今日は主イエスを逮捕に大ぜいの群衆がやってきたという場面である。同時に、ユダの裏切りと弟子たちの逃亡の場面である。場所はゲッセマネの園。イエスさまはこの時、十字架刑による人類の贖いというみこころに服従する力が与えられるように、ゲッセマネの園で三度の祈りを終えられたところであった(44節)。この祈りなくして恐怖の十字架に向かうことはできなかった。祈りによって十字架に向かう備えができた後、時は満ちた。ユダとともに「大ぜいの群衆」がやってきた(47節)。彼らは何者なのか。彼らはイエスさまの行動にがまんならなくなった衝動的な民衆なのではない。注意深く選ばれたグループだった。それは、「群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった」ということばからもわかる。まず、ここにいたのはルカ22章52節から、「祭司長、宮の守衛長、長老たち」。彼らは神殿警察の機能も兼ね備えていた人たち。このグループは、おそらく「棒」を持っていたと思われる。次にヨハネ18章3節から「ローマの歩兵隊」。そこでは「一隊の兵士」と訳されているが、欄外註を見ると「ローマ軍隊の一単位で通常600人」と説明がある。これは千人隊長が指揮する歩兵隊のことで、数百人単位であることが考えられる。おそらくユダヤ当局は総督ピラトに話をつけてローマ兵の出兵を依頼したものと思われる。ローマの歩兵隊は「剣」を携帯していた。

彼らの捕縛は不法であり、卑怯きわまりないものであった。彼らはねたみやひがみや悪意から、形だけ正義の衣を羽織って、逮捕に来た。しかも騒動にならないように周到な計画を練って。逮捕に訪れたのは、ユダヤ当局のリーダーたちばかりではなく、神殿警察、軍隊、その数は総勢数百人。その手には剣や棒。そこに来て、イエスさまが孤立する時間帯と場所をねらって。彼らは臆病と言えるかもしれない。それは彼らの用意周到さの裏返し。イエスさまは彼らが臆病なやからであることは見抜いている。彼らは、イエスさまがどんな奇跡を起こすかわからないと恐れていたのかもしれない。イエスさまは逃げも隠れもしない。

大ぜいの群衆を先導していたのがユダであった(47節)。「十二弟子のひとり」と抑制を効かせた表現で紹介されている。ユダは最後の晩餐の席で、イエスさまからパン切れを受け取ると、暗闇の中に消えていった(ヨハネ13章30節)。ユダは祭司長たちのところに向かったのだが、祭司長たちとすでに話はついていた。マタイ26章14~16節を見よ。ユダは前からイエスさまを逮捕する機会を狙っていた。タイミングを計っていた。彼は、ゲッセマネの園が捕まえる場所としてはベストであると、前々から踏んでいたであろう。また夜の時間帯がベストであると踏んでいたであろう。それが実行に移された。ユダは誰を捕縛したらいいのか、口づけがその合図であると決めておいた(48節)。「口づけ」はギリシャ語の<フィレオー>に由来している。それは愛情を意味することばである。古代近東において口づけは、目下の者が目上の者に対して現す「敬意、忠誠」のしるしであった。奴隷は主人などに対して足に口づけした。一般のしもべは主人の手の甲に口づけした。上級のしもべは手の平に口づけすることもあった。また人物の上着の縁(へり)に口づけすることは、「恭しい態度、献身のしるし」であった。しかし抱擁と頬への口づけは、「親密な愛情、慈愛のしるし」であった。これは親しい関係にある者に対してだけとっておいた口づけだった。誰にでもすることではない。これは教師に対して弟子がすることがあった。この口づけを捕縛のサインとするというのは、相当な心ない者でないとできない。偽善行為の最たるもの。しかも三年間寝食をともにし、相当な愛情を注いでいただき、教えをいただき、目をかけてもらってきたユダ。だが、絶対捕縛させるという体制を作って裏切った。

ユダがなぜイエスさまを裏切ったのか、今、そのことを詳しく論じることはしないが、ただヒントになることばに、「彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである」(ヨハネ12章6節)ということばが一つのヒントになる。ユダは、イエスという人物は、俺のむさぼる心を満たしてくれはしない、と途中気づいたことはまちがいない。ユダは当初、イエスによって地位も権力も富も手に入れられると期待していたことはまちがいない。けれども、そうした野心をイエスは遂げさせてくれないと気づいた。

ユダは口づけのときに、「先生。お元気で」と言っている(49節)。この「お元気で」は、口語訳では「いかがですか」、新共同訳では「こんばんは」と訳されている。直訳は「喜びなさい」となる。「ご機嫌うるわしゅう」程度の意味。逮捕させる直前に「ご機嫌うるわしゅう」もへったくれもない。そして歴史上、最悪の口づけをしてしまう。悪魔の口づけである。

このあいさつと口づけに対するイエスさまの応答に目を留めよう(50節)。イエスさまはユダに対して、「裏切り者よ」でも、「犬め」でも何でも良かったと思うが、「友よ」と、この段階になってもユダを十二弟子のひとりとして扱っておられる。イエスさまは、ユダが公けの裏切りの行動に出る直前まで「友よ」と呼ばれたことの愛のすごさを受け取りたい。

この直後、イエスさまは逃げることなく捕えられてしまう。影武者を立てるなどという小細工は最初からするつもりはない。すると、弟子のひとりが無謀な行動に出た(51節)。大祭司のしもべに切りかかる。この無謀な行動に出たのはペテロである(ヨハネ10章10節)。感情をベースに行動してしまうペテロらしい。衝動的に、後先考えずに行動するペテロ。「その耳を切り落とした」とあるが、ペテロは彼の頭部を狙ったのであろう。狙いがはずれ、耳を切り落とす結果となってしまった。イエスさまはこの行動を承認されるはずがない(52節)。教会は剣を使わずに戦う。それが教会の戦いのはずである。「私たちの戦いの武器は、肉のものではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです」(第二コリント10章4節)。イエスさまの目的は神の国の前進。この目的のために肉の武器は何の関係もない。私たちの戦いの武器は霊的なもので、それは神のことばである。私たちの戦いに剣はいらない。私たちの戦いは武力によらない。注意深く見ると、イエスさまはここで、ペテロの行動はこの世の法的にいっても不法であることを告げている。「剣を取る者はみな剣で滅びます」。剣で暴力を働く者は世俗の権威によって刑罰を受けなければならない。「剣」というのは、古代世界にあって死刑執行の手段であった。処刑の道具であった。もし、剣で相手を殺してしまったら、死刑はまぬがれられない。聖書は世俗の権威というものを認めている。「彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです」(ローマ13章4節)。「剣を取る者はみな剣で滅びます」というのは、死刑という法の裁きに言及しているのである。イエスさまがペテロを阻止したのは、どうせ勝ち目はないよということではなく、神の目から見ても剣を振り上げるのは正しいことではない、ということである。ペテロのいのちを奪わんとする行為は、とうてい承認できるものではない。

並行箇所のルカ22章51節を見れば、イエスさまは大祭司のしもべの耳にさわって直された記述がある。「すると、イエスは『やめなさい。それまで』と言われた。そして耳にさわって彼をいやされた」。これは大祭司のしもべへのあわれみと見てとれるが、それだけではない。ペテロの損傷を与えた行為を無効にする効果があった。ペテロへのあわれみである。ペテロの過失は帳消しにされるのである。そもそもイエスさまは弟子たちが捕縛されることを望んではいない。ペテロが剣をふるう前に、イエスさまはこうおっしゃったとヨハネは告げている。「もしわたしを捜しているなら、この人たちはこのまま去らせなさい」(ヨハネ18章8節)。

イエスさまはさらにペテロに語られる(53節)。イエスさまがここで意識されている「十二軍団」とは、ローマの軍団「レギオン」のことである(欄外註を見よ)。一軍団当たり歩兵約6000人。それが「十二軍団よりも多くの御使い」と言われているので、6000×12で、72,000人以上の御使いを配備できるということ。イエスさまを捕縛に来た群衆を600人とした場合でも、600人は数のうちにも入らない。イエスさまからすれば、彼らの用意周到な体制も、吹けば飛ぶゴミのようでしかない。簡単に蹴散らすことができる。でもイエスさまはあえてそうされない。

ペテロが剣をふるうことを制した理由をまとめると、武力、暴力に訴えることはまちがいであるということともに、弟子のペテロにわざわいが及ばないためであり、そして今見たように、そもそもペテロの手を借りるほどのことではないということがあるが、まだ言及していなかった重要な理由がある。一番の理由は54節にあるように、聖書が実現するためである。すなわち、救い主が人間の罪の身代わりとして死ぬという旧約聖書の預言が成就するためである(イザヤ章53章等)。イエスさまは十字架による贖いのみわざを強く意識しておられる。この時のためにイエスさまは来られた。イエスさまは全人類の罪を背負って十字架にかけられるために来られた。今がその時である。全人類の罪を背負って神の御怒りの裁きを受けるというのは耐えがたいほど恐ろしく避けたいことであったが、先週学んだように、イエスさまはゲッセマネの園での三度の祈りによって、その使命を全うする力と霊性が与えられた。ユダヤ当局が捕縛に来たのはこの後だった。彼らは知恵を尽くして、最善の時間帯を狙って捕縛に来たつもりだったが、神がすべてのタイミングを導いておられた。

イエスさまは、最後に捕えにきた群衆に向かって言われる(55,56節)。イエスさまは群衆に向かっても、聖書の預言に言及される。イエスさまの行動の規範は、常に聖書にあったということ、みことばにあったということ。そして、神のご計画を常に意識しておられたということ。またここで心に留めたいのは、イエスさまの毅然とした態度である。この捕縛の場面において、「先生、お元気ですか」と用意周到に主を裏切ることに決めていた、偽善者ユダの口づけする姿がある。そして、今しがた剣を振り上げたかと思えば、あわてふためいて逃げる、ぶざまな弟子たちの姿がある。残りの十一弟子プラス他の弟子たちも逃げ去った模様。さらに、数と権力を笠に着て押し寄せる群衆の姿を見る。数と権力を笠に着なければ戦えない臆病なやからたち。こうした人たちは、主キリストの前では右往左往するアリのようでしかない。彼らがイエスさまを捕えに来た時のことについて、ヨハネはこう告げている。「イエスは彼らに『それはわたしです』と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた」(ヨハネ18章6節)。主イエスは臆病の霊に憑りつかれてはいない。主イエス・キリストは毅然としておられる。威風堂々とした姿で、みことばの実現に向けて進んでいかれた。

私たちも神の前に祈り、威風堂々としていたイエスさまにならい、みこころを行っていこう。ペテロたちはイエスさまといっしょに祈ることに失敗しため、誘惑に負けて、捕えられることを恐れて、イエスさまのもとから離れて行ってしまう。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」(箴言29章25節)とあるが、彼らは恐れに支配されてしまった。祈りの怠りの結果である(40,41節)。もはや、彼らはこの時、霊的試みに打ち勝つ力は持ち合わせていなかった。自分の性質を過信してはならない。新約の時代は祈って聖霊の助けを仰がなければならない。先ほど見たように、ペテロは逃げ去る前に、剣を振り上げて、ちぐはぐな衝動的行動にも出ている。考えてみると、ペテロは常に衝動的に行動しがちだった。それは私たちも同じである。自分の感情をベースに、心のはずみで行動してしまう私たち。私たちは主の計画よりも自分の軽はずみな思いつきを優先してしまう。主の時を待てなくなり、インスタントに事が運ぶのを期待し、主の計画が成就するまでに払わなければならないプロセスや犠牲を飛ばそうとする。目の前の現象、状況、そうしたものに心を奪われ、衝動にかられてみこころを踏み外してしまう。落ち着いて主の御声に聞き、聖霊の助けを求める姿勢が必要である。使徒パウロは弟子のテモテにこう書いている。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」(第二テモテ1章7節)。ペテロたちは、臆病になった。試みに打ち勝つ力はなかった。愛に根ざした行動はできなくなった。慎み、すなわち、自制、セルフコントロールを失った。私たちは自分の弱さを自覚し、祈り、聖霊の助けをいただきつつ、人を恐れるのではなく神を恐れ、力と愛と慎みとをいただいて行動していきたいと思う。