前回は17~24節までから、たましいの衣替えについて学んだ。古い人を脱ぎ捨てること(22節)、そして新しい人を身に着ること(23,24節)について学んだ。パウロはローマ人への手紙13章14節では、新しい人を身に着ることを、ダイレクトに「キリストを着る」と表現している。私たちはキリストを信じて新しい人を身にまとった。初めて学校の制服やスーツを着た時以上の感動がそこにはある。そして、それで終わりではない。パウロはいわば、私たちの身だしなみを毎日チェックさせようとしている。私たちは毎朝、着替えをするだろう。パジャマを脱いで新しい服を着る。私は以前、スーツを着て他教会に奉仕に出かける途中、コンビニのトイレに入って唖然としてしまった。パジャマのズボンの上にスーツのズボンをはいていたのである。脱ぐべきものを脱いでなかった。パウロは脱ぐべき古い人の特徴を今日、来週の箇所でも取り上げ、ふさわしい新しい人のあり方を教えようとしている。

25節ではうそ偽りが禁止されている。うそ偽りが悪いことくらい、建前では分かっている。でも自分の身を守るために、また損をしないために、うそも時には必要だと考えている。「うそも方便」という格言がある。しかし、この問題で考えなければならないことは二つのことがあり、一つは、神は真実であり、この神の前では真実を語らなければならないということである。真実なる神を意識したときに、それを語って、心を責められないのかということである。真実なる神を意識しないときに、人間はあらゆる自己弁護、弁解に逃げることになる。自分を正当化するためにうそに真実の衣を着せて、人を欺いてしまう。「秋田さんの家に呼ばれたけれども行けなかったのは仕方がない。山田さんの家に行く用事があったから」。真実は、秋田さんの家に行きたくなかったので、山田さんの家に行く用事を作ってしまったということ。または、電話で済ますことができた山田さんへの用事をクローズアップして、そう話してしまったということ。しかし、こうした心理的カラクリは、神の前には通用しない。時には、記憶にない、覚えがないで逃げることもある。これも巧妙なうそである。だが神の前には通用しない。また自分を立派に見せようとして、事実に脚色して語ってしまうことがある。こうしたつけ加えもうそ偽りである。

もう一つ考えなければならないことは周囲への影響である。25節後半で「私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです」とあり、教会内で互いに真実を語るように言われていることが分かる。からだの器官は互いに連結していて影響し合う。もし鼻がガス臭いのに臭くないと偽ったらどうなるのか?全身の機能がマヒしてしまう。もし舌が辛いものを食べたのに、味がしないと偽ったらどうなるか?胃腸がその辛さにびっくりして焼けただれてしまう。もし目が道がカーブしているのに、真っ直ぐだという偽りのシグナルを脳に送ったらどうなるか?崖から落ちて、全身大怪我するかもしれない。うそ偽りは全身に良い影響を与えはしない。キリストのからだ全体に良い影響はない。必要なことは真実を語ることである。

26節は怒りが禁止されている。しかし良く見ると単純ではない。怒りが許されているようにも思われるからである。「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」。怒りは大別すると二種類に分けることができるだろう。一つは罪深い怒り。これは破壊的な怒りで、嫉妬、ねたみ、憎しみ、復讐心、自己中心の願望が満たされないといったことの裏返しである。カウンセリングのケースの90パーセントが、この怒りがからんでいるという。怒りは声に表れるだけではなく、物を投げたり、手を上げたり、戸をバタンとしめたり、ふくれっ面をしたりと、様々なかたちを取る。けれども怒りの感情を露わにすることをせず、内面に隠しもつ場合もある。怒りの感情を内に溜め込むと抑うつ状態になると言われる。また怒りは体調に変調をきたしてしまう。医学専門化の統計によると、人の身体的病気の60~90パーセントは怒りと恐れによって促されているという。疲労、食欲不振は怒りによくある症状である。また偏頭痛、高血圧、潰瘍、心臓マヒ、背中の痛み、リューマチ、関節炎、アレルギー、喘息等も引き起こす。

もう一つの怒りは、良く義憤と呼ばれる正義の怒りである。聖書には神の怒りの記述があり、またキリストが怒った記述もある。マルコ3章5節を見よ。「イエスは怒って、彼らを見まわし…」。キリストは心かたくなな者たちを怒っている。正義の怒りは、不正な状況や行動に向けられる。これは利己的なものではなく、義の表れであり、倫理的な怒りであり、人をおもんぱかる愛から来る怒りとも言える。この種の怒りは罪ではない。

私たちは今見た、罪深い怒りか、正義の怒りかのどちらかをもつ。ある場合は、両方合わせ持ったような怒りをもつ。そして、その怒りが当然のものであり、正統的なものであるにしろ、その怒りを制御しないままでいると、復讐の要素を帯びてきて、罪に陥る。怒りというのは感情エネルギーが強いために変質してしまいやすいので要注意。何しろ罪人が怒るわけなので、プライドが傷つけられたと感じた場合や、被害を受けたと感じる場合など、どうしても悪い方向に向かいやすい。

26節後半において、「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」とある。「憤る」ということばは、「怒る」よりも強い意味のことばが使われている。「感情の爆発」を意味することばである。感情をコントロールできないままでいる。それが持続したらどうなるのだろうか。最初は当たり前の動機と思った怒りでも、ぐらぐら煮え立って沸騰し、爆発を繰り返し、完全な罪に陥っていく。

続く27節の「悪魔に機会を与えないようにしなさい」は、直接的には憤りを意識していると思われる。「悪魔」の原語は<ディアボロス>で、その意味は「中傷する者」である。悪魔は自分に似た性質に引き寄せられる。中傷する者を好む。ここで「機会」と訳されていることばは、文字通りは「場所」を意味することばである。「悪魔に場所を与えないようにしなさい」。つまり、憤りは悪魔に足場を与えてしまうということ。玄関の引き戸を引いたら、やくざが足を一本こじ入れて、中に侵入しようとするようなもの。憤りは悪魔が侵入する一つの場所となってしまう。本人にとっては悪魔にスキを与えてしまったということになる。憤りをはじめ、肉欲、むさぼりの類いは、悪魔の足場になってしまう。自分の心をよく見張って足場を作らないようにすることとともに、そうした足場を一刻も早く無くすことがポイントとなる。憤ったままでいると、冷静さを失って、言うべきでないことまで口走ったり、むだな行動に走り、愛は失われ、憎しみワールド、攻撃ワールドになっていく。国レベル、民族レベルでは戦争にも発展する。また、憤りは他者を破壊しなくとも自己破壊につながる。

では怒り、憤りについて、具体的にどう対処したらいいのか、そのことに絞ってお話ししたい。第一に、自分が怒っていることを素直に認めることである。怒っていることを否定し、「わたしはちっとも怒っていません」としらを切る人がいるが、何にもならない。神の前に自分の怒りの感情を素直に認めることである。

第二に、なぜ自分が怒っているのかを、冷静になって考えること。正義感から来ているのか、そこに苦い根は隠されていないのか、利己的なものではないのか、いったい相手のことをどう思っているのか等。また、本当に怒る理由があるのかと考えて見るとよい。自分が早とちりしているだけの場合もある。待ち合わせの時間になっても来ないじゃないと思ったら、自分が1時間早く勘違いして待っていたとかいうこともある。また配慮をもって人を見ることができていないだけなのかもしれない。相手の身になって考えたら、私でも同じような行動に出るわとか、私でも同じ失敗するわとか、心に余裕が生まれる。さらに、不機嫌な態度を取られたとしても、職場で嫌なことがあったのかもしれないと推測することもできるし、車を運転していて後ろの車が猛スピードを出して抜き去っても、家族が危ないという連絡を受けて急いでいるかもしれないと推理することもできるし、人を傷つける乱暴な青年の行動を見ても、親の愛情を十分に受けないで育ってきたからかもしれないとか、寛容さをもって受け留めることもできる。こうして怒りは治まることもある。また、どうすると自分は怒りやすくなるのか、相手がどう出ると自分は怒ってしまうのか、そのプロセスを冷静に受け止めると、怒りを未然に防ぐこともできる。食事を作って呼んでも、いつも冷めた頃に何食わぬ顔でやってくるので怒るとか、物を置いて欲しくない場所にいつも物を置かれるのでストレスがたまるとか、それを知って怒る原因を取り除くこともできる。

第三に、静まって、みことばと祈りの時を持つことである。私は、これによって、あの人に言ってやらなければならないとカッカしていた時、何度か、詩編や箴言のみことばを通して、早まるな、待てのサインを受けて、勇み足の行動を防げたことがある。「神さま、私を制してくださり、ありがとうございます」と感謝の祈りをさせられたことであった。

第四に、その怒りに罪の要素を発見したら悔い改めるということ。これが大切で、これをほおっておくと、確実に悪魔に足場を与えることになってしまう。プライドが罪の告白の邪魔をするかもしれないが、心貧しくなり、例えば自分の中に敵意を発見した場合、「わたしは○○さんに対して、こういうひどい感情を抱いてしまいました。赦してください」と祈ることである。これは大切なことである。

第五に、人を赦さなければならない場合、赦すことである。赦さなければ、平安は来ない。この赦しに関しては、次回、32節の赦しの命令で取り上げることとする。

第六に、さばきは神にゆだねる信仰を持つこと。カッカして情緒不安定な状態が持続していると、悪魔に足場を与えてしまう。正義の怒りも罪深いものになってしまう。相手がまるっきしの悪人の場合、いつまでも、その人のことをどうのこうの思ってもしようがない場合がある。さばきは神にゆだねる。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい」(ローマ12章19節)と言われており、続く節では、敵を愛すること、善をもって悪に打ち勝つことが命じられている。さばきは神に任せる。神に任せたら、相手にマイナスエネルギーを向けることから解放される。

28節は盗みの禁止である。「盗みをしている者は、もう盗んではいけません」。私はこの命令に違和感を覚えた。というのは、この命令はクリスチャンに対するものだからである。そこで調べてみると、なるほどと思った。当時の世界において、盗みは非常にはびこっており、むしろ一般的だった。ことに、波止場と公衆浴場において、よく盗みが行われていたようである。公衆浴場は社交の場であった。入浴者の着物や持ち物を盗むことは、どの町にもあった現象であった。だから、クリスチャンといえども盗みの誘惑は大きかった。そして、この命令の背景には、かつて盗みの罪を働いていた後に信仰をもった者がかなりいたということも考えられる。エペソ教会には奴隷からクリスチャンになった者たちがいた。奴隷は主人のものを盗むということがあり得た(ピレモンへの手紙~奴隷オネシモは主人であるピレモンのものを盗んで逃亡し、投獄された)。奴隷は主人がいるところでは良く働いているようにみせかけ、主人がいなくなると手を抜いたり、また盗みを働くことがあった。とりわけ、主人が奴隷を正当に扱わないとき、盗みはよく起こり得た。また日雇い労働者が現場で盗みを働くことがあった。こちらを念頭に語られているかもしれない。いずれにしろ、当時の世界にあっては、盗みは当たり前であった。現代でも盗みは一般的な罪である。警備員を配置し、監視カメラを設置しても盗みは減らない。業務上過失致死傷を除いて、次に多いのが窃盗罪とも言われている。しかし、捕まった人は氷山の一角なので、捕まらなかった人の数を入れると、犯罪の一位に躍り出るかもしれない。この罪はモーセの十戒の第八戒で戒められている。「盗んではならない」。またモーセの十戒の第十戒、「隣人のものを欲しがってはならない」にも関係している。つまり、むさぼりの禁止である。むさぼりの感情も悪魔に足場を与えてしまう。

当時の世界は貧しい人が多かったわけだが、やはり貧しさというのも盗みへの誘惑を助長する。また良い働き口がないために、働く気がしなくて、盗みに走るということもあっただろう。けれども、こうしたことは言い訳にはできない。

現代ならではの盗みの罪もある。楽譜、音楽書出版物等を複写、複製は法律で禁じられている。著作権がからんでいる楽曲は、届け出し、料金を払わないと演奏できない。それを守らなかったら盗みの罪となる。脱税のための不正報告も盗みの罪である。身近なところではカンニングも盗みになる。借りっぱなしで返さないことも盗みに入る。

パウロの28節後半の命令は積極的である。「かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい」。聖書は怠惰を容認せず、一人ひとりが自分の足で立ち、自主独立の精神で働くことを教えている。だがそれだけではない。自分の生活の糧は自分で稼ぎなさいというのは当然のこととして、他人に分け与えるために働きなさい、と言っている。ただ自分の衣食住のために働くだけではなく、必要としている人々に分け与えるために働きなさいというのである。なんと積極的な命令かと思うが、これが聖書の労働観なのである。盗みをしないで、働いて自分の生活の糧は自分で。そこからもう一歩進んで、他者に分け与えるためにも働く。実は「困っている人に施しをするため」というのは、教会というコミュニティの中で、助けを必要としているが意識されている。クリスチャンは一人ひとりが自主独立を目指しつつ、助け合うということを実践する。「自主独立と助け合い」、この二つが絶妙なバランスをとることこそが、教会というコミュニティの姿なのである。またそれは、新しい人の姿である。盗むのではなく、与えるということ。

次回の29~32節も古い人の特徴が挙げられており、新しい人の特徴で締めくくられている。次回、今日の続きを学ぼう。今日見てきた、うそ偽り、怒り、憤り、盗みに注意しよう。また悪魔に機会を与えてしまうことを防ごう。悪魔に機会を与えてしまうことは、次回学ぶ30節を見ると、聖霊を悲しませることであることがわかる。自分の心をよく見張り、悪魔に足場を与えてしまうと感じたものは、それは憤りであれ、肉欲であれ、何であれ、それらに完全に支配される前に遠ざけ、また告白して捨て去り、赦し、きよめていただき、聖霊による平安をいただきたいと思う。