今日の箇所は衣替えについての教えである。日本での衣替えの時期は時代とともに移り変わってきたが、現在は標準が6月1日と10月1日、寒冷地は6月15日と9月15日である。今日の箇所が教える衣替えは、時期関係なく勧められている衣替えである。古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着ることが教えられている。

今日の教えの背景にあるのは不道徳の罠である。時代は今から約二千年前の小アジアにあるエペソというローマ都市。エペソはローマ帝国内の商業都市であり、文化都市であった。しかし、遊興、ランチキ騒ぎ、性的不道徳ということにおいても有名だった。ある歴史家は、小アジア内で最も好色な都市として、破廉恥な都市としてランク付けしている。そしてエペソは、アルテミス神殿があることで有名だった。アルテミス神殿は、多くの邪悪のセンターであった。大女神アルテミスの信仰は、邪悪な罪、性的倒錯をもたらした。男と女の役割は交換され、そして乱交パーティ、(現在では禁止用語になりつつあるが)ホモその他の性的倒錯が当たり前にあった。アルテミス自体がセックスの神さまで、その姿は醜く、嫌悪感を抱かせる黒い偶像だった。それはちょうど、牛と狼を掛け合わせたような姿であった。数千の神殿娼婦、宦官、歌い手、踊り子、また祭司、巫女によって仕えられた。アルテミスの偶像と他の神々の偶像は至る所で見られた。色々なサイズがあり、色々な物質で造られていた。偶像造りの職人も多くいたわけで、その職人たちが、このエペソ人への手紙の著者の使徒パウロに抗議した記録が残っている(使徒19章23節~)。当時ポピュラーであったのが銀の神殿の模型。パウロが、手で造ったものなど神ではない、天と地を造られた神こそがまことの神である、と宣べ伝えているのを聞いて、銀細工人たちは商売の邪魔をする者だとデモを始めた。

アルテミス神殿内は銀行のような役目も果たした。金持ちたちは、そこに高価なコレクションを持ち込んだ。そこが安全な場所であると。人々はそこから盗むと、アルテミスと他の神々の怒りを招くと信じ、盗むことをしなかったと言う。また神殿内の領域には、犯罪人たちの避難所があった。そこに留まっている限り、裁きから免れることができた。何百人もの犯罪人がそこにかくまわれていたと言う。こうした常習犯罪人たちの存在が、エペソの堕落と不道徳を助長したことはまちがいない。紀元前5世紀のヘラクレテスという人は、彼自身も異邦人であったが、エペソについて、「堕落の闇、その道徳は動物以下で、エペソの住民は、不道徳にふけることがお似合いであった」と証言している。こういう中から、悔い改めと信仰をもってまことの神に立ち返る者が起こされていった。彼らは罪悪のたまり場の中で、人々にさげすまれながら信仰の戦いを戦っていた。彼らもかつては友だちと遊興におぼれ、不道徳に走っていただろう。しかし今は、そこから素通りする者となった。けれども、生活圏は同じエペソなので誘惑は常にあった。誘惑を拒否すると、おそらく彼らは、なぜ前していたことをしなくなったのかと周りから悪口を言われるようなこともあっただろう。

4章17~19節では、世の人の三つの特徴があげられている。第一に「むなしい心」(17節)。皆さんはどういうときに「むなしい」ということばを使うだろうか。「むなしい」<マタイオーテス>は、実を結ばない場合に使われた。たとえば花が咲くところまで行ったけれども実を結ばないというようなときに使った。果実を一生懸命育てて、結局、実は結ばれじまい、ああ~、空しいとなる。また、このことばは満足が得られないときに使われた。快楽を追い求めても砂を噛むような気持ち、満足を得られない。ああ~空しい。さらに、このことばは、いくら川の水が海に流れ込んでも海がいっぱいにならないということを表わす場合にも使われた。そこから、無駄なことをやっている、ああ~空しい。こうしたことから「むなしい」ということばは、「無意味な」とか「空虚な」という意味をもつようになった。もし私たちが、ひと時のはかない楽しみ、満足だけを追い求めていると、欺かれ、失望がやってくる。富、名誉、快楽の追求などがそうである。それは風を追うような人生と言えるかもしれない。

第二に、「神に対する無知」(18節)。「知性においては暗くなり」に反論する人もいるだろう。現代人の教育程度は高いが、当時のギリシャ人たちも自分の知性を誇っていた。自分たちの文学、芸術、哲学、科学を誇っていた。でも神に真理に関しては無知であるということ。アルテミスといった神話上の架空の存在を神とすることは無知。また死んだ人間や動物を神とすることは無知。さらに神はいないとすることも無知。まことの神に対する知識をもたないことは無知。日本人も同じではないだろうか。

伊勢神宮にはアマテラスオオミカミが祭られている。日本の神々の頂点に立つ存在。太陽の女神として知られているが、元々は男神であると言われている。伊勢神宮の内宮の神主(神官)一族の伝承によると、天照大神の正体「蛇」と言われている。出雲大社にはオオクニヌシが祭られている。多数の女性と関係を結び181の神々を生んだと言われる色を好む男。そこから、縁結びの神、子授けの神として知られている。鹿島神宮に祭られているタケミカヅチ、香取神宮に祭られているフツヌシは、刀で切り殺した時の血から生まれた神とされている。タケミカヅチは軍神として有名である。エビス神はイザナギとイザナミ夫婦が生んだ最初の子どもと言われている。本名はヒルコである。彼は障害者として生まれてしまった。三才になっても足が立たないため、夫婦はヒルコを捨てることを決断し、葦船に乗せて海に流した。捨てられたヒルコは、後に七福神のエビスさんとして親しまれることになる。イザナミのおしっこから生まれたとされるミズハノメは水をつかさどるナンバーワンの神として知られている。愛宕神社で祭られているカグツチにもふれておこう。この神はイザナミ最後の子どもで、火の神として知られている。イザナミがカグツチを生む。しかし、その時の熱でイザナミの陰部は焼かれ、イザナミは死んでしまう。カグツチのお蔭で妻のイザナミが死んだことに激怒したイザナギは、お前は妻の仇であると、我が子カグツチを切り殺してしまう。愛宕の地名は、古事記によれば、「仇子(あだこ)」にちなむものだと言う。カグツチは父に切り殺された祟り神としてデビューした。

日本では人間が神になれる条件は二つあるのだと言う。一つは「偉人」であること。天皇や将軍クラス。もう一つは「怨霊」。非業の死を遂げたり、恨みを抱いて死んだと思われるだろう存在。天神さまとして知られている菅原道真が代表的。彼は醍醐天皇の時代、右大臣に出世した。道真の異例の出世が藤原氏等のねたみを買い、北九州の大宰府に左遷されてしまい、そこで無念の死を遂げることに。その後、疫病や天変地異が続き、道真の怨霊のせいにちがいないということになり、彼の怨念を鎮めるために天満宮に祭られることになる。彼は怨霊の神としてデビューしたが、秀才であったがために、人間の勝手で学問の神さまとされることになる。彼を祭神(さいじん)とする神社は全国で10441もある。

なぜ人間が神に昇格するのかというのなら、人間はもともと神の一部という神観から来ている。それだけでなく森羅万象のすべてが神の一部とされている。こうして神がこの世界と人間を造ったという創造論を否定する。すべてが神の一部とするので、当然、自然界にあるすべてのものが神となる。八百万の神の誕生である。山、川、海、木、石、そして動物の神も受け入れられる。日本の民族神には、カエル、ヘビ、ウナギ、牛、馬、色々な動物の神がいるが、狐も有名だろう。稲荷社で祭られている。仏教系の稲荷社の主神は、インドのヒンズー教の神ダキニ天(女性)。この神は鬼神(オニのカミ)で、墓場で心臓や肝を喰らう神。神の使いは霊獣として知られている狐。神道系の稲荷社の主神はウカノミタマ神。日本書紀ではイザナギとイザナミの子とされていて、古事記ではスサノオの子とされている穀物神。使いは狐。稲荷社は全国に4~5万あるとされ、約14万ある日本の神社の三分の一に達する。祠や小さな社などを合わせると、その数はさらに増え、どれだけあるか分からないと言われている。日本の企業のほとんどすべてが会社の敷地に稲荷を祭っていると言われている。宇宙を造り、人間を造られた創造主なる神には目も心も向けられていない。

「その知性において暗くなり」の「知性」は理解力のことである。理解力の闇を指摘している。続いて言われている「無知」とは、神知識の欠如である。まことの神に対する知識が欠如している。私たちは創世記1章1節の「はじめに神が天と地を創造した」の知識から受け入れたい。「かたくなな心」とも言われているが、「かたくなな」<ポーローシス>ということばは特別に硬い石の名前である<ポーロース>から出たことばで、相当に頑固なことを表わすことばである。「かたくなな心」とは、相当に頑固なので、「全く聞く耳をもたない心」ということである。だが、私たちは、聖書のことばに聞く耳をもとう。

第三に、「道徳的無感覚」(19節)。「無感覚」とは、「痛みを感じなくなる」という意味である。痛みを感じなくなるということは、恥ずかしさを感じなくなってしまうということである。だから恥ずかしくもなく、平気でできてしまう。良心の麻痺である。良心に痛みを感じない。だから「好色に身をゆだねて」しまう。「好色」とは全くだらしないことだが、特に性的に無軌道なことを意味する。それに身をゆだねてしまう。「身をゆだねる」とは「明け渡す」という意味であるが、好色に明け渡し、動物的となり、結果、欲望のなすがままで、あらゆる不潔な行いをむさぼることになる。いつの時代も同じである。

聖書は今述べた、「むなしい心」「神に対する無知」「道徳的無感覚」の三つの特徴を持つ罪人本来の存在を22節において「古い人」と呼んでいる。この古い人は自分の欲望を正当化し、その欲望は自分に幸福をもたらすかのように思っているが、それは自分を欺いているにすぎず、精神的な満足は与えられず、空しさから解放されず、腐敗していく。「滅びて行く」と訳されていることばは、一番新しい新改訳の聖書では「腐敗していく」と訳されている。腐っていくということである。その行き着く先は滅びである。

だから、聖書は衣替えを勧めている。「制服効果」という心理学の実験がある。制服が人にどういう影響を与えるかという実験である。最初、看護師の白衣を着てもらう。その人の態度は優しいものになる。同じ人に今度はナチスドイツの軍服を着てもらう。すると冷酷になったという。着るものは、その人の気分に影響を与えるということがわかった。女性の方は特に、気分を変えたいときに、服に気を配るだろう。

聖書は、物質の服よりも、もっとすばらしい衣替えについて語っている。古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着ることである(23,24節)。「新しい人を身に着る」とはどういうことだろうか。これまで何度も、キリストを信じるとは、キリストの中に入ることであると、著者の使徒パウロは語ってきた。キリストはまことの人となられたまことの神。私たちを罪と滅びから救うためにこの地上に来られ、私たちの罪を十字架の上で背負い、古い人への裁きを完了してくださったお方である。キリストを信じる時に、キリストのいのち、聖さ、愛を身にまとっていく。それは新しい性質である。新しい人を身に着るとは、キリストからいただく新しい性質を身につけることなのである。「新しい人を身に着る」ことを、パウロはローマ人への手紙13章13,14節で、ダイレクトに「キリストを着る」と表現している。「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません」。新しい人を着るとは主イエス・キリストを着ることに等しい。「主イエス・キリストを着なさい」とは、とっても不思議な表現かもしれないが、心に留めていただきたい。キリストを信じて、キリストの性質をいただくように、神は願っている。実は、この命令は、基本、クリスチャンたちに対して言われているが、キリストの性質を身につけて生きる自覚を促すために言われている。ある方々は、キリストなんか信じなくとも何が正しいかぐらいは良く分かっていると言われるかもしれない。けれども、わかっちゃいるけれどもやめられない、という失敗を繰り返す。「チョイト一杯の つもりで飲んで いつの間にやら ハシゴ酒 気がつきゃ ホームのベンチでゴロ寝 これじゃ 身体に いいわきゃないよ 分かっちゃいるけどやめられね~」(植木等「スーダラ節」)こうしたことも古い人の性質なのである。

先ほど、古い人は腐っていくこと、滅んでいくことをお話したが、新しい人は腐っていくのではなく、新しくされていく。「たとい、私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされていきます」(第二コリント4章16節)。「あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨て、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せてますます新しくされ、真の知識に至るのです」(コロサイ3章9節後半,10節)。新しい人は腐っていかない。朽ちることはない。ますます新しくされていく。キリストのいのち、永遠のいのちが与えられているから。

今日はからだの衣ではなく、たましいの衣についての教えだった。皆さんがキリストを信じ、キリストとの関係を築き、それをますます確かなものとされることを願う。からだの衣服以上に、自分のたましいの状態に注意を払おう。キリストを身につけて、キリストと一つになって生きることを願っていこう。