今年、最後の礼拝メッセージは沈黙の美について学ぼう。沈黙は自己主張の時代にあって、無視されがちな徳である。

今日から場面はイエスさまの裁判の場面に入っていく。その裁判は不当なものでしかなかった。イエスさまの裁判は大小取り混ぜて六つの場面に分けることができる。ユダヤ教側での裁判が三つ、ローマ側での裁判が三つ、計六つの裁判である。マタイはすべての裁判を描くことはせず、イエスさまの裁判を整理して三つに分けて描いている。第一は予備的な裁判で、ゲッセマネの園での捕縛の後、夜に大祭司の庭で執り行われた裁判である。それが今日の箇所に記されている。第二は金曜日早朝にユダヤ議会で執り行われたもので、27章1~2節に記されている。第三はローマ総督ピラトの前で行われたもので、27章11~26節にまとめて記されている。

今日の予備的裁判は、非公式で緊急なものであったことはまちがいない。というのは、普通、裁判は日中に行われ、日中に終わらなければならなかったからである。夜に行われることはなかった。また、過越しの祭りの期間中は裁判は禁じられていた。だがその期間に入っていた。以上から、この裁判は緊急性を身に帯びたものであることがわかる。実は、この前に、前大祭司のアンナスの家で裁判があった(ヨハネ18章13~24節)。マタイはアンナスの家での予備の予備的裁判である裁判は割愛している。

時は過越しの祭りの期間ということで、エルサレムには多くの人が集まっていた。エルサレムの人口は当時三万人ぐらいと言われているが、祭りの期間は十万人ぐらいまで膨れ上がっただろう、いやもっと多かったという見方もある。こんな時、群衆の騒動でも起きたら大変である。夜に捕縛し、夜に予備的裁判を済ませるというのも、その辺に意図があるかもしれない。それだけでなく、早く裁判を済ませたったということがある。というのは、過越しのいけにえの準備その他で、忙しい時期であったからである。また、安息日が24時間後ぐらいに迫っていた。安息日はすべてを休まなければならない。その前に終わらせてしまいたいという思惑があった。

59節で裁判を執行する側が「祭司長たちと全議会」と言われているが、「議会」とはサンヘドリンという言い方もされるが、これはユダヤの法廷で、律法学者、パリサイ人、サドカイ人、民の長老等、合計71人で構成されていて、大祭司が議長だった。裁判が行われるときには、議員の定数は通常23人であったと言われる。

この裁判が神の前に全く不当なものであるということは、「イエスを訴える偽証を求めていた」ということばからもわかる。「偽証」というのは大罪として、聖書では厳しく戒められている行為である。偽証をした者は律法によると死刑である。なのに、ここで法廷を構成するメンバーが偽証を求めていたということはどういうことだろうか?また、どんな裁判でも、まず被告の無罪を証明するすべての証拠を提出し、その後で有罪の証拠を提出しなければならなかった。これは公平性を示すための議会が取り決めた規定であった。にもかかわらず、議会側はこの規定を無視した。一方的に有罪の証拠を挙げようとした。しかも、その証拠とは偽証であった。公平性も何もない。最初から死刑と決めて臨んだ裁判。裁判とは言えない。イエスさまを殺すために裁判制度を悪用したにすぎない。またそれは自分たちの殺人の罪を、裁判に則ったというかたちで正当化しようとしたにすぎない。神の律法からすれば、殺害計画を練り、それをたくみに実行しようとした裁判を司る彼らこそが、殺人罪のゆえに全員死刑の身分だった。

60節に、最初に二人の証人が出たことが記されている。「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる』と言いました」。彼は神殿を破壊する危険人物だ、というわけである。この証言はイエスさまがかつて言われたことを曲解したものである(ヨハネ2章19節)。イエスさまは神殿というときに、ご自分のからだのことを言われたわけである。自分は殺されるけれども三日目によみがえるという預言である。この場面でのイエスさまの応答は沈黙である(62節、63節前半)。イエスさまは抗弁しない。反駁しない。沈黙を守られた。イエスさまは、この裁判は全く合法性を欠く裁判であることを知っておられた。不当な訴訟、偽りの証言、公平性ゼロ、全くデタラメで裁判とは言えない裁判、裁判の名を借りての殺人計画、こうした裁判にあって、被告人として答えるのは意味のないことであり、無駄であることを知っておられた。死刑にするために最初から仕組まれた裁判、何を言っても罪に定めようと誘導する。暴力団のアジトで暴力団に囲まれ、脅迫されているのと同じである。もはや裁判ではない。暴力団劇場である。このような場で答える理由はない。不法で塗り固められた状況下でのでたらめな告発に対して、口をつぐんでいるというのは、もっとも理にかなっていることである。

それにしてもこの沈黙は驚異的に感じてしまう。一言ぐらい言い返しても良かったのではないかと。他の視点で考えるならば、それはやはり、すべてをご存じで主権者であられる父なる神に対してゆだねる姿勢があったからと言うことができるのではないだろうか。詩編39編を参考までに見よう。この詩編は沈黙を語る詩編である。そしてこの詩編は、キリストの受難を予告するものとして解釈されてきた歴史がある。ここには、自己弁護、反論はしないで口をつぐむ作者の姿がある(1~2節,7~9節)。彼は自分の善が報いられず、かえって悪評を買い、損ばかりさせられているといった思いがあった。そうした中で、彼は4~6節にあるように、人生のはかなさをを思い、また、人間がちりにすぎない存在であることを思い、望みは主にだけ置こうという信仰に至っている。それゆえ沈黙を守れる。もちろん、口で罪を犯してはいけないという思いがあった。私たちは売り言葉に買い言葉で、冷静さを失って、感情的になって言い返したくなってしまう場面がある。怒りを口に出してしまう。けれども、言葉を飲んで、神にゆだねるのである。神はすべてをご存じで、正しいさばきをしてくださると。その良き模範がイエスさまであろう。偽証に反論しないイエスさま、不実なたくらみに対して沈黙を守るイエスさま。この姿に私たちも習わなければならない場面が訪れるかもしれない。信仰は沈黙を課するときがある。苦しければ、言いたいことは祈りのうちに神に訴え、吐き出せばいい。そしてゆだねるのである。詩編の作者がそうしている。

ではマタイ26章に戻ろう。ユダヤ議会としては、口をつぐんでいられると、言葉尻をつかまえることができないので、いやだった。何でもいいから口を開いてほしかった。口を開いてくれたら思う壺。言葉尻をつかまえて攻撃の材料を見つけられるから。しかし、全く口を開いてくれない。彼らはいらだったであろう。そして、何とか口を開かせようとして奥の手に出た。

大祭司自ら、決定的な質問をした。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい」(63節後半)。当時、裁判を受けている被告に対して、有罪に定める質問を発し、その答えを強要することは禁じられていた。だから、イエスさまはこの時、黙秘権を行使することができた。しかし、この質問の内容というものは、答えを回避できない種類のもであった。イエスさまがここで「ちがう」と言うことができるだろうか。できない。では黙っていれば良かったのではないかと思うかもしれない。しかし、この問いは、裁判の席であるかどうかに関係なく、受け流すことができない種類のものである。イエスさまは真実を告げなければならない。「あなたの言うとおりです」(64節前半)。この答えが死刑の判決を呼び込むことになった。「主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない」(レビ24章16節)。しかし、イエスさまの答えは主への冒涜ではない。イエスさまは主なる神ご自身なわけだから。ただイエスさまは真実を告げただけである。私たちもまた非難の嵐が吹く中で、あらぬ誹謗中傷の中で、主にゆだねて沈黙を守る時が来るだろう。しかし、「あなたは天地を造られた神を信じていますか?イエス・キリストを信じていますか?クリスチャンですか?」という問いに対して黙っているなら、それは不信仰にしかすぎない。証し人の姿勢ではない。自己主張のためには口を開き、キリストを証しなければならない場面で沈黙する、というアベコベは避けたい。黙る時、口を開く時がある。「黙っているのに時があり、話しをするのに時がある」(伝道者の書3章7節)。

沈黙していた後のイエスさまの答えはこれだけに終わらない。「なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたが見ることになります」。「人の子」というのもメシヤの称号としてユダヤ人の間で知られていたもので、イエスさまは明らかに、ダニエル7章13,14節に啓示されている終わりの日に登場するメシヤをご自分に当てはめておられる(ダニエル7章13,14節)。このメシヤが全世界を裁くお方として描かれている。この箇所は一般にキリスト再臨の預言と言われている。実に、今、議会のメンバーは、全世界の裁き主を裁くという愚かなことをしている。イエスさまはここで、今あなたがたがわたしを裁き死刑に定めようとしているが、やがてわたしはあなたがたを裁く、と断言しているようなもの。痛快な一言である。イエスさまは威風堂々とこの言葉を語られたであろう。

大祭司は自分の衣を引き裂き、神への冒涜だと決めつけ、議会のメンバーたちははらわたを煮えくり返させながら死刑の判決を下し、死刑の予備審判を終える(65,66節)。そして、イエスさまの顔につばきをかけ、また頬を打った(67,68節)。こうした行為は旧約時代、預言者たちに対してユダヤ人が行った愚かな行為であった。

この時、彼らは、イエスさまを神を冒涜する偽メシヤとしてだけでなく、偽預言者とみなしていた可能性もある。68節の「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのは誰か」であるが、実は多くの訳は「当ててみろ」を、「おれたちに預言してみろ」と訳している。「当てる」と訳されている言葉は、「預言者として言い当てる」という特別な意味も持っている。偽預言者に対する判決も律法によれば死刑であった(申命記18章20節)。しかし、イエスさまは、偽預言者ではなく、真の預言者でもあった。かつて主はモーセに言われた。「わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう」(申命記18章18節)。その預言者とはキリストのことを指す。いずれ、侮辱行為が続いた。イエスさまはこの侮辱行為の間も口を開かなかったであろう。

イエスさまの沈黙は過ぎたものだと私たちは思うかもしれない。しかし、過ぎた自己主張を現代人は繰り返していないだろうか。ちょっとでも気に入らないことがあると声を大にして訴える。そこまでいかなくとも、私の権利、私が、私に、私を、私が鳴りやまない。私のプライドが許さないとなる。口を開かなければならない場合でも、言うべきことを言ったら沈黙を守るということのほうが賢い選択の場合が多い。

最後にキリスト預言である、イザヤ53章7節を読んで終わろう。

 

彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。

ほふり場に引かれていく羊のように、

毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

 

「口を開かない」ことが二度繰り返されている。イエスさまが沈黙をつらぬく理由についてはさきほど見た。第一に、ヤクザのおどしと同じような裁判とは言えない不当な裁判で口を開く理由はないこと。第二に、すべてをご存じで公正に裁いてくださる父なる神にゆだねる姿勢があったこと。もう一つ挙げるならば、私たちの罪のためにいけにえの子羊となる覚悟があったから、ということを挙げることができるだろう。死にたくないと言ってジタバタしない。自分は世の罪を取り除く神の子羊として十字架の上でいのちを献げるのだと、その覚悟ができていた。イエスさまは強い意志と覚悟とをもって十字架に向かっていかれる。ジタバタしない。従順に父なる神の御旨に従おうとされたのである。全人類の罪の身代わりになろうと揺るがない意志をもっておられたのである。私たちの罪のために、ここまでの姿勢で十字架に向かっていかれたイエスさまに感謝をささげよう。またイエスさまに倣い、黙する時、口を開く時をわきまえよう。私たちはことばで失敗しやすい者たちである。主のために口を閉じ、主のために口を開くことを心がけよう。