来週よりエペソ人への手紙の講解メッセージがスタートする。著者は使徒パウロである。今日は、使徒パウロが多用している一つのことばを主題としてお話させていただきたい。それは「恵み」である。一般的に、恵みの種類は自然界にあるもの、衣食住に関するもの、健康、家族といったことが挙げられる。よくよく考えて見ると、毎日が、いや一瞬一瞬が恵みの連続である。すなわち、神の恵みなしには一瞬たりとも生きていくことはできない私たち。それがわかると、神に対する感謝が生まれる。朝起きることができた感謝。ごはんと味噌汁を感謝。排便できた感謝。今日の仕事が守られ感謝。実は当たり前に思われているすべてのことが恵みである。

小学生の時に読んだ漫画で忘れられないものがある。地球環境が悪化して野菜などの食糧がとれなくなる。大根などの一般的な野菜も手に入らなくなってしまった。大根一本が100万円ぐらいの値段になってしまう。ある娘の母親が病床で、死ぬまでに一度でいいから大根を食べたいと言い出す。娘は母親のためにと大根探しの旅に出て、大根を血眼になって探す。地上は荒れ果て、大根などありそうもない。しかし彼女は大根を探しだす。彼女は泥だらけの姿で大根一本を握り、「こんな話あるわけないよね」とつぶやく。この話を読んで、農家に生まれた私は、実は大根一本もありがたいんだと思った記憶がある。大根も、水も空気もすべてが神の恵みである。私たちは生活の一コマ一コマに神の恵みを見ていきたい。

神の恵みは良い人にも悪い人にもある。「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」(マタイ5章45節)。誰でも神の恵みを受けている。それに気づかないだけ。実は、私たちは自分は神の恵みを受けて当然だと思ってはならない。当然だという思いは神の恵みを恵みとしていない姿勢である。私たちは罪人である。何度もみことばや人を介して忠告を受けても罪を犯してしまい、まっすぐ道を歩むことができない。けれども神はそんな私たちを見捨てず、私たちに対して限りない愛と忍耐とを持って養い接してくださる。恵みとは言いかえると、それを受けるのに値しない者に対して与えられる神の好意である。それは神の愛の同義語と言ってよい。

恵みというものは決して好ましいものばかりとは限らない。神さまは私たちを困らせる人、ネチネチと接してくる人、忍耐を要する人、そういう人たちをあえて身近に置かれることによって、私たちを訓練される。アブラハム、ダビデ、ネヘミヤ、その他の聖徒たちもみなそうだった。そのことを通して、私たちは自分がまだ未熟で、自分の心のうちに不純物があることを知って、神に拠り頼むようになる。悔い改めることを教えられる。またヘブル人への手紙には「主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」(12章6節)とあり、好ましくない様々な環境を神が許されることを知る。というよりも、神は私たちを温室には置かない。私たちは、自分の嫌な環境も恵みだと受け取るようにならなければならない。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩編119篇71節)。

逆を述べると、私たちは、自分が好ましいと感ずるものを、安易に恵みだなどと受け取ってはならない。それは自分の欲望を満たすただの誘惑かもしれない。ハエに関して、このような物語がある。倉庫の中に蜜が入れられていたそうである。するとハエの群が嗅ぎつけて集まって来た。蜜があんまり甘いのでハエの群は食べることをやめず、とうとう体中に蜜がべっとりついて飛べなくなってしまった。一匹のハエがこう言った。「おれたちはあわれな者たちだ。小さな快楽のために命を落とさなければならないのだ」。同じような現実が人間界にある。

アメリカの荒野にはガラガラ蛇が住んでいる。この蛇の毒は猛毒で、もし噛まれたら致命的だそう。このガラガラ蛇がリスを捕まえる方法は変わっている。まず蛇はしっぽを振ってガラガラという音を出す。木の上にいたリスは、ガラガラという音を聞いて、好奇心から音のする方を見てしまう。その時、蛇の視線とリスの視線が交わる。リスは蛇に見つめられてブルブル震え、硬直して、重心を崩して木から落ちてしまう。その下には蛇の口がある。リスは蛇の口の中に落ちてしまう。人は自らの好奇心から誘惑に負け、その対象から目を離せなくなり、引き寄せられて罪の罠に落ち込んでいく。恵みというものはこれと違い、人間を死や滅びに至らしめるものではない。反対にそこから救い出すのが恵みである。今日のみことばエペソ2章5節を見ると、恵みとは、死、滅びに至らしめるものではなく、逆に、死からいのちへ移すものであることがわかる。「罪過の中に死んでいた・・・生かし」。これが恵みの性質である。それは破壊的なものではなく、いのちの恵みであり、創造的なものである。

今日は、神との関係で忘れてはならない恵みを三つご紹介したいと思っている。第一は、罪の赦しである。1章7節をご覧ください。「この方(キリスト)にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです」。この豊かな恵みを知るために、エペソ2章5節の表現によれば、先ず自分が「罪過の中に死んでいる」ことを認めることからスタートしなければならない。これを素直に認めることができないのが人間である。日本人的な罪を四つ紹介しよう。一つ目は、みんなで犯す罪である。「みんながしていることじゃないか。みんながしてきたことじゃないか。なぜ私だけが悪いのか」。このようにして、自分の罪を平均化し、自分を平均的な普通の人にしてしまう。自分の罪深さを認めることができない。二つ目は、みんなに迷惑をかけない罪。日本人が良く使うセリフは「人様に迷惑をかけないように」。それが罪かどうかということよりも、人に迷惑をかけなければいいという理屈。三つ目は、心の中で犯す罪。これがなぜ日本人的かというと、日本は恥の文化なので、人目を気にして、外側のふるまいに神経を払う。けれども、心の中で犯すむさぼり、姦淫、ねたみ、憎しみという殺人には無頓着である。四つ目は、神々崇拝である。唯一の神、創造主を認めないので、ありとあらゆるものをご利益を与える神として祭る。あるお寺で、コンピューターのエンジニアたちが、使い古したコンピューターのチップの供養を行った時のこと。そこのお寺の住職がこう語った。「チップを崇める心は日本にご利益をもたらす」。ご利益をもたらすなら、その対象は何でもいい。

人類に共通して言えることは、創造主なる唯一の神、聖なる神の存在を忘れると、すべてが許される風潮になるということ。これは現代の風潮でもある。ロシアの文豪、ドストエフスキーは、作中の人物に、「神がいなければすべてが許される」と語らせた。肉欲、欲情、性の倒錯、うそ偽り、争い、核兵器の製造、生命操作、遺伝子工学の乱用に至るまで、歯止めはきかない。罪を裁く聖なる神がいては困るのである。人は罪とは何かわからないでいる。確認しておきたいことは、罪とは唯一の神、創造主、聖なる神の前で、神に対して犯されるものであるということである。また、神と神の基準から逸れてしまうこと、それが罪であるということである。人がどう判断するかではない。神がどう判断されるかである。神の判断はみことばに記されている。神と神のみことばが無視されると、罪は罪とされなくなっていく。神は人間に善悪の判断機能である良心を与えておられるが、それも麻痺していく。けれども、真剣に神と神のみことばに向き合おうとするとき、人はそれくらいのことで悩むことはないと言おうとも、大罪として感じられ、たましいの震え、痛みを感じ、神の前に頭を垂れることしかできなくなる。その時に、キリストが十字架上で流してくださった血潮が有り難いものとして感じられ、罪の赦しが神の豊かな恵みとして受け取ることができる。罪の重荷は消え去り、滅びの恐怖は過ぎ去り、たましいにいやしと平安が与えられる。

第二に、永遠のいのちという恵みである。太宰治の書き残した「人間失格」の終わりの部分に、次のように書かれている。「いまは自分には幸福も不幸もありません。ただ、一切は過ぎて行きます。自分が今まで阿鼻叫喚で生きてきた所謂『人間』の世界において、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。ただ、一切は過ぎて行きます」。彼が生きてきて、たった一つ真理らしく思われたのは、一切は過ぎて行くということ。そして彼は自ら命を断って、自分を過ぎ去らせた。確かに、過ぎ去って行くもの、移り変わって行くもの、消滅するものがある。けれども聖書は「永遠のいのち」という過ぎ去らないものを人間に提示する。太宰治のように絶望の淵に陥ることがないために。ヨハネ3章16節を開こう。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。ここでキリストを信じる者に与えられる永遠のいのちとは、滅びと対極をなすものであることがわかる。

第三に、イエス・キリストという恵みである。それは、このヨハネ3章16節からもわかる。「神は、実に、そのひとり子をお与えになった」と言われているが、一昔前の口語訳では、「お与えになった」は「賜った」と訳されている。まさしくキリストは、神の賜物、恵みである。ここでは「そのひとり子」と呼ばれている。親にとってこの呼び名は、一番大事なもの、一番高価なものを意味している。それを与えたということにおいて、大きな犠牲を払って与えた恵みであるということがわかる。そして、この恵みの本質は永遠のいのちである。「・・・御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」(第一ヨハネ5章20節)。私たちは、何という恵みを受けているのだろうか。永遠のいのちそのものであるキリストとの交わりは永遠に続くのである。

最後に「恵みから恵みへ」ということを語って終わりたい。神からの恵みは誰でも受けている。冒頭で、「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」というみことばを語った。どんな人にも恵みは与えられるという意味で、恵みは無条件に与えられるものと言える。またそれを受けるのに値しないのに与えられるという意味で、無条件である。しかし、ある意味で条件付きでもある。それは次のように言われているからである。ヤコブ4章6節を読もう。「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みをお授けになる』」。ここでの「さらに豊かな恵み」とは、水、空気といった誰でも受ける一般恩寵的な恵み以上の恵み、これまで見た、罪の赦し、永遠のいのち、その他、神の子どもたちに与えられる特別恩寵が意識されていると思われる。それは神の国の恵みと言っていいかもしれない。高ぶれば高ぶるほどこうした恵みは遠ざかる。反対にへりくだればへりくだるほど、神の恵みは増し加わる。へりくだり、神のことばにおののき、神を恐れかしこみ生きる者に恵みは豊かに注がれる。へりくだるとはどういうことなのかは、続く7~10節が説明している。「手を洗いきよめなさい。心を清くしなさい。苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。・・・」。神の前にへりくだろう。この世は自分を高くすることに躍起になっている。誰よりも高くと競い合う。仕事の技術、業績はそれでいいだろう。しかし、神の前にはへりくだるのである。使徒たちはキリストを前にして、この中で誰が一番偉いのかと論じ合っていたことがある。しかし、高くすることは人のすることではなく、神である。私たちの為すことは10節にあるように、「主の御前でへりくだりなさい」を実行することだけである。神の恵みの雨は低いところに流れ、豊かに注がれる。自分で自分を高くする者は恥を見る。自分の力に依存し、自分の何がしかを誇り、罪を罪としない神を恐れない高ぶりから守られるように祈ろう。心低くし、神の恵みを恵みとしたい。神の恵みに感謝する習慣をつけたい。罪に気づいたら神に赦しを求め、悔い改めたい。そして低い心から絶えず主に心を向け、主の御名を呼び求め、主に拠り頼む習慣を身につけていきたい。