを捨ててくださったことはまちがいないわけだけれども、ご自分を献げる対象は神となっている。教えられることは、私たちが人を愛するというときに、神に自分を献げる精神がなければならないということである。

親が子どもに対して「あなたのためにやったのよ」と言いつつ、本心は自分のためであったりする。あなたのためと言って、相手を支配し所有することは、どんな人間関係にも起きる。結局、自分を喜ばせるためにやっている。それを愛ということばで片付けてしまう。

また、献身的に自分の身を献げているようであって、相手に精神的に隷属していることでしかなかったりする。相手を喜ばせようとして仕えているが、相手のためにもならない泥沼にはまっていく。精神病理医学用語で、ひところ「共依存」ということばがはやった。夫婦関係や親子関係で見られるものである。この人は私がしっかりと世話をしなければだめになる、と献身的に仕える。これの何がいけないのか。しかし、そうしたことで相手に依存し、自分の存在意義を保とうとしていることに気づいていない。相手もまた自分に仕えてくれる人に依存してしまっていて自立できない。互いに精神的にもたれあってしまっている関係が共依存である。こうした精神病理が、愛とか献身ということばにすりかえられてしまっている。

人間関係に焦点を合せて生きていると、その関係は操作的になって、結局、関係はもつれたり、こわれたりする。しかし、神に焦点を合せて生きると、人との関係が建て上げられる。それは、支配とか所有とか、精神的すがりつきではなく、アガペーの愛で愛せるようになるから。ある意味、人間関係は二の次、三の次で、大切なことは神との関係である。

神に焦点を合わせるということにおいて、2節後半には重要なことばがある。それが「香ばしいかおりをおささげになりました」である。これは言い換えると、「父なる神を喜ばせまつりました」となる。これはアロマセラピーにもこの世の愛にもない視点である。旧約時代、いけにえを祭壇に献げた。神がそのいけにえを喜ばれることを、香ばしいかおりをかぐことによって喜ばれるという表現をとった。私たちは誰を喜ばせるのか。愛と言いつつ、自分を喜ばせるためであったりする。また愛と言いつつ、人を喜ばせるためだけだったりする。そのことを神が喜んでおられるのか、願っておられるのかは考えに入れられていない。だから結局、自分のためにも相手のためにもならないことが起きてくる。それは一見、献身的なように見えて、神が受け入れるものではない。よって建て上げが起きない。しまいには、自分の要求どおりにならなくて腹を立てて関係を断ったり、反対に、精神的依存の泥沼にますます深くはまったり、といったことが起きて来る。エネルギーは注いでいるんだけれども思い通りにならないため、怒り、憤りはおさまることなく、苦々しい思いに満たされたりもする。

聖書が望む愛とは二面的である。その人のために、しかし神のために、である。その人のために、しかし神を喜ばすために、である。聖書が望む愛は神への献身ということが精神的支柱としてある。人を愛するのだけれども、神へのささげ物、供え物になるという決意のもとに愛する。あくまでも、神への服従、神への献身、神を喜ばせることが支柱としてある。その人は生活の各場面で主の細き御声をキャッチすることに心を砕くだろう。みこころに服従しようとして。

人間関係は大切かもしれないが、あくまでも関係構造の中心に神を据えることを心がけたい。そうした模範はもちろん、キリストである。福音書において、キリストが弟子たちや民衆に、罪人と呼ばれた人たちに、どのようにふるまい、何を発言したかを見ていくと、興味深い。キリストは五つのパンと二匹の魚の奇跡に見るごとく、疲れているのに群衆を解散させず、彼らの必要に応えようとしたかと思えば、民衆にふりまわされず、サッと身を引くこともあった。遠くに住む、嫌われているサマリヤの女やゲラサ人の所にわざわざ足を運ぶことをしたかと思えば、親しくしていたラザロが重篤な病の時はすぐにかけつけることをしなかった。キリストは父なる神のみこころ、神の時ということをいつも意識されていた。ヨハネの福音書には、なるほどと思わされるキリストの発言がある。「子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません」(ヨハネ5章20節)と、父なる神への服従をモットーとしておられることを告げられた。また「わたしは人からの栄誉は受けません」(ヨハネ5章41節)と、人の目が自分の行為を左右しないことを告げられた。さらに、都に上って大勢の人の前に姿を現すように促された時、「わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ7章6節)と発言し、せっかちに行動されなかった。キリストにとっての「わたしの時」とは十字架の時であったわけだが、キリストは時至り、十字架の祭壇にご自身を献げられた。それは私たちの罪を赦すためのいけにえであった。完全なる自己犠牲であった。それが神を喜ばせる香ばしいかおりとなったのである。

今日は、神にならうとは、キリストの愛にならうことであり、それは「赦しの愛」を実践すること、もう一つは「自己犠牲の愛」を実践することであることを学んだ。キリストという私たちの模範にいつも心を注いで、みこころに服従していこう。神を喜ばせる香ばしいかおりとなることを願って、すべてをしていこう。