エペソ人への手紙は、私たちがキリストのうちにあること、キリストの中にあることを繰り返し語っている手紙である。それは今日の箇所でも言われている。13節で「今ではキリスト・イエスの中にあることにより」と言われている。「~の中にある」は原語で<エン>である。<エン>ということばは、場所、領域を表わす前置詞で、英語の<in>に相当する。「~の中に」「~のうちに」を意味する。私たちはどこにいるのか。キリストの中にいる。キリストのうちにいる私たちである。自分が今どこにいるのかわからなくないという人は少ないと思うが、物理的な意味ではなく霊的な意味で、自分が今どこにいるのかわからないという人は多い。信仰者は今、キリスト・イエスの中にある。

パウロは今日の箇所でまず初めに、12節において、キリストのうちにいない状態を幾つかの表現で語っている。第一に「キリストから離れ」。まさしくキリストのうちにいなかったということである。第二に、「神の国から除外され」(イスラエルの国は神の国と置き換えていい)。第三に、「約束の契約については他国人であり」。これは救いの契約とは無関係であったということ。救いの契約、すなわち神との契りに与れないでいた。第四に、「望みもなく、神もない人たち」だった。救いの希望はない。そして神をもっていない。神々をもっていたかもしれないが、肝心のまことの神をもっていなかった。神なしの人生を歩んでいた。けれども、キリスト・イエスの中にあることにより、今はそうではない。

パウロは今日の箇所で、キリスト・イエスの中にあるなら、神と私という垂直の関係だけではなく、人々との水平の関係も正されるということを教えたい。エペソ教会を構成していたのは、ユダヤ人だけではない。ユダヤ人もいたけれども、地域から考えて、その構成上、異邦人たちが多かった。普通に考えたら、この時代のユダヤ人と異邦人の関係を考えると、差別、不和、疎外といったことばを思い浮かべてしまう。簡単に両者の関係について述べておく。歴史的に、ユダヤ人と異邦人は仲が悪く、ユダヤ人は異邦人を嫌っていた。ユダヤ人は異邦人たちのことを、みだらな不道徳が伴う偶像崇拝をする輩として嫌っていた。ユダヤ人は自分たちは神の選びの民であるという誇りがあり、律法をもっていることに安んじ、自分たちは聖い民であるという自負心が強く、異邦人たちを汚れた者として見下していた。異邦人たちのことを、地獄の火を燃やすために神が造ったのだとまで言っていた。自分たちの生活圏に異邦人たちが踏み込んでくることを非常に嫌った。一緒に食事することも避けた。異邦人の家に入ることも嫌った。異邦人の地に足を踏み入れることも、できるだけ避けた。異邦人たちのユダヤ人たちに対する態度はどうであったかというと、ユダヤ人たちに引け目を感じていたばかりではなく、彼らを軽蔑し、憎んでいた。当時のギリシャ人は、知的レベルでは低くないぞという自負心があったし、自分たち以外の民族を、未開人、もしくは野蛮人と呼んで見下げていた。彼らは知性においてはユダヤ人たちに優ると、ユダヤ人たちを軽蔑していた。こうして、両者、憎しみ合っていた。こういう水と油の関係の人たちが一つのコミュニティを形成しようとしたらどうなるのか。目に見えている。現代を見ても、同じアジア人同士でもうまくいっていない。では日本人同士ではどうかというと、うまくいっていない。同じ秋田県人同士でも、住む場所の違いだけで揶揄し合うことがある。壁がある。障害がある。しかし、こういう関係は後にしなければならない。新約の時代はキリストのコミュニティということにおいて、ユダヤ人もギリシャ人もない。自由人も奴隷もない。男も女もない。社会的身分や地位の別もない。どこ出身かも関係ない。かつて犬猿の仲であったということも言い訳にはならない。キリストにあって一つを生きるわけである。パウロはそのことをエペソの教会の人々に分かってほしい。エペソの教会では、また近隣の教会では、ユダヤ人と異邦人同士で、ぶつかり合うこともあっただろう。一つとなっていく過程で、それは仕方がないことだとしても、日が暮れても怒りは治まらず、ヒビが入った関係が修復されないまま時間ばかりが過ぎて行くといことであったらまずい。ユダヤ人と異邦人は、特別な理由がないにしても互いにアレルギー反応を起こしてしまうようなところもあったであろう。文化の違いも大きい。仲良くやっていくためには、互いに慣れるための努力をするとか、最低限お互いに守るルール作りをするとか、色々考えられると思うが、この根本的解決のカギは、それぞれのキリスト信仰にある。

パウロはまず、異邦人のキリストにある立場について述べている。「キリストの血によって近い者とされたのです」(13節後半)。「キリストの血」という表現は、1章7節からも、キリストが十字架の上で流された贖いの血であると知る。続く「近い者」という表現が現代の私たちにはわかりにくい。実は、当時のユダヤ人たちは自分たちを「神に近い者」と呼び、異邦人たちのことを「神の恵みから遠く離れている者」と呼んでいた。「近い者」という表現そのものは、当時のユダヤ人たちが使用していた神殿に関する用語だった。エルサレムにある神殿の構造を見ると、至聖所の近くにイスラエルの庭があり、そこはユダヤ人だけが入ることが許されている。神殿の至聖所近くまで入ることができるのはユダヤ人だけであるということである。このイスラエルの庭の外側に異邦人の庭があり、異邦人はそれ以上は神に近づけない。異邦人は遠い所にいなければならないということである。けれども、キリストが十字架の上で流された血は、ユダヤ人異邦人の別なく、神のみもとに招く贖いの血であった。神はキリストの血を通して、ユダヤ人、異邦人の別なく招いている。両者はキリストにありて一つとされるのである。

だから14節に入ると、「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし」と、キリストこそが二つのものを一つにするという平和な関係のカギを握ることを指し示している。14節後半で、キリストが「隔ての壁を打ちこわし」たことを述べている。「隔ての壁」と聞くと、ベルリンの壁その他、関係遮断、侵入禁止の壁を思い起こす。人種を分離する21世紀最大の壁と言われているのは、イスラエルが築いたパレスチナの分離壁(450キロメートル)。あるパレスチナ人はこの壁についてこう語っている。「イスラエル人は友ではなく敵をつくっている。『もっと憎め、もっと憎め』と」。さて、パウロの念頭にある「隔ての壁」とは、当時のエルサレムの神殿にあったユダヤ人と異邦人を仕切る隔ての壁の引用だと思われる。異邦人が入ることが許されていた庭とユダヤ人が入る庭との間には、高さにして百数十センチの壁があって、両者の間を隔てていた。1871年のこと、この隔ての壁について説明している石碑が発見され、それには次のように書いてあったと言う。「いかなる国のいかなる人間も、聖所を囲むこの垣と壁の中に入ってはならない。あえてこれを犯す者は、だれでも死罪を受けることになる」。もし異邦人が隔ての壁を乗り越えてユダヤ人が入る庭に侵入すれば、死罪という掟である。これに関する事件が使徒の働きで記述されている。使徒21章27~29節を見よ。パウロがギリシャ人を神殿の禁止区域に連れ込んだといって嫌疑をかけ、大騒動に発展した。だから隔ての壁は、心理的に高くて分厚い。隔ての壁は両者の間の「心の壁」の象徴である。自分の周りに何重もの心の壁を築いてしまう人がいる。嫌いだ、赦せない。それ以前に、だれともまともに付き合いたくないと。なんとなく理解できそうな気もするが、ただし、これは、神が人間を造られた目的と逆行している。神は人間を神との垂直の交わり、そして人間同士の水平の交わりに生きるように造られている。心の壁は取り払わなければならない。要塞のように何重もの壁で自分を取り囲んでいる人がいるけれども、それは不幸でしかない。

パウロは15節に入ると、隔ての壁を取り除いたキリストを「敵意を廃棄された方」として紹介する。パウロは続いてこの敵意を「敵意とは、さまざまの規定から成り立っている律法なのです」と説明している。そのような意味において、パウロが先に語った隔ての壁とは律法の規定であるとも言える。パウロはユダヤ人の儀式律法を念頭においている。ユダヤ人たちは自分たちの律法を守らない異邦人たちを許すつもりはなかった。仲間と認めるつもりはなかった。一例を挙げると、食物規定がある。彼らは律法によって聖い食物とそうでない食物を厳密に分け、聖くない食物を食べる異邦人と一緒に食事することはなかった。現代でも同じような事例がある。ある外国人たちがイスラエルツアーに出かけ、ホテルに泊まり、夕食を摂ろうとしてダイニングルームに入った。その人たちはうっかり知らずに、ユダヤ人席に座ってしまった。そして食べようとしたまさにその時、ユダヤ人たちから、他の場所に移るように警告されたという。律法が敵意の道具とされてしまっている。しかしキリストはご自分の肉体において、この敵意を正当化させなくしてしまった。キリストは十字架の上で肉を裂き、血を流し、それまでの律法を廃棄し、一つになる根拠を作られた。

パウロは15節後半と16節前半で、一つになる関係を身体的に説明している。「新しいひとりの人」「一つのからだ」。パウロはキリストのコミュニティである教会を、各書において、キリストのからだとして論じている。日本語の「教会」という訳語は、勉強する集会や場所をイメージさせ、パウロのイメージとずれているところがあるが、教会とは集会や場所ではなく、「人格」のことであり、それは「キリストのうちにある私たち」のことを意味する。それがここで「新しいひとりの人」「一つのからだ」と言われている。キリストの中に入るということは、ひとりのキリストの中に入るということであり、一つのキリストのからだの中に入るということである。私たちは、人種、身分、学歴、性別、性格、年代、いろいろと違っていても、一つキリストの中に入れられ、一つとされ、新しいひとりの人となった、一つのからだになったのである。18節では「一つの御霊において」という表現があるが、ここでの「おいて」も<エン>、よって「御霊のうちに」である。御霊はキリストの霊である。主は御霊である。

今日の箇所から真の平和とは何かについて気づかされる。まずそのために神との平和(神との和解)がなければならない。これは垂直の和解である。神との垂直の和解は、キリストの十字架は我が罪のためと信じ、キリストを信じることによってもたらされる。そして、キリストを信じるとは、キリストの中に入ることである(13節「キリスト・イエスの中にある」、1章15節前半「主イエスに対するあなたがたの信仰」~「主イエスに対する」の「対する」という前置詞は、「~のうちに」を意味する、ギリシャ語の<エン>が使用されている。信仰を持つとは、キリストの中に入ってしまうこと、キリストを居場所とすることである。)同じキリストの中に入ることは結局、キリストにありて一つとされることであるので、水平の和解に至る。人と人との和解である。ユダヤ人という人種、異邦人という人種は一つの人種になる。すなわちクリスチャンになる。「クリスチャン」とは「キリストにつく者」といった意味である。聖書が語る平和には垂直と水平の和解が固く結びついていて、二つは切り離せない関係にある。

パウロは、一つとされているということを、目に見えるかたちで表わすように願っている。それはどうすることだろうか。まず、個人主義は捨て、共同体として信仰生活を送るということである。現代において、キリスト教が個人の宗教に傾きつつあるという。つまり、クリスチャンたちが個人主義的になってきていて、群れから離れて信仰生活を送ろうとすることである。世の個人主義の風潮が教会に入り込んできている。それは、一つのからだになるように召されているという現実に逆行するものである。キリストのからだという実体を否定する生き方である。神と交わり人と交わるという人間本来の在り方も損なうことになる。

次に、一つとされていることを目に見えるかたちで表わすとは、争いではなく、一致していくということである。新約聖書の教会への手紙を見ると、仲たがい、不和、反目状態の問題があったと知る。エペソの教会にもこの問題があっただろう。私もこれまでの牧会人生の中で、対立している兄弟姉妹の間に仲介役として入ったことが何度もあった。相手の不注意で被害を受けた、誤解されている、考え方がまるで違う、相手が間違っている、やったやられた、言った言われたのトラブル。本人同士で話合いをして解決して欲しいのだが、それがうまくできない。向き合って勇気をもって話し合うことができないという日本人の悪いクセも関係していると思うが、こうした問題の解決の基本は、単純に言ってしまうと、お互いに主の十字架を仰ぐということに尽きる。お互いに主キリストにあって愛され、受け入れられている存在である。お互いに十字架の愛で愛されている存在である。十字架による罪の赦しも経験している。主の十字架を仰ぐ時に、互いに忍び合う、赦し合うという恵みをいただけるはずである。人間関係のトラブルの時にこそ、その人の信仰の真価が問われる。十字架信仰が問われる。主の十字架を仰ごう。誰かを許せないまま、そのことを放置していてはならない。時間がかかっても赦す恵みが与えられるよう祈るのである。和解の恵みを祈るのである。主の十字架の元に一つ、それが私たちクリスチャンである。キリストこそ私たちの平和ということを体現したい。

最後に、間違った一致についても触れておこう。二つ紹介する。一つはエキュメニカル運動。この運動は聖書信仰に立たないキリスト教教派、グループが唱道している世界規模のキリスト教一致運動。これは偽りの一致である。キリストをまともに信じていなくとも、キリストの復活を信じていなくとも、偶像を拝んでいても、聖書を全部信じていなくとも、一致しましょうという運動。世界教会協議会(略称:WCC)という団体を組織し、聖書信仰に立たないプロテスタント教会や聖公会や東方正教会が加盟している。ローマカトリックは正式メンバーではないが委員を派遣し、この運動に賛同している。彼らはキリストを神と認めない他宗教との一致さえ模索している。これは黙示録で暗示されている世の終わりの姿でもある。真の一致は、真理の土台に基づき(ヨハネ17章17節)、「キリストのうちにありて」の一致である。

もう一つの偽りの一致は、英語でいえばユニホームである。それは同じ型にはめること、一様のあり方しか認めないこと。カルト宗教がやっていることである。多様性を認めようとしない。同じやり方、同じ考え、同じ動きしか認めない。メンバーは個性を失ったロボットのように行動することしか認められない。自立性を奪われ、機械的な服従を求められる(エホバの証人、オウムといったカルト宗教、一部のカリスマ的教会)。だが聖書の一致は、多様性における一致である。からだは一つでも多様な器官から成っている。全部が耳ということはない。全部が口ということはない。全部がお尻を要求されるわけでもない。様々な個性ある者たちが個性あるままで一体となる。英語で言えば、ユニホームではなくユナイトである。食卓で言えば、ちょっと塩辛い漬物、甘い煮豆、個性が強いにんにく、さっぱり酢の物、青菜のおひたし、柔らか豆腐、固い日干しの魚、スタミナ焼肉、こうしたバラエティに富んだおかずが主食のご飯に添えられ、食味と栄養のバランスを取り、そこに一体感を表わすようなものである。

私たちはキリストをかしらとして多様性の一致を目指そう。互いの違いを尊重し合いながら、認め合いながら、互いにキリストにありて愛され、救われている者たちとして、キリストにありて互いに受け入れ合い、キリストにある互いを喜び合い、互いの失敗や欠けは補い合い、また赦し合い、仕え合い、キリストこそ私たちの平和という真理を体現していきたい。