今日の物語は、二人の人物が対比されている。一人は、パリサイ人と言われる品行方正とみなされていた人物。もう一人は町の札付きの罪人。罪深いのはどちらだろうか。今日は、この物語を自分のこととして考えたい。

さて、あるパリサイ人が、イエス・キリストを食事に招いた。このパリサイ人は一見すると、とてもまじめに見える。物語の設定は、約二千年前のイスラエル。当時、客人を招くマナーはこうだった。挨拶として口づけをする。それから足を洗う少量の水を提供する。当時はサンダル履きだったので、足はちりで汚れる。また髪の毛に塗るためのオリーブ油を提供する。けれども、これら三つのもてなしの基本的儀礼はキリストに対して省略されている。もてなす側の伝統的しきたりは省略されている。このパリサイ人は、キリストに対して関心はあっても、キリストに対して「先生」ということばを使っていても、やはり、どこか見下している。キリストは、この非礼に激怒して、その場を立ち去っても良かった。でも、そうすることは、キリストの流儀ではなかった。36節にあるように「食卓に着かれた」。食卓に着くと訳されていることばは「下に寝そべる」という意味のことばで、当時、きちんとした宴席では、左ひじをついて、足を斜め後ろに延ばして寝そべって、食事をした。そのために寝椅子が用意されていた。そこに身を横たえたということである。この辺りは文化の違いである。

この宴席のどの時点なのかわからないが、37,38節にあるように、ひとりの罪深い女が入ってきて、キリストの足元に立った。当時の家はオープンな造りとなっているので、簡単に入れた。彼女は何をしに来たのか。彼女は自ら受けた罪の赦しへの感謝を表現したくて、この家にやってきた。それは彼女の行為からよくわかる(38節)。キリストは寝椅子に身を横たえていたため、キリストの手と頭部にはもはや手が届かない。彼女のそばにあるのはキリストの御足であった。彼女は泣いて、御足を涙でぬらし始めた。彼女がなぜ泣いたのか。自分の罪を赦してくださった方のそばで涙を流さずにはおれなかったのかもしれないが、キリストに対する周囲の非礼が、彼女の涙の量を多くしたのかもしれない。「御足をぬらし始め」ということばは、「御足をうるおし始め」と訳してもかまわず、キリストにとってはそのように受け取れたであろう。

普通、足は手ぬぐいで拭う。しかし、それはなかったので、彼女は自分の衣を使って拭うと思いきや、「髪の毛でぬぐい」という行為に出た。周囲にいる者たちは驚きの目をもって見ていただろう。なぜならば、中東の文化では、女性は公の場所では髪を覆い隠さなければならなかったからである。人前で髪の毛をほどくことも禁じられていた。もし、そうしたことを自分の妻がしたら、生活保障費を支払わずに離婚できるという掟まであった。髪の毛をほどく行為は、忠誠を誓う男性の前でしかしない仕草であった。だから、この仕草により、彼女のキリストに対する忠誠の思いがどれほどであるのかがわかる。

彼女は、その後、「御足に口づけ」した。通常は頬に口づけするが、足に口づけするのは、特別に身分の高い教師に対してだけするものだった。そして最後に、彼女は、その御足に「香油を塗った」。普通、客人を招くときに使う油は、どこの家庭にもあるオリーブ油で安いもの。しかし彼女はここで、高価な香油を使った。こうした一連の行為は、パリサイ人のそれと余りにも対照的である。

キリストはもてなしの形式そのものを問題にしているのではないことは明らかである。キリストは二人の心にある罪意識を問題の焦点にしている。40節から、このパリサイ人の名前はシモンであることがわかるが、彼は自分を正しいとする者であった。自分を正しいとすることを専門用語で「自己義認」と呼んだりもする。彼は自己評価は高くとも、聖なる神の目に正しいということはありえず、偽善に陥っていただけである。聖書はすべての人は罪人で「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ3章10節)と証言している。彼は人前で自分は正しくふるまっているという自負心があったかもしれないが、自分のことばと行いと心の中にあるものを正直に見ていないだけである。高ぶりの罪にも陥っていただろう。高慢ということである。だから彼は、この女と、そしてキリストをも見下していたのである。

彼女は37節で「罪深い女」と紹介されているが、欄外註の別訳を見ると「不道徳な女」とある。不道徳な女と真面目そうなパリサイ人、だが神の目にはどちらも罪深い。違いはどれだけ自分の罪深さを悟っているのかということにある。自分の罪深さを悟った者は罪の赦しを求め、また多くの罪が赦されたとわかったとき、言い知れない重荷が取り去られたことに対する感動が走るだろう。

キリストはシモンに対して、「金貸しのたとえ」を話す(41~42節)。債権者と債務者が登場するたとえである。実は聖書において、罪は借金、負債としてたとえられることが多い。たとえに出て来る「500デナリ」は、一般人には返済不能な額である。この借金が帳消しにされた。どんな感動が走るだろうか。私たち人間は誰しも、神に対して返し切れない罪という負債を負っている。それは赦してもらう以外には解決はない。そして、この赦しのみわざをキリストがしてくださった。キリストはこの後、ほどなくして十字架刑に服する。聖書が証言していることは、この十字架刑は私たちの罪のための身代わりであったということである。キリストは十字架の上で、私たちの罪という支払切れない負債を全額負って、血を流し、ご自分のいのちで、その代価を全額支払ってくださった。私たちは今、この罪深い女がキリストの足元に立ったように、キリストの十字架の前に立ち、額ずき、罪の赦しのみわざに感謝をささげたい。

48節において、キリストは女に対して、「あなたの罪は赦されています」と宣言する。このことばも周囲の者たちには驚きだったであろう。というのは、罪の赦しを宣言できるのは<神さまだけである>とユダヤ人たちは信じていたからである。そうである。イエス・キリストは神である。その神が人となられ、十字架にかかり、自ら罪の赦しのみわざを成し遂げてくださった。

彼女に対して、キリストは最後に言われる。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」(50節)。「信仰」とは、キリストを罪からの救い主として信じる信仰ということである。皆さんはいかがだろうか。彼女の側に身を置きますか?それとも自分はさほど悪くない善人という自己評価で終わってしまいますか?「安心して行きなさい」とは直訳すると、「平安へと行きなさい」「平安へと入りなさい」。何と言う慰めのことばだろうか。自分の罪にあえぎ苦しみ、人々の非難の目に耐えてきた一人の女性。しかしキリストは完全な罪の赦しを与え、消え去ることのない平安を与えてくださったのである。皆様の上にも、このキリストの平安がありますように。