今日の聖書のみことばは、神さまの愛が伝わってくる。3~4節を見ると、神さまはゆりかごから墓場まで、いやその前後にさえも愛と関心を払い救ってくださる方であることが伝わってくる。「胎内にいる時からになわれており・・・あなたがしらがになってもわたしは背負う・・・」。ここを読むと、これと反対の精神、江戸時代頃まで一般に行われていた赤子や幼児の口減らしや間引き、また老人に対して行われていた棄老の慣習を思い起こす。江戸時代では7歳にならないと、まともに人としてみなされず、長男以外の存在は口減らしや身売りの対象となってしまった。人身御供にもされた。お年寄りに関しては、食い扶持を減らすために、姥捨てなどの風習があった。しかし、まことの神は、そうしたことを望む方ではない。

今日の箇所は良く見ると、実は、二種類の神の姿が対比されている。人間に運ばれる神と人間を運ぶ神である。1~2節が「人間に運ばれる神」、3~4節が「人間を運ぶ神」である。背景は紀元前6世紀の中東の宗教事情にある。

1~2節をご覧ください。1節にある「ベル」と「ネボ」は古代バビロンの神である。現代でもこの名前は知られていて、ゲームの世界や映画でも使われている。ベルはバビロンの主神、最高神である。ベルは鳴らす鈴のことではなくて、「王」「主」を意味する。たいそう偉い神だということがわかる。ネボはベルの子どもである。民衆は神々の中でもベルとネボを尊び、崇拝していた。戦勝祈願などは、これらの神々に国家を挙げてしただろう。

1節後半を見ると、なぜかこれらの神々は獣や家畜に載せられて、運ばれることが書いてある。実は当時、国々の戦いで戦争に負けると、敗戦国は自分の国の神を運んで逃げていった。うまく逃げ切れればいいが、その国の神も人も虜にされてしまうことがあった。運ぶ手段だが、重くてある程度大きいので、牛車などに乗せて運ぶということになる。その神さまは足はついているのだが、実際は歩くことも走ることもできない。牛などにがんばってもらうより他ない。牛の鼻息は荒くなった。現代では人間の手で造った偶像は、火事の時など運ばれることがある。運ばれる神、それは人間の重荷となるだけである。1~2節の運ばれる神は、自分で自分のことも救えない神と言い換えることもできよう。動物や人間のお世話になるしかない。にもかかわらず、こうした神々に頼る人間のほうにまだ問題がある(5~7節参照)

3~4節の人間を運ぶ神について見ていきたい。まことの神は人間に運ばれる必要はない。それどころか、3節にあるように、胎内にいる時から担ってくださり、生まれる前から運んでくださるお方である。詩編139篇13~16節を参考に開こう。私たちはまことの神の意志と関係なく生まれてきたのではない。神さまは母の胎内で私たちを形造ってくださった。現代は科学の進歩により胎児の映像を見ることができる。母親の胎内にいる時からすでに人間だと分かる。器具を使って堕胎させようとする時、映像を見ると、胎児は身をよじって器具を避けようとしているのがわかるのだそうである。人間は生命倫理において問題があることをしてきた。また生まれてくると、産婆さんは子どもを取り上げることだけが仕事ではなくて、反対のことも頼まれればやらなければならなかったという歴史がある。

今、私たちは生きているが、それは神さまの恵みという他はない。私たちは偶然に生まれてきたのではなく、また、ただの人間の営みの結果として生まれたのではなく、神のご計画と恵みによって生まれ現在があることを認めよう。私たちが母親の胎内に宿る前から、神さまの心の中に私たちのことがあった。神さまは時至って私たちに生を与え、担い、運び、背負い続けてくださった。

イザヤ46章に戻ろう。4節に「背負う」ということばがあるが、子どもの頃、母親の背中におんぶされていた記憶があるだろうか。私はかすかに残っている。ある人はおばあちゃんやおばやお姉さんにおんぶされていた記憶もあるかもしれない。子どもは、母親の背中から目に見える様々な世界を観察することによって成長するのだと言われている。スキンシップだけが利点ではないのだそう。日本では首がすわる4ヶ月頃から背負い、早い国では生後8~10日で背負うところもある。いずれ、私たちは母親だけではなくて、神さまに背負われてきたことも知らなければならない。また、「なお、わたしは運ぼう」とも言われているが、「運ぶ」ということばは、親が子ども抱いて運ぶ意味をもつことばである。神の愛を覚えることができる。

さらに神さまは、「あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う」と宣言している。生涯背負うという約束である。しかも、「わたしは背負って、救い出そう」とあり、「背負って、捨てにいく」とは言われていない。関東のある地方では史実としてあったかどうかはわからないが、あったとも言われている姥捨て山伝説がある。お殿様が、年老いて働けなくなった老親を山に遺棄するように領民にお触れを出した。お触れに背く者には厳罰が待っていた。領民はいやでも従わざるをえなかったと言われている。真偽のほどは定かではないが、親捨てではなく子捨てがあったことは事実として知られている。神が私たちを背負い運ぶ目的は今読んだ、「わたしは背負って、<救い出そう>」ということである。最終的にこの救いは、罪からの救い、死からの救い、滅びからの救いである。それは人命救助ということである。

人命救助で有名な実話に、三浦綾子の小説の題材にもなった「塩狩峠」での救命物語がある。1909年(明治42)2月のある日、列車が北海道の塩狩峠の頂上付近に差しかかった時、最後尾の客車が連結が外れたために、上り勾配を逆行して、下り出した。そのままではカーブで脱線して大参事になってしまう。その客車に一人の鉄道院の職員が乗っていた。クリスチャンの長野政雄である。彼は自分の命は神に捧げたのだから、いつどうなってもと、まだ30歳の若さにもかかわらず、いつも遺書を携えていたという。彼は旭川の教会に行くために、たまたまその列車に乗っていた。彼は客車の暴走を止めるべく客車のブレーキをかけるが止まらない。が、停止する。彼は自分の命と引き換えに、身を投げ出して客車を止めたと言われている。彼の遺体が車両の床下からみつかった。塩狩峠の記念館に赴くと、彼の遺書の一部が記されてある石碑がある。「苦楽生死均しく感謝。余は感謝してすべてを神に捧ぐ」。彼は、自分を罪から、死から、滅びから救うために、キリストが自分の身代わりに十字架についてくださったと信じていた。彼が受けていた恵みは罪からの解放であり、死んでも死なないいのちであり、天の御国を受け継ぐものとされたという特権である。そのために、キリストは自分のためにいのちを捨て、尊い血を流して死んでくださったことを信じていた。彼の人命救助の根底にはキリストの人命救助があった。

二千年前に十字架についたキリストを自分とは無関係な人物とは思わないでいただきたい。確かにキリストは、私たちのために罪の泥をかぶって、身代わりに死なれたお方である。そしてキリストは十字架の死後、よみがえって、今も生きておられるお方である。キリストが神であるならば、死につながれていることなどありえない。

今も生きておられるキリストは、私たちに、こう呼びかけておられる。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11章28節)。この呼びかけに応じた方はたくさんいらっしゃる。私の職場の同僚であった婦人は人生に絶望し、死の一文字が頭にちらついていたとき、この言葉に出会って救われた。キリストが語る重荷とは死ぬほどのストレスかもしれない。自分の罪から来たたましいへの圧迫かもしれない。それが何であるにしろ、「あなたがたを休ませてあげます」と明言し、招いてくださっているのである。

皆さんは、今まで重荷を解きたくて、休みたくて、いろんな専門家に相談し、いろんな神々のところに足を運ばれたかもしれない。しかし、どうだっただろうか。イザヤ47章12,13節をご覧ください。冒頭でネボやベルはバビロンの神々であることをお話したが、バビロンの人々は、多くの神々のところに足を運び、呪術、呪文、星占いなどに頼った。結果は疲れて何にもならないということである。では聖書の神、イエス・キリストはどうだろうか。このお方の招きに応えてはいかがだろうか。キリストのふところの深さ、ハートにゆだねられてはいかがだろうか。

このキリストは平安を与えてくださるばかりではなく、人生をともに歩んでくださるのである。つまり、天の御国に入るまで、背負い続けてくださる。「あしあと」という有名な詩がある。知っていらっしゃる方も多いと思うが、あらためて紹介しよう。

“ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。 暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。 ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。 そこには一つのあしあとしかなかった。 わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。 「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」 主は、ささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」 ”

(マーガレット・F・パワーズ 「あしあと」)

この詩で言われているように、キリストは私たちを決して捨てたりはしない。永遠の御腕をもって、運び、背負ってくださる。そして、この詩からもわかるように、それは過保護にするということとは違う。だから、自分の思う通りにならないからといって、その愛を疑うべきではない。聖書の神はご利益宗教の神ではない。私たちに試練も許し、練り清められることもされる。晴れの日もあれば、雨の日も許される。私たちの為す分は、神の愛を信じ、信頼することである。私たちを捨てたりはしない。神はすべての被造物を造られた創造主であり、すべてを支配しておられる。月、星、太陽といった天体の動きから、すべての植物、すべての生き物、深海の生物から空を飛ぶ鳥に至るまで、すべてに関心を払い、養い、導いておられる。また地上に住む人間一人一人にも。神の総計ははなはだ大きい。大勢の中の一人にしかすぎない私たちに対しても、愛と関心の眼差しを注ぎ、私たち一人一人の人生を自分の人生として担ってくださる。その愛の証は十字架である。

まことの人となられたまことの神、イエス・キリストは、十字架で私たちの罪の重荷を負ってくださったばかりか、私たちと私たちの人生を丸ごと負ってくださる。そして永遠の御国に救い入れてくださる。

皆さんは、母の胎内にいる時から、いや、永遠の昔から神に覚えられていた。神は天地の創造主であり、人間の造り主である。そのお方が目に見える神となり、キリストの十字架を通して、永遠の愛を啓示してくださった。この愛を信じて、我が身とたましいをゆだねていただきたい。