今日は、クリスチャンとは誰でどういう者たちなのか、教会とは何なのかというお話をしたい。

日本におけるプロテスタント宣教の始まりは、1859年(安政6)である。アメリカ人宣教師たちがキリスト教禁教下の日本に上陸した。その中でもJ.ヘボンは有名である。医療活動や英語教育などを通して伝道に着手した。ヘボン式ローマ字や和英辞典を生み出したことは、一般の人にも高く評価されている。そして最初の教会に設立は1872年(明治5)だった。横浜で日本最初のプロテスタント教会「日本基督公会」が誕生した。宣教師J.バラを仮の牧師とした。日本人信徒は11名。この時点でキリスト教はまだ公認されていなかった。翌年の1873年(明治6)にキリシタン禁制の高札が撤去され、キリスト教は公認宗教となる。この頃の宣教の記録を見ると、キリスト教が神は唯一ということを強く謳ったがために、八百万の神々を信奉する日本にあって、強い反感を喰らったことが判る。と同時に、神は唯一と謳ったことが、多くの人を魅了していった。この頃は「教会」を「公会」と呼んでいたが、この表現はChurchの中国語訳をそのまま借用したものであった。その後、「教会」という表現が一般的になっていく。この表現がどうなのか?という話もある。教会は勉強する場所のような印象を与える。原語は<エクレーシア>であるが、このことばの用法を調べると、教会とは場所でも建物でもなく、キリストを信じる者たちの集まりであることがわかる。教会とはキリストにある私たち、教会とは場所でも建物でもなく人、私たちのことである。

今日の箇所では、教会について、すなわち私たちについて、三つの言い換えがされている。まず第一に、私たちは「神の国の民」である(19節前半)。ここでは、それが「聖徒たちと同じ国民」と言われている。その前にまず「他国人でもなく」と言われている。この他国人とは永住権をもっている外国人のことである。永住権をもっているならいいじゃないかと思われるかもしれない。他国人はその土地で永住権をもって仕事に就くことは許されたが、その国の市民権をもつことは許されなかった。だから、永住権をもっているといっても、よそ者扱いされることに変わりなかった。次に「寄留者でもなく」とある。寄留者とは旅行中の外国人である。今で言えば、観光ビザをもらってその土地で過ごす外国人である。その国で保護される特権は何ももっていない。完全なよそ者である。ここで言われていることは、あなたがたはよそ者ではなく、神の国の市民権をもった神の国の民ですよ、ということである。この時代、他国人がローマ帝国の市民権を得るために、高額なお金を支払うということがあった。けれども、私たちは神の国の市民権をお金で買ったのではない。キリスト・イエスの血という尊い贖いの代価によって得ることができた。キリストを信じた人は誰でも、人種、民族関係なく、神の国の民なのである。

第二に、私たちは「神の家族」である(19節後半)。私たちが得たものは神の国の市民権だけではない。神の子としての身分を受けた。「しかし、この方(キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハネ1章12節、ガラテヤ4章5節参照)。神の子どもとされたということは、神の家族の一員とされたということである。神が私たちの父親である。長子はキリストである。私たちはキリストによって神の家族の一員とされたので、互いに兄弟姉妹と呼ぶ。この世の戸籍においては他人同士であっても、血はつながっていなくとも、場合によっては人種も違っていても家族である。キリストの血によって一つとされ、兄弟姉妹の関係とされている。キリストによって新しいいのちが与えられ、神の家族の中に誕生した。家族という用語は、強い絆、強い結びつきを意味する用語で、一種の運命共同体である。それは愛によって仕え合う関係である。喜びも悲しみもともにする関係である。この家族が今や世界中にいる。

第三に、私たちは「神殿」である(20~22節)。ここでは私たち、すなわち教会が神殿にたとえられている。プロテスタント教会の建物は、一般的に、他宗教の神殿や神社仏閣のように、またカトリックやギリシャ正教の教会堂ように、凝っていない。人が集まるスペースが確保されていることが重視されていて、建築法や装飾に重きを置かない。それは、神殿とは目に見える建物のことではないという、みことばの確信から来ている。神殿とは私たちである。石や木でできたものが神殿という時代は終わった。

「土台」が「使徒と預言者」と言われているが、使徒と預言者は、真理のみことばを伝えるために召された。だから、土台はみことばと言い換えることができる。次に、「礎石」が「キリスト・イエスご自身」と言われている。「礎石」とは建物の一番下に、しかもコーナーに置かれた石で、すみ石である。この石は建物全体を支える土台石となる。軸受となって建物全体を支える。建物を構成するすべての部分が、この礎石の支えに与っている。この礎石をまず据え、礎石の上に構造物が積み上げられていく。そしてこの礎石が、構造物全体を一つにする働きをする。支え、建て上げ、一つとする、それが礎石の役目である。その役目を担うのがキリストであると言われている。

「礎石」は一つの重さが約570トンあったことが考古学の発見でわかっている。この重量を聞くだけで、頼りになるというイメージが湧いてくる。キリストという盤石な礎石の上に私たちは建て上げられる。建物を構成するのは私たち。切石や木材ではない。私たち一人一人が建物の構築物となり建て上げられていく。具体的にそれは、礼拝や奉仕というかたちで表わされていく。21節で「建物全体が成長し」とあるように、教会はまだ建設途上である。まだ壁が不足していたり、窓がついていなかったり、屋根に隙間があったり、備品が不足していたりする。未完成なのだから当たり前。クリスチャンは、それは変だと教会から距離をおいて傍観しているのではなく、教会とは私たちという真理に立って、壁が不足しているならば私が壁になりましょう、窓が足りないならば私が窓になりましょう、私が屋根の一部になりましょう、椅子がないならば私が椅子になりましょう、そうして皆で建て上げる働きをするということである。またお互いにみがきをかけたり、品質向上に努めたりするわけである。互いに神殿の一部として。教会とは私たちのことであるので、傍観者になってはいけない。

パウロは今日の箇所で、二つのことばを特徴的に使っている。一つは、英語でinを意味する<エン>。4回使用されている。「この方にあって」(21節)、「主にある」(21節)、「このキリストにあって」(22節)、「「御霊によって」(22節)。ここで「~にあって」「~によって」と訳されていたことばがギリシャ語の<エン>。意味は「~の中に、~のうちに」(英語でinに相当)であった。クリスチャンとはキリストのうちにある私たち。キリストの中にある私たち(エペソ2章13節)。教会を性格づけるのはキリスト。私たちはキリストの神殿を構成するメンバーである。教会とはキリストの教会であり、私たち一人一人がその一部である。私たちはキリストの栄光が現されることを願い、自らを献げていく。ある人が次のような指摘をしている。「不幸にも教会は、キリストを表わすことにおいて気づまりを覚えてばかりで、教会を存続し、維持するだけになっている」。私たちの関心がどこにあるのかを問われることばである。私たちはそれぞれがキリストのうちにある者として、キリストのすばらしさが表わされることを願って仕えていきたい。

もう一つ特徴的なことばが「いっしょに」を意味する<スン>。3回使用されている。「同じ国民⁄いっしょの国民」(19節)、「組み合わされた⁄いっしょに結合された」(21節)、「ともに建てられ⁄いっしょに建てられ」(22節)。「いっしょに」ということが強調されている。前回学んだ11~18節で、教会を構成するメンバーが、もともとバラバラの関係にあったユダヤ人と異邦人であったことをお話した。ユダヤ人と異邦人はお互いに嫌い合い、いっしょに食事することもなかった。パウロは彼らがキリストにあって、いっしょに、キリストのからだなる教会、神殿を建て上げてくれることを願っている。同国人同士でも問題が起きてしまうことがある。同じ県民でも心がすれちがってしまうことがある。けれども、私たちは一つになるために召されているという事実を、みことばから冷静に受け止めたい。自分の感情をベースにして動いてしまうことなく、みことばをベースにして、キリストにあっていっしょに、ともにという姿で、信仰生活、教会生活を送っていくのである。

最後に、神殿とは神の御住まいであることを確認して終わろう。まず21節で神殿が「聖なる宮」と呼ばれていることに心を留めよう。「聖」の基本的意味は「分離、取り分けること」である。この「聖」は19節でも使用されていて、そこでは「聖徒」と言われている。ここでも「分離、取り分ける」という意味を読み込まなければならない。私たちは誰のために取り分けられたのだろうか。キリストのために取り分けられた。ここに一つのバケツがあるとする。かつては便所掃除に使われていたバケツだとする。しかし今は取り分けられて神殿を掃除するバケツになった。同じバケツであることには変わりがない。バケツはバケツ。けれども神のために取り分けられたバケツとなったということである。私たちもそれと同じである。たいした者ではないと思う自分でも、神のために取り分けられた存在となったということである。私たちが「聖なる宮」の一部ということにおいても、私たちは神のために取り分けられている。何のためにか。「神の御住まいとなるため」ということができる。神は三位一体において、神はキリストであり、御霊でもある。キリストは言われた。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ18章20節)。これらのみことばによると、今の私たちの状態はまさしく神殿である。もちろん、建設途上の神殿で完成形ではないけれども。神殿には神が住まう。神の臨在がある。

私たちという存在は生きた神殿である。地上の石や木でできた神殿は壊れるだろう。けれども、私たちは永遠のいのちを受けた神殿である。かつて、パウロはアテネの人々に宣言した。「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにお住みになりません」(使徒17章24節)。神は手でこしらえた宮などにはお住みにならない。神は私たちに住まう。神殿である私たちの精神はどうあったら良いのだろうか。それは明らかだろう。一人一人が神の御姿を慕い求めたいと思う。すべてのものに優って神の臨在を慕い求めたい。神の御顔を慕い求めたい。この地上であなた以外の何ものも望みませんと言わんばかりに、まことの神に心を向けたい。24時間のすべてを、人と会話している時も、手仕事をしている時も、神に、キリストに心を向けていたい。バプテスト派の牧師で有名な人にチャールズ・スポルジョンがいるが、彼は、目を覚ましている時間、ほんの15分でも主の臨在を明確に意識せずに過ごしたことはないと主張した。私たちもそうありたい。意識的に、主に心を向ける努力をしたい。一人ひとりが確かな臨在信仰を生きていきたいと思う。

今日は、私たちが「神の国の民」であり、「神の家族」であり、「神殿」であることを学ばさせていただいた。この事実を生きていきたいと思う。