今日の場面で、キリストの死ぬほどの悲しみを見る(38節)。キリストは悲しみの人として知られている。メシヤ預言のイザヤ53章3節にはこうある。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた」。キリストが笑ったという記事は聖書のどこにも記されていない。その代わりにラザロの墓の前で泣いたこと(ヨハネ11章35節)、エルサレムに入城されるとき、その都をご覧になって泣いたこと(ルカ19章41節)記されている。しかし、こうした記事は、キリストがほほえまなかったとか、いつも暗い顔をしていたとかということを意味していないだろう。キリストは御霊に満たされていたとある。御霊の実は「愛、喜び、平安」である。けれども、悲しみが強調されているのは、キリストが私たちの罪のために十字架で命を捨てるために来られたという天命ゆえであろう。

キリストは最後の晩餐の後、弟子たちを連れてオリーブ山に向かった(30節)。その目的は36節にあるゲッセマネの園に行くためである。エルサレムの町は丘の上に建てられ、頂上の平面部分はほとんど建物が立っていたので空地はなく、庭らしいものはどこにもなかった。そこで斜面に庭が作られた。「ゲッセマネ」のことばの意味は「オリーブの桶」という意味なので、キリストが入られた庭は、オリーブ園であっただろう。そこはキリストにとっての祈りの場所であったようである。

キリストにとって十字架にかかるという使命を全うするには祈りなしにはできなかったのである。キリストは神であるけれども、私たちと同じ弱い人間性を身にまとい、脆さを身にまとい、父なる神に服従する困難さを身に覚える身であられた。十字架という最大の試練が待っていた。この最もつらい時に弟子たちに祈りの励ましを求めた。41節に、祈りへの言及で「肉体は弱いのです」と言われている。「肉体」と訳されている原語は<サルクス>で、意味は「肉」である。肉体は神が造ってくださったもので悪いものではない。しかし弱い。ヨハネ1章14節では、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とキリストの受肉を記している。「人」と訳されていることばも<サルクス>である。「ことばは肉となって」である。キリストは肉体という弱さをまとわれた。弱さに負けてしまわないためには、それは打ちたたいても従わせなければならない。疲れた、痛い、眠い、それに負けてしまったら終わりだということ。キリストはこの弱さと戦いながら祈りに入られた。弟子たちは祈ることに失敗した。肉の弱さに勝てなかった。寝てしまった。そして、あなたにどこまでもついていきますという告白に背くことになる。この弟子たちの失敗は私たちと関係がないのではない。失敗した弟子たちは私たちのシンボルとなっている。私たちはゲッセマネの園にいるわけではないけれども、キリストの贖いのミッションは続いている。キリストは今も悲しげに訴えておられる。わたしといっしょに祈ってほしいと。けれども教会は眠ってしまう。しかし、キリストが弟子たちを見限らなかったように、私たちをも見限ることをせず、目を覚まし、本来の使命を果たしてほしいと願っておられる。「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」(41節)

ペテロたちの失敗について見てみよう。ペテロは最初から服従の意志があやふやであったわけではない。ペテロの強い意志、固い決意が先行していた(33,35節)。「たとい何々でも・・・決してつまずきません」「たとい何々でも・・・決して申しません」。かなりの固い意志表明である。けれどもキリストは「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います」(34節)と、すなわち、その口が渇かないうちに、夜明け前に裏切ってしまうことを見越しておられた。数時間後の話である。何というイエスさまの予見であろうか。人間の弱さということを考えるとき、やはり私たちはキリストの警告どおり祈らなければならない。37節から弟子の三羽烏、ペテロとヤコブとヨハネがキリストのそばにいたことがわかるが、40節では、とりわけペテロがきつい叱責を受けている。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか」。霊的試練に打ち勝つには祈りしかない。ペテロたちが裏切ってしまうのは、祈りの失敗に帰せられる。キリストは以前、「みこころがなるように」と教えるとともに、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と祈るようにと弟子たちに教えられた(マタイ6章9~13節「主の祈り」)。そうした真剣な祈りの実践ができなかった。祈りの大切さは、この後、キリストご自身の祈りからも学びたい。

キリストは十字架を前にして、この霊的試練に打ち勝つには祈りしかないことを知っておられた。公生涯に入る時の荒野誘惑以来の最大の誘惑がこの時のしかかっていたと言われる。最初、キリストはひざまずいて祈っておられたようである。「ひざまずいて、こう祈られた」(ルカ22章41節)。けれども心の内で苦悶が広がり、地面にひれ伏して祈られた。「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた」(39節前半)。その苦悶の描写において、こうも言われている。「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた(ルカ22章44節)。実際、汗腺に血がにじんだのではないかとも言われている。精神に極度の負荷がかかると、そのようになるらしく、着ているものも赤く濡れると言われている。決死の祈りであったことが伝わってくる。この時の祈りとされているものをヘブル人への手紙の著者は伝えている。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことができる方に向かって、大きな叫びと涙とをもって祈りと願いとをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました」(ヘブル5章7節)。「大きな叫びと涙とをもって」と、キリストは悲しみと恐怖の中で、天の父に必死に哀願したのである。

キリストの祈りのことばの中心は、「みこころがなるように」である(39,42節)。44節では「もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた」とある。このように三度祈られ、みこころに服従された。別の言い方を取れば、キリストでさえ、みこころに服従するのに、三度の必死の祈りが必要であったということ。ならば、私たちが祈らなくて大丈夫ということがあるだろうか。祈らないクリスチャンとは何であろうか。それは世に敗北するクリスチャンである。みこころに背くことになってしまう。

では、キリストにとってのみこころとは何であったのだろうか。身を切るような痛み、実際、肉体の苦痛を受けるかもしれないけれども、それがどんなものであっても、みこころには従わなければならない。この時、キリストにとって天の父の召しに従うことは、耐えられない苦痛のように感じた。みこころに従うことが苦痛、そう思えることがある。心が引き裂かれ、たましいが押しつぶされるような痛み。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」(38節前半)というキリストのことばを重く受け止めたい。別訳は「わたしのたましいは死ぬほどに悲しい」。その深い悲しみそのものがキリストを殺すもののようであった。その悲しみゆえに、キリストは他者の存在を必要とした。「ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい」(38節後半)。彼らには、その苦しみを少しでも分かち合って、祈ってくれることを求めた。彼らは、その期待に応えることは全然できなかった。キリストはひとり重圧を負って、心を破って、涙と絶叫をもってすべての思いと願いとを注ぎ出し、祈る。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」(39節)。

キリストにとっての従うことがつらかったみこころとは、御父から受ける杯を飲み干さなければならないということ。これがどんなに恐ろしかったことか。「杯」とは神の御怒りと刑罰を意味している(イザヤ51章17節、エレミヤ49章12節、詩編75篇8節)。神の御怒りと刑罰は十字架刑において起こる。これはできるなら避けたい種類のものであった。「人類を罪から救う方法が他にあるならば、そうしたい。しかし、他に方法がないのならば・・・」。他に方法はなかった。人類を罪から救うために誰かが身代わりとならなければならない。しかし、その条件を満たしている存在は、ただ罪がないというだけではなく、まことの人にしてまことの神であるキリスト以外にいなかった。しかしこの務めは、最高の人格のキリストといえども余りにも過酷な務めであった。

キリストが飲み干さなければならなかった「杯」の恐ろしさを三つに分けて考えよう。 第一は、肉体の苦しみである。十字架につく前に突起がついた鞭で打たれ、背中はゼリー状になる。骨も見えたと言われる。そして茨の冠を被せられる。頭の激痛だけ想像しても恐ろしい。倒れ込む度に、頭に激痛が走っただろう。手首を釘で打たれ、足を釘で固定される。その痛みも想像するだけで恐ろしい。十字架の上で胸の圧迫による窒息を避けるためには、両足を固定している釘に体重をかけ、焼けつくような痛みを味わうことになる。また呼吸の際、両肘を曲げる必要があり、その際、損傷した正中神経に燃えるような苦痛が生じただろう。十字架につく前に鞭打たれ、引き裂かれ、生肉となっていた犯罪人の背中は、一息つくごとに木製の十字架にこすりつけられた。多量の出血により、渇きも強まってくる。十字架刑は苦痛を引き延ばすことに意味あり、絶え間ない苦痛の後、最終的に苦悶と出血と疲労が重なり、完全な呼吸停止に至る。

第二は、罪を負う苦しみである。もちろんこの場合、負うべき罪とは、私たち人間の罪である。聖いお方であるからこそ、罪というものを負うことに、耐えがたい嫌悪感があっただろう。ゴキブリ一匹背中に着くのとは訳が違う。しかも、私たちのすべての罪を負ったのである。イザヤは語る。「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」(イザヤ53章6節)。それはおびただしい数の罪であった。それはたましいに極限の苦悶をもたらすものとなったはずである。

第三は、御父の御怒りと刑罰を受ける苦しみである。キリストは弟子たちから見捨てられるばかりか、御父から見捨てられることになる。キリストの十字架上での叫びの一つは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(27章46節)であった。キリストは天の御父との甘やかな交わりは断たれ、暗黒の恐怖に襲われ、御怒りを受けたのである。キリストの上に、避雷針に稲妻が落ちるように御怒りが落ちた。いや、メガトン級の水爆がキリストのたましいの上に落ちたと言っていいかもしれない。それは言語を絶する恐怖だったにちがいない。

キリストはこの杯を飲み干すために、ゲッセマネで戦っていた。杯を飲み干すことは、みこころだったからである。イザヤは告げる。「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった」(イザヤ53章10節)。キリストは三度の同じような祈りの後、杯を飲み干す覚悟と霊性が整い、みこころに従うべく、十字架へと向かわれた。私たちは、私の身になぜこんなことが起きたのですかと思ってしまいやすいが、そのような時にこそ、キリストの十字架を思おう。誰のための、何のための苦しみだったのだろうか。しかも罪が全くないのにもかかわらず、全く道理に合わない苦しみで、しかも極限の苦しみであった。この苦しみのすべては私たちを罪から救うためであった。ここに愛がある。私たちはこのお方の愛を信じ続けなければならない。また私たちも、キリストに倣い、自分の好みいかんにかかわらず、みこころに従わなければならない。

ペテロたちはどうであっただろうか。実は、ペテロたちがキリストを見捨ててしまうことは預言されていた(31節)。これはゼカリヤ13章7節の引用である。しかしキリストは彼らの裏切りばかりを語ってはおられない。彼らの回復をも語っておられる(32節)。これらは彼らの信仰の回復の暗示であり、彼らと主との関係の立て直しの暗示である。キリストは十字架の死後、復活されて、ガリラヤで彼らと会うことを暗示しておられる。これは私たちにも一条の光を投げかける。私たちもつまずき、失敗することがある。しかし、神はあわれみのご計画のうちに回復の道も備えてくださる。ペテロはガリラヤで再度、召命を受けることになる。その時、キリストはこう言われている。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたは若かった時には、自分の帯を締めて、<自分の歩きたい所>を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、他の人があなたに帯をさせて、<あなたの行きたくない所>に連れて行きます」(ヨハネ21章18節)。「自分の歩きたい所」から「あなたの行きたくない所」への導きである。その後でキリストはこう言われる。「わたしに従いなさい」(19節)。

私たちは気乗りする、しないにかかわらず、主のみこころに従うことを選びとらなければならないことがある。私たちに従わせる力は十字架の愛である。十字架を仰ぎつつ従おう。また、みこころに従うには祈りは欠かせないことを覚えよう。常にみこころを選択できるように祈り、みこころに背く誘惑から守られ、みこころを生きることができるよう祈ろう。