新年おめでとうございます。昨年はそれぞれが一喜一憂する様々なことがあったと思いますが、一年間守られ、新しい年を迎えることができました。感謝したいと思います。また、新しい年に、神さまの新しい恵みがあることを覚えて、希望をもって歩みたいと思います。

私たちが新しい年を希望をもって歩むことができるのは、神さまに希望を置くことができるからです。最初に、神さまのすばらしさに心を留めたいと思います。何よりも、神さまは愛のお方であることを疑わずに信じて歩みたいと思います。ここにすべてがかかっていると思っても過言ではありません。エペソ1章5節には、「神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」と、神の永遠の昔からの愛が啓示されているが、少々の試みがあっても、神の愛を疑わないことです。私たちは少しでも自分の意に沿わないことがあると、神は私を愛していないとなってしまう弱さがあります。神さまは私たちに何が最善かご存じです。愛ゆえに訓練もされます。一見、意味のわからないことが起きても、すべては益と変わるのだと信じることです。元旦礼拝の詩編147篇9節で学びましたが、神さまは烏の子一羽にさえ、心を留めてくださっているお方です。

次に、神さまは全知全能のお方であることを覚えましょう。神さまは無限の力と知恵をもっておられます。宇宙の謎の解明に向けて科学者が取り組んでいますが、まだ少しのことしかわかっていません。原子といったミクロの世界についてもまだよくわかっていません。けれども、完全にわかっている方がおられます。天地を造られた神さまです。元旦礼拝の詩編147篇4節では、神さまはすべての星をご存じであることも学びました。神さまには宇宙の果てはもちろんのこと、世界の隅々のことまでご存じです。ひと目に隠れたようなところまで。1ミクロン足りとも、神さまの目が及ばないところはないのです。水深5000メートルの下でうごめく深海生物の動き、地中の暗やみで生きている虫一匹の動きも。そして私たち人間のことも。私のやったこと見ていてくれなかったでしょう、いや見ておられます。私の心の中のつぶやき、うめきは知らないでしょう、いや知っておられます。神さまは私たちの心の奥底でさえ、手に取るようにわかります。ですから私たちは、自分は望みはないと絶望に陥ることはないのです。そして、どうあることが最善なのかを知って、力ある御手で導いてくださいます。私たちの祈りにも答えてくださいます。神さまの御力は、人の行動や心をも動かします。神さまの御力は、イエスさまを死者からよみがららせたことによって、全能の御力であることが証されています。

21世紀を迎えた人類の一番の問題は罪です。人類の歴史は、一つは罪の記録と言っていいでしょう。聖書も「聖なる書」と言いながら、実は、天地創造の記録の創世記1,2章を過ぎれば、後は罪の記録です。創世記4章で、はや、人類最初の殺人事件が記録されています。私は昨年の秋、日韓併合のことが話題になったので、戦時中のことを少し調べてみました。具体的には従軍慰安婦問題のことが話題とされていたわけです。慰安婦の責任の所在は国家が民間企業かとか、賠償は必要か否かとか、女性たちは強制的にさせられたとかか自らの意志でやったとか、認識のずれがいろいろあるわけです。しかし、いずれ、はっきりしていることは、それも罪の記録であるということです。なぜなら、そこで姦淫の罪が行われたという揺るがない事実があるからです。日本兵の慰安婦であったのでは韓国人だけではなく、中国人、タイ人、マレーシア人、オランダ人、その他、多数の民族です。戦争が終わると、不用になった家畜同然の扱いで、捨てられ、その地で死んでいった方々がいたのも事実です。慰安婦を買うのはお金がかかるということで、日本兵たちが村に乗り込んで、人さらいをして、一人の中国の女性を寄ってたかってなぶりものにした日本兵の証言も読んだことがあります。この方は自分が犯したおぞましい罪を、今の家族には話せないとのことでした。気持ちは良く分かります。私は口にするのもためらうこの証言を読んだとき、そこで見ておられた神さまはどう思っておられたのだろうか、と正直思いました。これはほんの一例で、世界各地で戦争の度ごとに、売春、強姦、略奪行為が繰り返されています。もちろん、大人数の殺戮が繰り返されてきました。アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、ロシア問わず、言葉にするのをためらうおぞましい罪の記録で満ちています。そういう私たちも罪人にすぎず、人をうらやんだり、妬んだり、蔑んだり、何もいう資格がないわけですが、そういう私たちでも、世界中の戦争にまつわる罪だけでなく、日常的に世界中で行われている罪を、隠れたところで行われている罪も四六時中見せられていたら、耐えられなくなって気がおかしくなるか、世界を消してしまえ、と思いたくなるはずです。私は時々、神さま、良く耐えておられるな、と思うことがあります。全人類の全時代の罪をつぶさに見ておられるわけですから。神さまの自分に対する忍耐も半端ではないと思うことも良くあります。私は子どもの時、陰険な同級生に対して、死んでしまえ、と良く思っていたものです。そういう自分がとても罪深い存在であることは気づいていなかったわけです。そして自分を善として、人を裁くことにやっきになっていたわけです。人は自分のことは自分が一番よくわかっていると言いながら、実は自分のことが良く見えていません。そして罪を指摘されると、無礼な、と怒り出すわけです。

私はなるほど、と思う文章を読んだことがあります。ある人が通っていた学校に、大嫌いな人がいました。その話しぶり、態度、とにかく気に食わないわけです。卒業後、しばらくして、その我慢のならない嫌なヤツに出会いました。そして、こう話したそうです。「実は、告白しなければならないことがあるんだけど、学校に通っている間、おまえさんのことが大嫌いだったんだ。この紙に書いたのがその理由だよ。」すると、彼はそのメモに書いてある嫌いな理由に目を通してから言いました。「あのねえ。まったく同じ理由で、俺もおまえさんのことが嫌いだったんだ!」。そこで嫌いな理由を書いた本人は、もう一度自分が書いた嫌いな理由を見つめて、相手が自分の鏡だったことにようやく気がつきました。自分のうちにある良くない特性は、実は私たちが忌み嫌う他人のうちにもある特性なのです。それに気づいていないだけなのです。そして、相手を批判することに終始してしまうわけです。

いずれ、私たち人間は罪人です。そして罪人に対する神さまの忍耐は計り知れないものがあります。何百年どころか何千年にもわたり、忍耐し続けておられるわけですから。神さまはすべてを造り、すべてを見ておられるというだけではなく、この世界とそこに住む人間を保持しておられるわけですが、歴史をどこで終わらせるかの権威もお持ちの方です。しかし、その権威を短気になってすぐに行使することはありません。

6節をご覧ください。「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました」。聖書は、神さまは過去に一度、この世に悪が増大した時、洪水を通して、世界を滅ぼされたことがあると証言しています。これはノアの箱舟物語として有名ですが、創世記6章から始まる洪水のことを指しているわけです。世界中に洪水伝説があり、地質学的にも大昔、洪水があったことが言われています。神さまは忍耐深く、怒るのに遅いのですが、半永久的に人間のなすがままにさせておくということはありません。この洪水は今から約6000年前の出来事と推定されています。つまり、世界規模の大洪水があってから、6000年が経過しているわけです。そしてまたもや、悪の目盛りは満ちつつあります。

神のご意志がなければ、今の世も終わりは来ません。終わりが来るということは、科学の世界ではエントロピーの法則で説明します。エントロピーの法則というのは、かたちあるものはやがて壊れるというものです。すべての物質にこの法則は適用されます。この世界は今保たれているようだけれども、やがて終わりは来ます。その理由を、聖書は科学的見地からではなく、神さまのご意志として見ているわけです。なぜ、まだ世の終わりが来ないのか?という問いに対しては、9節が答えています。「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」。「ひとりでも滅びることを望まず」という神さまの愛と忍耐ゆえに、まだ地球は滅びないで保たれているというわけです。

私たち人間がこの神さまの心を知るならば、しなければならないことは三つ出て来ます。人間の罪に焦点が当てられているわけですから、一つは、罪は悔い改めるということです。悔い改めるという理解も、様々ありますが、聖書で悔い改めるとは、神に立ち返るという理解で使われています。だから、それは自分の罪を悲しむでは終わらないのです。神に立ち返る方法を、聖書は、キリストの十字架は私の罪のためであったと信じること、として教えています。なぜキリストは十字架についたのでしょうか。キリスト在世当時の二千年前の人々も、やはり罪を犯していました。暗闇と死の陰に座る人々として描かれています。社会の上層部の人々の心も黒く染まっていました。キリストは真理を説き、病人をいやし、生ける神として愛を表わされましたが、キリストにあらん限りの憎しみ、妬み、殺意、不満といった悪がぶつけられ、それらがキリストに被いかぶさりました。結果、キリストを十字架につけて殺してしまえ、となってしまいました。人間の悪が無実のキリストを殺しました。キリストの十字架は、ようするに殺人の記録です。このキリストの十字架も、愚かな人間の罪の記録の一つに過ぎなかったのでしょうか。いや、違います。神は、この人間の悪行を、救いの手段に変えてしまいました。キリストは十字架の上で、自ら、私たちの罪をすべて負ってくださり、身代わりとなって裁きを受けてくださったのです。ここに完全な神の愛を見ることができます。人間の側では悪の痕跡しかなかったのに、いや悪しかなしえなかったのに、十字架で殺すという最悪の手段を選んでしまったのに、殺人という最も重い罪を犯したのに、神さまはこの十字架で人間の罪の尻拭いをし、愛を表わしてくださったのです。罪の赦しのための十字架です。身代わりの十字架です。この十字架の前に、自らの心をひれ伏させましょう。自分の罪を認め、キリストの十字架は私の罪のためと信じるなら、神に立ち返ることができるのです。その前に、聖書を鏡として、自分の罪ということを知らなければなりません。

二つめは、罪から離れた生き方をするということです。罪を厭う神さまの心を知れば当然です。11節では、「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう」とあります。

三つ目は、悔い改めの福音を伝えるということです。「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」(9節)ゆえに、神さまは今の世界を終わらせず、忍耐をもって保っておられるというのであれば、その神さまの心を汲んで、神さまの心と一つになって、福音を伝えるということです。食糧生産の働きにたずさわることも大事です。日本経済のために働くことも大切です。福祉の働きも大切です。地球環境のために声を上げていくことも大事です。ですが、何に携わろうとも、認識において、福音を伝えるということを優先にすべきだということを教えられます。神さまは、人々が悔い改めるのを待っておられ、恵みの日、救いの日として、今の地球を保ち、歴史の終焉を避けておられるわけですから。新しい年も、人類の悔い改めと救いを待つ神の忍耐のゆえに開かれたのです。地球が回っているから自然と新しい年が来る、そういうことではありません。神さまの忍耐があるのです。神さまの忍耐を無にするような空しい一年とならないようにしたいものです。

さて、福音を信じた者は、最終的にどこに住むのでしょうか。この世界はやがて滅びる日が来るわけですから、この世界ではありません。聖書は信じる者たちが最終的に住む世界を「新しい天と新しい地」と呼んでいます。「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」(13節)。「新しい天と新しい地」とは、現在の天と、現在の地が過ぎ去った後に来る、完成した天の御国のことです。この新しい天と新しい地の描写は、聖書の一番終わりの書であるヨハネの黙示録の最後の区分、21章、22章に詳しく描かれています。聖書は天と地の創造で始まり、新しい天と新しい地の訪れで終わります。聖書は全体として人間の罪の記録に満ちていますけれども、希望の未来を指し示して閉じています。そして罪の記録の真ん中に輝くのがキリストの十字架です。人類の歴史の真ん中に輝くのが十字架とも言えます。キリストは十字架で殺されました。人間の罪の象徴のような十字架。しかし、その十字架が人類の希望となったのです。神はキリストの十字架を通して救いの道を備えてくださいました。新しい年の初め、キリストの十字架に改めて感謝をささげ、神さまの心を我が心として歩んでまいりましょう。