皆さんは、これまでの招待の中で嬉しかったものは何だろうか。結婚の披露宴という方がおられるだろう。今日の箇所は、当時のイスラエルの指導者たち、祭司長、民の長老たちを意識した、たとえ話の三部作の最後、「結婚披露宴のたとえ」である。イエスさまはこのたとえを通して、天の御国への招待について語っておられる。実際、イエスさまは、三年間の活動を通して、人々を天の御国に招いて来られた。天の御国への招待ほど嬉しい招待はないと思う。ところが応答する人は、最終的にはほんの一握りとなる。人々は天の御国に入りたくないというのではない。当時のユダヤ人たちはというと、天の御国は自分たちのものと思っていたが、キリストによって招待されたくないと、特にエリートの人たちはそう思っていた。

イエスさまが取り上げているのは「王子の結婚式の披露宴への招待」である。単に「結婚式の披露宴の招待」ではない。これは一番喜ばしい招待というだけでなく、これ以上ないという招待である。これは、神さまが私たちを、素晴らしい救いに招待してくださっていることを表わそうとするものである。

では、「結婚披露宴のたとえ」を見ていこう(2節)。「結婚の披露宴」自体、天の御国の祝福を表わすのにふさわしい。このたとえは五つの場面に分けて見ることができよう。第一の場面は、結婚披露宴への二度の招待である。古代においては、宴会を催す場合、二回招いた(3節)。「招待しておいた客を呼びに」とある。当時、「二回招かれるのでなければ宴会に出席する人は誰もいない」と言われていた。二回目は、しもべを遣わして、招待したお客を、敬意をもって招きに行った。たとえのお客は乗り気ではなかったようだ。

実は、二回目の招きは、ディナーの用意ができましたからお越しくださいという招きであった。二回目の招きの意味はここにある。どういうことかと言うと、実は、料理の準備が完了する時間を、前もって知ることはむずかしかった。現代とは違う。というより、現代は、時間にきっちり合わせるようにして逆算して準備するが、当時は諸事情でそうすることはむずかしい。料理がそろそろ整いそうだとわかった時に、二回目の招きで正確な時間を招待客に告知した。招待された客は、地位が低い人であるならなおさらのこと、時間に遅れないで出席することが求められた。時間に遅れることは礼儀に反する。横手時間とか、そういうことは許されない。そして実は、聖書の舞台パレスチナでは、招かれた客が結婚披露宴に連なることは社会的義務とみなされていた。特にこの場合は「王子」のための結婚披露宴である。時間に遅れることなど許されない。それは失礼極まりないことである。ところが招待された者たちは、時間に遅れることを心配するどころか、行くこと自体、しぶっている。行く気がしないというか、行く気がない。出席は義務うんぬん以前に、王が招待する披露宴なわけだから、そこに参列することはたいへん名誉なことなので、「来たがらなかった」というのは不自然。行かねばならぬものではなくて、喜び勇んで行こうとするのが自然。どうしてそうならなかったのだろうか。古代中近東の結婚の披露宴は一週間続くことが普通で、王家の披露宴ともなると、数週間も続いた。そうした長期間にわたるパーティに時間を費やすのはめんどうだと思ったのだろうか。しかし、単純にそういうことでもなさそうである。

第二の場面は、招待の完全な拒絶である。王は来たがらない招待者たちのために、「どうぞお出かけください」と、へりくだって別のしもべたちを遣わす(4節)。しもべたちは「雄牛も太った家畜もほふって」と最高のもてなしをすることを告げ、「何もかも整いました」と完全な準備完了を告げている。こうして彼らの出足を促そうとした。私だったら出かけてしまう。ところがどうだろうか(5節)。全く悪い人々である。王の招きに冷たい反応である。「気にもかけず」と全く関心がない。無礼を働いたという意識もない。彼らの関心は世俗のことしかないのだ。もうけること、かせぐこと。それしか関心がない。王の招待には興味がない。王のことも王子のことも全く関心がない。彼らの関心は、今ここの目先のこと。お金のこと。たとえの「王」とは天の神さまを意味している。招待を拒絶した悪い客たちとは、第一義的には、イスラエルの指導者たちを含む当時のかたくななユダヤ人たちである。彼らは、敬虔さを装っていたが、中身はというと、案外、物質主義で、関心は世俗のことであった。自己追求の世界に没頭しがちで、世俗主義、物質主義、拝金主義。このたとえを語った前日、イエスさまは神殿で、商売人とその黒幕のイスラエルの指導者たちを、金の亡者のようにみなし、強盗扱いにした事件があった(21章12,13節)。

たとえの中の悪い客の中には、無関心よりも悪い人たちがいる(6節)。無関心でなく敵対心むき出しである。遣わされたしもべたちを捕まえて恥をかかせた。「恥をかかせる」ということばは、「乱暴を働く、無礼行為に出る」、そういうことばである。当時、遣わされる者は遣わした方と同等とみなされ、扱われた。遣わされた者は遣わした方の代理人であり、権威を帯びていた。王が奴隷を遣わした場合でも、その奴隷は王と同等のものとしてみなされ、扱われた。このたとえでしもべたちを遣わしたのは王である。その王のしもべたちをなぶりものにするとは、王をなぶりものにすることと等しい。この悪い客たちは、王を王とも思っていない無礼行為に出たということである。彼らは、王に守られて生活してきたことの感謝などない。恩を仇で返すような行為に出る。しかも良く見ると、しもべたちを殺す行為にまで出てしまっている。しもべたちを殺すことは、王への反逆行為である。また王子の結婚披露宴の招待なので、王子への侮辱行為である。悪い客たちは、王も王子のことも敬ってなどおらず、ひどく憎んでいたということになる。しもべたちを殺すことは王に絶縁状をたたきつけたに等しい。悪い客たちの無関心や敵対心を露わにする行為は、神さまのことを全く気にかけていないこと、全く恐れていないことを表わしている。王の側では三回もしもべたちを遣わして、心暖かく忍耐をもって祝宴に招いている。神さまも同じように私たち人類を愛と忍耐とをもって天の御国に招いておられる。

さて、王に遣わされた「しもべたち」とは誰か。神さまの代理人として、神さまからのメッセージを伝える者たちのことである。直接的には、旧約時代の預言者、福音書に登場するバプテスマのヨハネ、キリストの弟子たちなどが意識されているだろう。現代では、クリスチャンたちを通して、教会を通して、神さまは人々を天の御国に招待しておられる。

第三の場面に移ろう。悪い客たちのさばきの場面である(7,8節)。王の忍耐と寛容にも限界がある。この7節のことばを、紀元70年に起こるイスラエルの歴史的事件「エルサレム陥落」の預言と採る人もいる。この時、何十万ものユダヤ人が命を落とし、また何十万もの人が国外に連れ去られることになる。8節で「招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった」と言われているが、では、天の御国にふさわしい人は誰であろうか。マタイ5章3節では、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだから」とある。心の貧しい者こそ、天の御国にふさわしい。このみことばについては、次の場面で解説したい。

第四の場面では、新たに招待する場面である(9,10節)。最初の招待者たちはだれもいなくなった。このままだと、せっかく用意した宴会会場は空っぽになってしまう。王の招待者はだれでもすべての人にとなった。10節に「良い人」とあるが、社会的に良い人ということにすぎない。ローマ人の手紙3章10節が語るように、「義人はいない。ひとりもいない」である。言わんとしたいことは、今や、神は全世界の人々を天の御国に招いておられるということである。どの国の人であっても、どの民族に属していても、どの階層であっても、だれでもキリストを信じる信仰によって神の民とされる。天の御国の祝福に与ることができる。

そして10節からは、貧しい人への招待ということが浮き上がってくる。「しもべたちは、通りに出て行って」とあるが、町の大通りに出かけたということである。町の大通りというのは、貧しい人たちのたまり場であった。貧しい人たちを招くことが目的だった(ルカ14章21節)。貧しい人たちは、自分たちが王の宴会に招待されるなどと、全く期待していない。招待を受けたら、招待を受けたこと自体、大きな喜びに感ずるはずである。彼らは王の慈愛に満ちた顔を思い浮かべながら、招待に心から感謝しただろう。え~、俺たちが招かれたのかと。この人たちは、良い意味での貧しさも併せ持っている。先ほど少し触れた「心の貧しさ」である。彼らは自分の足りなさ、愚かさや罪を自覚し、心へりくだっている人たちである。彼らは王子が大好きになるはずである。このたとえで「王子」とされているのは「イエス・キリスト」のことで、キリストは、罪からの救い主としてこの地上に来られた御国の王子である。私たちを愛し、私たちを罪から救うために、十字架で尊い血を流されたお方である。心貧しい者たちは、キリストの招きに応えるだろう。キリストを我が喜びとして、喜んで天の御国の祝宴に座を占めるだろう。

では、最後の第五場面に移ろう。不可解な光景でそれは始まる(11,12節)。ここで、婚礼の礼服を着ていないことが普通ではないとされている。しかし、大通りにいたら、そのまま招かれて、そこから宴会場に向かったのだから、着替える余裕はなかったと思われるかもしれない。家に婚礼の礼服を取りに行く暇もない。その余裕があった人もいただろうが。それに貧しい人は、婚礼の服の代わりになるもの自体、持ちあわせていなかったはずである。けれども、この一人の人以外は全員、婚礼の服を着ているようだ。これはどういうことだろうか。どこから礼服を手に入れたのだろうか。理由は簡単である。これは、王が婚礼の礼服を支給したことを意味する。こうしたことは、実際あったようである。

すると、この場面において婚礼の礼服を着ていないということは、どういうことだろうか。彼は、招待を受けないでもぐりこんだ客ということではない。婚礼の礼服を着ることを拒んだということである。それは12節の彼の沈黙からもわかる。婚礼の礼服を着ないで宴会場にいるなど、無礼行為もはなはだしかった。でも王は「無礼なやつめ」と怒らずに、「どうして着ていないのですか」とまず問いかけた。12節の脚注を見ると、原文の冒頭では「友よ」という呼びかけがある。これは暖かいことば、優しい呼びかけである。王の優しさ、あわれみを物語っている。けれども彼は口を開かない。彼は正当な理由があったら、すぐに口を開いて弁明したはずである。「だれも礼服を与えてくれなかった」とか、「だれかにむりやり脱がされた」とか。「僕は体が大きいから普通サイズはだめ」とか。「さっそくスープをこぼしてしまった」とか。でも正当な理由がないから何も言えない。彼は婚礼の礼服を着て出席できたのに、あえて着なかったのは明白である。故意に礼服を着ようとしなかった。沈黙はそれを物語っている。彼は王の宴会に、王の用意した服ではなく、自分の好きな恰好で出ようとした。王の条件ではなくて、自分の好き勝手な条件で出ようとした。彼はあわれみをもって招待していただいたのに、そのあわれみを感じていない。ふてぶてしく私腹で宴会場に入り込んだ。太った家畜をほふったごちそうだけが楽しみだったのだろうか。彼は祝宴は大歓迎だが、それ以上ではなく、王と王子に対して、取るべき態度をとれない。

結果はどうなったのだろうか(13節)。宴会場は灯りが灯っていて明るい。しかし外は夜で暗い。そこに縛られたまま、放り出されることになった。これは神の国から放り出され、永遠の暗やみのさばきに会うことを物語っている。この部類の人たちは天の御国に入りたいと考えてはいる。しかし、王の条件ではなく、自分の好き勝手な条件で入ろうとしている。

ある人たちは、神はあわれみ深い方だから、誰でもかれでも天の御国に救い入れてくれるだろうと主張する。確かに神は、すべての国のすべての人を天の御国に招いてくださるお方である。けれども、天の御国に入るには、救われるには、条件がある。その条件とは、ただ二つである。それは、罪の悔い改めと、イエス・キリストを罪からの救い主として信じます、という信仰である。

まず、天の御国に入るための不可欠な条件、「悔い改め」である。私たちが得意なことは、自分から目を離し、自分を裁判官の地位につけ、高飛車に相手を見下し、あの人は常識がない、あの人はわがままだ、あの人は冷たい、そういって熱心に相手の過失や欠点を見て人を裁くことに、エネルギーを使ってしまうことである。それは、ある意味、楽な選択で、悔い改めとは正反対のことである。プライドが自分を高く上げ、自分を義としてしまい、自分の義は汚れた衣のようであることに気づこうとしない。それに対して悔い改めとは、心貧しくなって、正直に自分を見つめ、神の前で裸となり、自分の傲慢や醜い思い、汚れ、偽善等を認め、神の前に自首することである。このたとえは、直接的に誰に語られているかというなら、「祭司長、パリサイ人たち」と呼ばれる人々である(21章45節)。この人たちの特徴は傲慢である。プライドがやたら高い。プライドは言わせる。「私は正しいが、あなたがたはそうではない」。この部類の人たちは、先に述べたように、人の欠点、過ちを容易に指摘する。その反対に、他人が自分の欠点や過ちを指摘してくるのをたいへん嫌う。道ばたの犬の耳を引っ張ると噛みつかれるように、傲慢な人に教訓したならば、手痛い攻撃を受けかねない。しかしイエスさまは、たとえを通して、あえてこれを行っている。

プライドはこうも言わせる。「わたしはあなたがたよりも人生経験が長い」。でも、別の言い方をすれば、天の御国から遠ざかる罪は、人生経験が長ければ長いほど、積もり積もってしまっている。だから、大事なのは人生の長さでもないし、どんな修羅場をかいくぐってきたかということでもない。またプライドは次のようにも言わせる。「わたしはあなたがたよりたくさん勉強してきた。知識ならば負けない」。救いは、たくさんの高等知識を身に着けてきたということと関係ない。優等生として人生を歩んできたということも関係ない。この時代、だれの目から見ても明らかに堕落していた収税人や遊女たちのほうが、なぜか、当時のエリートコースを歩んで来た人々よりも、先に救われた。それは心貧しくなり、プライドを捨てて、自分の罪を認めて、神の前に自首し、神に罪からの救いを請うたから。自分はこのままで天の御国に入れる善人だ、と思うのは人間の勝手。良いことをたくさんしてきたから天の御国に入れると考えるのも人間の勝手。先週一週間で犯して来た罪で、たましいが滅びるのに十分である。だから、心貧しくなり、神に自首する人こそ幸いである。

二つ目の条件は、「キリストを信じる信仰」である。キリストは天の御国の王子である。御国の君主である。礼服を着ていない男は、先に招かれた悪い客たちのように、遣わされたしもべたちに乱暴を働いたり、殺したりと、王子に敵意むき出しの存在ではない。一応、招待には応えたわけだから。だが、本当の意味で王子に敬意を払う気持ちはない。王子の存在を本当に喜んでいるわけではない。従う意志もない。天の御国は聖書の各書で教えられているように、主イエス・キリストが統治する国である。ところが、こう述べる人たちが多い。「天の御国には入りたい。しかし、キリストとは特に関係を持ちたいと思わない」。この発言は大いなる矛盾を含んでいる。天の御国はキリストが支配する世界である。キリストは十字架について復活なさる前に、ご自身が天に昇られる前に、弟子たちにこう言われた。「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたもおらせるためです」(ヨハネ14章2,3節)。キリストは天の御国の主人で、天の御国に場所を備えてくださっている。そこは、キリストとともに生きる世界である。天の御国をテーマパーク・レジャーランドといっしょにしているなら大いなる勘違いである。

キリストを信じることが不可欠な理由は、天の御国はキリストが治める国であるということともに、罪の問題が解決されないまま、天の御国に入ることは不可能だからである。ご存じのように、キリストは罪を取り除くために、この地上に来てくださった。「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした」(第一ペテロ3章18節)。キリストは十字架の上で私たちの罪の身代わりとなられた、まことの人となられたまことの神、旧約聖書が預言していた救い主である。私たちは、この方に対する態度を決めなければならない。このたとえにおいて、婚礼の服を着るとは、悔い改めてキリストを信じる、キリストにつく者となる、ということのシンボルと言えよう。「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」(ガラテヤ3章27節)(ローマ13章14節参照)。現在、天国について語る宗教は山ほどある。しかし、婚礼の服を着させないで、天国の祝宴への参列を促しているにすぎない。

皆さんは、今日のたとえにおいて、四種類の人が存在することに気づかれただろうか。一番目は、天の御国に対しても、神さまに対しても、無関心な人(5節)。世俗のことで頭が一杯、それ以上の関心がない。二番目は、神さまに対して、キリストに対して、敵意むき出しの人(6節)。三番目は、天の御国に入りたいだけで、神を敬う気持ちも、キリストを信じ従う気持ちもない人(11節)。四番目は、心貧しくなって、救いの招きに喜んで応答する人。皆さまは、この第四番目の人であってくださることを願う。最後の「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」(14節)という警告について触れて置こう。これは、誰が救いに選ばれているのかという無駄な神学的議論をさせるためではなく、招待される者は多くても、その招待を軽んじてしまい、実際は招待された人数より少ない人しかふさわしい応答はしないため、天の御国の宴席に連なる人は少ないことを覚えさせるためである。このことばの背景には、イスラエル人たちが、自分たちは選ばれた民族だから、選ばれた民族であるゆえに、無条件に天の御国に入れるのだと勘違いしていることがあると思われる。いずれにしろ、皆さまには、天の御国への招待に応えていただきたい。悔い改めと信仰をもって。この招待は、全天全地において、これ以上ないという招待である。これを拒む理由はないはずである。お祝い金もいらない。天の御国に入るための必要な代価はすべて、キリストが十字架の上で支払ってくださった。私たちはただ、キリストに最上の価値を帰す心で、悔い改めと信仰とをもって、天の御国の祝宴に与ればいいのである。