今日でマタイの福音書の講解メッセージは最後となるが、登山にたとえれば、今日の箇所はこの福音書の頂上と言って言い箇所である。ある方は次のように述べる。「もし一人のクリスチャンがマタイの福音書の他のすべての箇所を理解しても、この最終箇所を理解し損なったら、その人はその書の全体の主眼点を捕え損なったのだ。この節は、この福音書の頂点であり主要な焦点というだけではなく、新約聖書全体のそれなのだ。最も広い意味では、聖書すべての、新約同様旧約の焦点であると言っても過言ではない。聖書のこの中心的メッセージは、神の民の中心的使命に関係しているが、悲しいかな、多くのクリスチャンはこの使命を理解していないし、実行するに気乗りしない。」

今日の箇所は一般的に「大宣教命令」として知られている。10年前頃、仙台の道路を、疲れ切った気分で運転していた時のことであった。しばらく何もしないで休んでしまいたい、気力が湧いてこないと。そんな私の心に神さまの静かな語りかけがあった。それがこの大宣教命令だった。「主よ。わかりました」。涙が出て来たことを覚えている。私たちは、私たちの関心が内向きになり、自分の必要、自分の生活、自分の思い煩いと、自分の内側だけをまさぐるだけになって、自分、自分と、自分の内側に閉じこもることになりがちである。私たちが主の大宣教命令に従い、出て行って福音を伝えることがどうして必要かと言うならば、人々が滅びに向かっているからである。よく次のような例話が取り上げられる。“あなたが川で溺れている人を目撃したとする。そこを素通りするだろうか。福音を伝えないということもこれと同じである。”溺れている人を見ても素通りするならば、その人は愛がない。福音を伝えないこともこれと同じである。つまり、福音を伝えるというのは愛の実践なのである。隣人愛の最たるものと言って過言ではない。“ちょっと今風邪気味で疲れているから、溺れている人ゴメン”、また、“今ごはん食べたばかりだから、もうちょっと頑張って浮かんでて、”はないわけである。

私たちが大宣教命令に従うときに、キリストを知らないで失われていく人を考えたライフスタイルになっていくはずである。時間をどう使っているのか、お金をどのように使っているのか、人にどのような関心を示して動いているのか。もし私たちが主の大宣教命令をないがしろにし、自分のことだけに関心を注いでしまうときに、私たちクリスチャンのいのちそのものが危うくなっていく。

興味深い冬のお話がある。山の雪道を先に急いで歩いている人がいた。その人は前方に行き倒れになっている人を見た。しかし、自分が寒さの中で凍えて倒れてしまう危険があるのに、この人のめんどうを見ている余裕はない、自分の命が危ない、共倒れになってしまうと、見過ごしにして素通りし、先を急いだ。その様子を見ていたもう一人の人がいた。その人もこの山道で凍死してしまうのではという不安をもちながら歩いていた。人のことなど構っていられる状況にはない。しかし彼はクリスチャン。彼は倒れているその人に近づき、このままにしてはおけないと、かついで歩いて行った。そうしたならば、寒さで凍えていた体は、人をかついだことによって温まって行き、熱を帯びてきた。歩く力がかえって出てきた。しばらくかついで歩いていると、見過ごしにして先を急いで歩いて行った人が、雪道で凍えて倒れて死んでいた。そして、倒れていた人をかついで歩いていった彼の命は助かった。彼はこの体験を通して大きな教訓を得たとのことである。自分だけを救おうと思う者は命を失い、他者の命を救おうと思う者が自分の命をも救う。

では16節から見ていこう。「十一人の弟子たち」と言われている。最初は意気揚々と主についていった者たちで、でかいことも口にしていた。負けん気の強さも見せていた。しかし、彼らは信仰の欠けを露呈し、失敗を繰り返し、あげくの果てに主を見捨て、敗残者のようになっていた。人目を恐れ、臆病な小動物のような有様になっていた。色々な意味で、彼らはしょぼい十一人となってしまっていた。自己イメージは粉々に砕かれていたし、この世のカスになってしまっていた。彼らは自分たちの弱さ、小ささを痛感している。そのような彼らに対して、19節において「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と、地球大の命令を与えるキリスト。とても彼らに耐えられる命令とは思えない。だからこそ、この命令の前後に、キリストはご自分の偉大さ、そしていつまでも変わることのない臨在を示し、サンドイッチのようにして宣教の命令を挟み込み、弟子たちを励ますのである。この構成は見事である。人はただ頑張れと言われても頑張れない。頑張れる根拠や励ましとなる約束を頂かなければ。

命令を受けた時期は、他の福音書、使徒の働きから総合して、キリストの復活から20~35日の間ではなかったかと思われる。命令を受けるために指定されていた地は「ガリラヤ」である。ガリラヤという場所指定はキリストによって二回、御使いによって一回あった(26章32節、28章7節,10節)。なぜキリストはガリラヤを選ばれたのだろうか。弟子の多くがガリラヤ出身であったし、ガリラヤはキリストの人としての故郷でもあったので、この地が選ばれるのは自然である。また大宣教命令は異邦人の地が意識されているわけだが、ガリラヤは「異邦人の地ガリラヤ」と呼ばれている異邦人と接点のある地域である。世界大の宣教を命じる地としてもベストの場所と言えよう。

十一弟子たちは、このガリラヤのどこかの山に登るように命じられた。この時、他の記述を見ると、他の弟子たちもいた可能性が十分にあるが、教会の土台は使徒であるので、メッセージの受け手として十一人がクローズアップされている。17節を見ると、彼らはキリストと出会ったとき、まず礼拝をささげた。「しかし、ある者は疑った」とある。つまり、肉体をもった本物のキリストかどうか、まだ疑う者もいたということ。この記述に戸惑う人がいるが、聖書は都合の悪いことを削除したり、手を加えたりしていない。透き通るほど正直である。この小さな記述は、著者マタイの正直さ、誠実さを表わしているとともに、聖書の誠実さを証している。また聖書は神の完全さとともに、人間の不完全さ、弱さ、罪深さ、何度言われてもわからない愚かさを正直に、時にはえぐるように描いている。それが聖書である。

18節をご覧ください。キリストは命令を与えられる前に、前置きとして、ご自分の偉大な権威を語られる。キリストの権威は絶対的で絶大なるものである。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」。ユダヤ人は厳密な意味で宇宙を表わす単語をもっていなかった。それを「天と地」という両極端な対句で表わした。つまり、キリストは宇宙を統べ治める権威、すべての世界に行きわたる権威をもっておられるということであり、それが「いっさいの」という形容詞で強調されている。「いっさいの」ということばは、「すべての」という意味のことばである。キリストの権威はすべての領域に行きわたっている。著者マタイは、この福音書の中で、キリストの病に対する権威、悪霊に対する権威、自然界に対する権威、罪に対する権威、死に対する権威を紹介してきた。ペテロもヨハネもキリストの絶大な権威について、新約聖書で教えている。

キリストがここでご自身の権威を示す理由は二つ挙げられる。一つは、弟子たちに対して、わたしの権威に服従せよ、ということである。キリストが私たちの主人、王、将軍、司令官。キリストの権威への服従はオプションなしである。選択の余地はない。交渉の余地はない。服従しかないのである。それは絶対的義務なのである。主の命令には何がなんでも従わなければならないということである。

キリストがご自身の権威を示す二つ目は、小心な弟子たちを勇気づけるためである。キリストがこの後に下す命令は、成し遂げるには全く不可能にも思われる命令である。それは想像もつかない、考えられないような地球大の大きな仕事である。弟子たちは無力で力はない。それを自覚している。だから弟子たちには主の力を必要としていた。原語で「権威」<エクスーシア>は、文字通り「力」を意味することばである。キリストの力は不可能という山をも動かす。私たちはキリストの力に拠り頼むことが許されている。キリストの御名によって祈る意味もここにある。

次に、キリストの命令について見てみよう(19節,20節前半)。二つの文章になっているが、原文では一つの文章になっている。主動詞は一つだけで「弟子としなさい」がそれである。「あなたがたは行って」の「行って」は「弟子としなさい」と対等な分詞である。「バプテスマを授け」と「教えなさい」は、「弟子としなさい」を説明する分詞である。よって「弟子としなさい」という命令が中心であることがわかる。さて、「弟子」とは新約聖書において誰を意味するだろうか。それは、ズバリ、「イエス・キリストを信じ受入れ、従っている人」である。28章では最初に7節で「弟子」ということばが登場する。ここで具体的に意識されているのは頼りのないペテロたち。でも弟子と呼ばれている。彼らはガリラヤ湖畔で「わたしについて来なさい」というキリストの御声に従った。途中、こけたり、倒れそうになったり、よろめいたり、道を踏み外しそうになりながらも、とにかくキリストについて行っている人たちが弟子である。27章57節を見ていただくと、アリマタヤのヨセフも「弟子」と呼ばれている。彼らは失敗や臆病さがあっても、キリストについていくことを願っていた。

弟子としてのしるしは「バプテスマ」である。バプテスマは、キリストについていきますというキリストの弟子のしるしである。バプテスマはキリストの死と復活と一つにされたことを象徴化しており、キリストの弟子のしるしとしてふさわしい。だがバプテスマは成長した弟子のしるしではなく、弟子のスタートラインに立ったことのしるしにすぎない。私は大学二年の時、バプテスマを受ける前、「自分のような者がバプテスマを受けるにはふさわしくない」と、アパートの一室でずいぶん悩んだことを思い出す。でもバプテスマは、高徳な人物として認められましたという資格認定書ではない。そうではなく、イエスは神の救い主キリストですと告白し、キリストについてきたいと願う者は誰でも授かることができる。キリストご自身もそのことを願って、私たちの模範となるべく、公生涯が始まる前にバプテスマを受けられた。このバプテスマについて付言しておくと、「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」とあるが、父なる神、子なる神キリスト、聖霊なる神、しかし複数の神とはならない。「御名」が複数ではなく、単数となっている。単数で受けている。ここが三位一体の根拠の一つである。神は三人ではなく一人の神だが、三つの位格をもつ。三つだが一つ、一つだが三つ。三位一体である。

弟子が弟子として生き、成長するには教えを受けなければならない(20節前半)。弟子は生涯、学ぶ姿勢が必要である。それは自らも福音を宣べ伝え、弟子を再生産していくためにも欠かせない。すなわち、弟子は学びつつ、教える側にも立っていく。以前、諸教会が集まった大会で、私がひとつの小グループを導いていたときに、一人の60歳手前のご婦人が抱負を述べてくださった。「福音を伝えようとするとき、対象者にはいろんなタイプの人がいる。いろいろ言ってくる人たちがいる。それらの人たちに福音を的確に伝える者となりたい。だから、もっと福音を理解し、学び続けたい。そうして、自分が置かれている地域のあの人この人たちに福音を伝えていきたい。自分の置かれている地域に福音を伝えていきたい」。この婦人のことばが弟子としてのあり方を物語っている。教える内容、学ぶ内容は、「わたしがあなたに命じておいたすべてのこと」である。まずクリスチャンの信仰生活の基本であるデボーションにおいて、「すべて」と言われているので、偏食はやめ、読み飛ばす書があるとか、今日は読まなかったとか、そういうことはないようにしよう。また、そそくさとお茶漬けをかきこむような読み方はやめよう。必ず教えられたことを心に落としてから聖書を閉じるということ。今、何読んだっけとか、特に何も心に留まらないまま聖書を閉じることがないように。また教えられたことを祈るということを忘れないようにしよう。

次に弟子への中心的命令に目を落とそう。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(19節前半)。これが弟子への中心的命令である。この命令に従った方々がいたので、私たちにも福音が届いた。「あらゆる国」の「あらゆる」は「すべての」という意味のことばである。十一弟子たちはこの命令に従い、国外まで出て行く。救われて弟子となった者たちはさらに東へ。このようにして福音は拡大していき、すべての国民、民族に向けられていった。日本にも福音は届けられたが、現在、日本は世界最大の未伝地と言われるほど、信じる人は少ない。私たちには伝える責任がある。

ここで「弟子としなさい」と対等な「行って」という分詞に注目したい。マルコの福音書では、16章15節に「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と大宣教命令がある。マルコの福音書の「全世界に出て行き」の「出て行き」と「あなたがたは行って」の「行って」とは原語は全く同じ<エルコマイ>である。だから、「あなたがたは行って」は、マルコの福音書と同じく、「あなたがたは出て行って」と訳すことができる。なぜ、これを強調するかと言うと、近代は人間の我執と言おうか、自己中心の性質で、自分に閉じこもる傾向にあるということ。古代と違って、マンションでも一戸建てでも、厚い壁で仕切られ、場合によってはコンクリートで仕切られ、カギがしっかりかかる頑丈なドアがしつけられ、その空間の中に閉じこもり、他者と自分の世界をはっきり切り分け、隣の人は誰なのかも分からない生活になってきている。交わりは希薄で互いに干渉し合わないことが暗黙の了解としてある。これは一つの象徴で、他者と遮断して自分の内に閉じこもる、これが近代のあり方である。自我に固執し、閉じこもり、他者を締め出す。けれども聖書が教える隣人愛は出て行く。私の知人が、このように述べている。「信仰も希望も愛も、自分から出て行かなければなりません。出て行ったら出会う他者はどこにもいます。そして責任も出てきます。できることはわずかなことでも、引き受けていかなければなりません。家の外には、自分の世界の外には、神の愛を少しでも分け与える人が待っているからです。」福音を伝えるとは神の愛を分け与えることに他ならない。「主は、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(第二ペテロ3章10節)とある通りである。だから自分の世界の外に出て行って他者と関わり、福音を伝えたい。出て行くことが好きか嫌いかの問題ではない。

また健康の問題を抱えているということも、大宣教命令を無視する理由にはならない。韓国でクリスチャンもノンクリスチャンも知らない人はいないという牧師に、ハン・ヨンジョン牧師がいる。この先生は肝臓ガンの手術を6回受け、高血圧、動脈硬化で心臓の手術もし、週三回も透析の治療を受けていた。頭のてっぺんから足のつま先までまともなところはなく「動く総合病院」と言われていたそうである。にもかかわらず、国内だけではなく、日本のためにも涙を流し、日本宣教のために取り組んでくださった。その先生がこう語っている。「私たちはキリストを証するために、この世に残っているのである。私たちがこの世でいのちを延ばして生きている唯一の目標は、キリストを伝えるためである。私たちはすでに救われているので、この世に長く生きている理由がない。死ぬほうがもっとよい。しかし、神さまが私たちをこの地に残しておられる理由は、大宣教命令を成就するためである。病んでいようと健康であろうと、金持ちであろうと貧しかろうと、力があろうとなかろうと、私たちは宣教のために存在するのである」。このことばに苦言を呈する理由はどこにもない。また、この先生は「教会のビジョンは失われたたましいを捜すことである」とビジョンの焦点をはっきりさせている。このビジョンにおいて自分たちの生活を形づくっていきたいと思う。エネルギーも時間も物質も焦点をはっきりさせて用いていくといことである。

最初のほうで、大宣教命令はサンドイッチ構造になっていることをお話したが、先ずは18節で、ご自身の偉大な権威について語られ、励ましを与え、そして命令の後に、励ましとなる約束のことばを語られている。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(20節後半)。これは臨在の約束である。はじめの「見よ」とは、重要な事柄に対して注意を喚起する呼びかけである。重要な事柄が次に続く。原文では「わたしは」が強調されている。それを汲んで訳すと、「わたしは、わたし自身、あなたがたとともにいます」となる。その「わたし」とはキリスト。すばらしい約束である。しかも、それだけではなく、「世の終わりまで、いつも」と約束されている。「世の終わりまで」とは、マタイ24章14節が良い答えになっている。「世の終わりまで」とは、「御国の福音が全世界に宣べ伝えられて、すべての国民に証される時まで」となろう。このように、世の終わりの到来は、福音宣教と密接な関係にある。その福音宣教は教会が担っているわけである。教会が歴史の命運を握っているとも言える。教会はこの世から見れば弱小の、あってもなくてもいいような組織にしか見えない。しかし、世の終わりがいつ訪れるかのカギを握っている存在が教会というわけである。人々の救いや世の終わりは教会にかかっている。弟子である私たちは、大勢の中の一人のどうでもいい存在ということにはならない。大切な使命、責任を担っているということである。大臣や国会議員よりも重要なキーパーソンということになる。キリストの弟子とはそういう存在。ですが、キリストはここでプレッシャーをかけるために話しているのではなく、大切な使命を担っている私たちを励ますためである。

「いつも」ということばに注目しよう。直訳は「すべての日々」である。大宣教命令は「すべて」ということばが多用されている。「すべての権威」「すべての国の人々」「すべてのことを守るように」「すべての日々」。「すべての日々」とは、その人の生涯の全部の日々ということになる。今日はおられなかったということはない。もっと正確に言うと、「イエスさまは急用が入ったようで、1時間留守になってしまう。今から1時間はともにおられない」ということにならない。イエスさまは今は聖霊を通して、いつでも私たちとともにおられる。この最後の約束は、「弱さや困難を覚えながらも福音を伝えるあなたがたともにいる」という弟子への励ましの約束である。旧約聖書で「わたしがあなたとともにいる」ということばの用法を調べるときに、神さまがその人にご自身の働きをまかせる文脈の中で使われていることがわかる。弟子たちは臨在信仰をもって、神さまの働きに携わるということである。私たちの場合、主キリストの臨在をいつも覚えて主に仕えて行くということである。車に乗っている時も、立ち働いている時も、人を訪ねる時も、人と話している時も、いつでも、である。

最後に、大宣教命令に従うことへの必要性をあらためてお話して終わりたい。テレビのドキュメンタリー番組でチベットの少数民族を紹介していたのを見たことがある。チベットでは独特なチベット仏教が信奉されている。オカルト的な神々が信仰の対象となっている。ある父親が毎日祈りを欠かさないことを話していた。彼曰く、「お祈りしていれば、災害で死んでも地獄に行くことはない」。人々は、まことの神を、まことの救いの道を知らない。架空の神々が永遠のいのちを保障してくれるだろうか。大勢の人が霊的詐欺に遭っている。まことの神はまことの人となり、私たち罪人の身代わりとして十字架にかかり、罪の贖いを成し遂げ、死よりよみがえってくださった。このイエス・キリストの福音だけが人々を救う。私たちは愛の実践として、この真正な福音を伝えることに心を砕いていこう。