ルカ2書1~7節

皆様はクリスマスと聞くと、何をイメージするだろうか。私は年を取ってきたせいもあって、イメージするものが変わってきて、最初になぜか干し草をイメージする。ちょっと枯れたイメージである。今日は世界最初のクリスマスに心を寄せて、キリストが卑しい姿で来てくださった事実から、感謝と賛美をささげたい。

クリスマスはキリストの誕生を祝うことが習慣化したものであるが、さて、キリストの誕生はいつどこでだったのだろうか。1~2節によれば、住民登録をせよとの勅令が皇帝アウグストから出たことが記されている。「皇帝アウグスト」は当時の世界の支配者として名高かったローマ皇帝オクタビアヌスのことである。「アウグスト」とは個人名ではなく称号で、「尊厳者」といった意味がある。彼が皇帝を務めたのは紀元前27年から死亡する紀元14年までである。この間にキリストは誕生したことになる。他の福音書から総合して、キリストは紀元前4年頃に誕生したと思われる。大切なポイントは、皇帝アウグストの時代ということである。なぜかというなら、皇帝アウグストは当時にあって有名な人物で、人間にすぎないのに「全世界の救い主」とあがめられていた人物。そして亡くなった時は、文字通り神として葬られた。このように、ちりにすぎない人間が神としてあがめられ、全世界の救い主とされていた時代に、神が人間となって、しかも赤ちゃんの姿で来られたというのがクリスマスである。全く対照的である。人間の傲慢と神のへりくだりというコントラストが見られる。お生れになる方は「イエス」という名前がつけられる。当時は姓はないので名前だけ。「イエス」という名前は、当時にあってベストテンに入る人気のある名前であった。「マリヤ」と「ヨセフ」もベスト1~2位を競う平凡な名前である。「キリスト」は個人名でも、姓でもなく、「救い主」を意味する称号である。今、誰も皇帝アウグストを救い主と呼ぶ者はいない。アウグストの呼び名さえ知らない人がほとんどである。しかし、今や、主イエスは全世界の救い主としてその誕生を祝われている。

住民登録は一定の間隔で行われてきたが、実施の意図は、徴税とか兵役のためであった。そのためにヨセフとマリヤは、4節にあるように、ガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムに上っていった。ナザレは本当に田舎町で、聖書以外の文献には上って来ない寒村。ナザレからベツレヘムへは旅をすれば、おおよそ3~4日の距離である(約110キロ)。マリヤは身重であったが、この旅をしなければならなかった。いや、神さまがそうするように導かれた。その大きな理由の一つは、ベツレヘムで救い主がお生まれになるという、旧約聖書の預言が成就するためであった。マタイ2章6節にその預言が記されている。「ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから」(ミカ5章2節参照)。当時ユダヤ人の知識人ならば、誰でもこの預言は知っていた。神さまはすべてのタイミングを導いておられた。すると、神にあって偶然ということばはなくなる。皆さんも偶然の存在ではない。偶然で、今ここ秋田におられるのではない。

神のタイミングで、6節にあるように、ベツレヘムに滞在している時にマリヤは月が満ちて、出産することになる。そして7節から推測できるように、その場所は「宿屋」以外の場所であったようである。しかし、実際出産した場所はどういう場所であったのかわからない。「宿屋」ということばから幾つか推察はできる。現代のホテルに駐車場が隣接しているように、当時の宿屋には家畜小屋が隣接していた。当時の乗り物は馬やロバであったわけである。家畜小屋は人間も泊まれるような場所であった。そこで出産という可能性もあるだろう。新約聖書で「宿屋」と訳されていることばには二種類ある。一つは<パンドケイオン>。「良きサマリヤ人のたとえ」で知られているルカ10章34節に登場する。「近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて<宿屋>に連れて行き、介抱してやった」)。<パンドケイオン>は商業的旅館を意味する原語である。しかし2章7節で「宿屋」と訳されている原語を観察すると、商業的旅館を意味する原語<パンドケイオン>が使われていない。この箇所では、荷物を降ろして休む程度の空間を意味する原語<カタルマ>が使われている。<カタルマ>は商業的旅館、ホテルを意味しない。これをどう受け取るのか。急ごしらえの宿泊所で、体育館で雑魚寝するような建物と受け取ることができるかもしれない。そこで産気づいたら、どこかに移るしかない。7節で「宿屋には泊まれなかった」と書いてはなく、「宿屋には彼らのいる場所がなかった」と書いてある。このことから推察すると、産気づいたマリヤが子どもを産み落とせるような場所ではなかったということも考えられる。一つの空間に、大人数。そんな場所で出産できない。そこで家畜小屋に移ったと。良くクリスマス劇で、宿屋の主人に「もう満杯だよ」と追い出されるような場面があるが、それとは事情が違っていたのかもしれない。また<カタルマ>は「客間」と訳せることばである。実際、ルカ22章11節では<カタルマ>が「客間」と訳されている。「過越しの食事をする<客間>はどこか」。普通の民家には客間があった。客間がしつらえた当時の中東の典型的な家は、平屋で、三つのスペースに分かれており、客間の隣が家族用居間。居間の端には床を掘って作られた飼い葉桶があり、その隣が屋内畜舎となっている。客間、飼い葉桶が端にある居間、畜舎の三区分。もし、このような家に泊まろうとしたとすると、客間は満員で居る場所がなく、居間の方に泊まらせてもらって出産し、飼い葉桶に寝かせたたことも考えられる。また客間にいたけれども、産気づいたので、居間か畜舎で出産させていただいたことも考えられる。さらに有力視されている説がある。二世紀に活躍したユスティノスという人物による伝承。主イエスは家畜避難用の洞窟、洞窟の家畜小屋で誕生したという説。他の古文書にも記されている。この可能性も否定はできない。いずれ、はっきりしていることは、キリストは「宿屋」でも「客間」でも生まれなかったということである。そして「飼い葉桶」に寝かせられたということである。当時の飼い葉桶は、石作りのものが多かったとも言われている。その上に干し草を敷いた。

この誕生物語からわかることは、キリストは卑しくなって来てくださったということである。私たちと同じ、食べないと疲れ、寝ないと疲れる肉体をまとって来てくださった。壊れやすく、傷つきやすく、もろい肉体をとって来てくださった。そればかりか踏めばつぶれてしまいような赤子の姿で来てくださった。卑しさはその姿ばかりではなく、生まれた場所も。飼い葉桶ということばがそれを象徴している。この卑しさは、十字架刑という下降する階段の最初のステップだった。キリストはこれからさらに卑しく、低くされていく。重罪人とされ、ゴミ人間の死に場所を選択される。そしてよみの世界にまで下る。すべては、私たち罪人の身代わりとなるためだった。

ルカ2章8~20節

場面は野原に移る。8節にあるように、羊飼いたちが野宿で夜番をしながら、羊の群れを見守っていた。羊飼いたちは下級の階層に属していて、卑しめられていた。神の良い知らせは、まず貧しい者に告げ知らされるという性質がある。キリスト誕生の知らせは皇帝アウグストにも、当時のユダヤの王にも告げ知らされない。下級階層の代表として羊飼いたちに告げ知らされた。その様子が9節以降に記されている。闇夜に閃光が走った。御使いが視野に入った。何の予告もない出来事に、羊飼いたちは相当恐れただろう。10~12節を改めて読もう。10節で言われているように、クリスマスの知らせは、すばらしい喜びの知らせなのである。クリスマスは悲しむ時ではなく、喜ぶ時なのである。何を?救い主キリストの誕生を。その喜びを御使いたちが先取りして、13~14節にあるように、賛美の大合唱を天で披露する。クリスマスの讃美歌の幾つかの歌詞は、この御使いたちの賛美に基づいている(福音讃美歌89番等)。御使いの願いは神がほめたたえられること、そしてみこころにかなう人々に平和があること。聖書の世界で「平和」とは、静かでおだやかな状態を意味するよりも、神さまに救われて、罪の赦しや永遠のいのちといった豊かな祝福にあずかることを意味している。まさしくそれは、キリストを救い主と信じる者に与えられる祝福である。

羊飼いたちは、この後、飼い葉桶に寝ておられるみどりごを捜しに出かける。やはり、ここで神さまの配慮を見る。もしキリストが宮殿におられたら・・・総督の邸宅や富裕な商人の客間におられたら・・・「不潔な羊飼いたち、とっととうせろ!」で終わってしまっていただろう。神さまは身分の卑しい羊飼いたちが会える場所を備えてくださっていた。そこは、普通の農家様式の家だったのか洞窟の家畜小屋であったのかわからないが、いずれであっても羊飼いたちが出入りできた場所であった。彼らは自分たちの身分を忘れて、救い主に出会い、その安らかな顔に感動を覚えただろう。神さまご自身が彼らを歓迎してくださったのである。ほほえましい場面である。羊飼いたちのことで付け加えれば、彼らは身分において卑しかった、貧しかったというだけではなく、心において貧しかっただろう。つまり、へりくだっていたということである。後に主イエスは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちの者だから」(マタイ5章3節)と民衆に語られることになる。クリスマスにふさわしいのは、そのようなへりくだった心である。傲慢はふさわしくない。

羊飼いたちは無事、捜し当てると、20節にあるように、神をあがめ、賛美しながら帰って行く。御使いによる賛美は、人間による賛美へと広がっていった。そして、その賛美は全世界へと広がっていった。そのうねりを作ったのがキリストの十字架と復活である。キリストは十字架刑という卑しさまで下降していった。干し草のベッドではなく、荒削りの十字架がベッドである。犯罪人として死んだ者など賛美できるかと誰しもが思う死だった。しかし、この十字架は、私たちの罪の身代わりの死であったことを人々が知るようになると変わってくる。感謝と賛美が生まれた。キリストは十字架の死後、私たちに罪の赦しと永遠のいのちを保証するために、よみがえられ、人間を飲み込む<罪と死に>勝利された。私たちが神のもとへ立ち返る道を備えてくださった。

今、21世紀を迎え、時代は激変している。タレントのイモトアヤコさんは、それを象徴する事実をこう述べている。「今はアマゾンの奥地の人もアフリカのマサイ族も、テントのようなところで暮らしながらもスマートフォンで写真や動画を撮っている。」私も、それと同じような映像を見て驚いたことがある。「ニューノーマル」ということばが、今、頻繁に使われるようになってきたそうである。「ニューノーマル」は、以前なら考えられなかったようなことが、当たり前のような状態になることを意味するのだそう。過去の常識がくつがえされ、新しい変化が波となって次から次へと起きている。店員のいないコンビニも開店した。これからどう変わっていくのだろうか。しかし、何がどう変わったとしても、人間が人間であることは変わりがない。人間は神に造られたのだから、人間が神を必要とするという現実は変わらない。私たち人間が罪の赦しを必要とするという現実も変わらない。だから、私たちに救い主が必要であるという現実は変わらない。たといスマートフォンは持たなくとも、人間に救い主イエス・キリストは必要である。本当に必要なものを現代人は見失っているのではないだろうか。まこの神を見失い、天の御国から遠ざかっているのではないだろうか。スマートフォンが罪の赦しと永遠のいのちを与えてくれるだろうか。スマートフォンで通信できると言っても、それで神に助けを呼び求めることができるのだろうか。たとい全世界を手に入れても神との関係が損なわれていたらおしまいである。救い主イエス・キリストを心にお迎えし、神の子どもとされ、御国の民とされ、キリストの御名によって祈る、そのような生活に入りたいと思う。皆様の上に、救い主イエス・キリストの恵みと祝福が豊かにありますようお祈りします。