秋田は水がいいと良く言われる。湧き水が生活水として使われている。化粧品の会社が秋田の水を分析して、秋田の水の良さが秋田美人を作る要素となっているという報告も出している。今日は「生ける水」というタイトルで、「サマリヤの女」と呼ばれている箇所から、ご一緒に、キリストの魅力について見てみたい。

イエスさまと弟子の一行は旅の途中、サマリヤという地方を通った(4節)。これは普通のルートではない。というのは、通常ユダヤ人は、サマリヤを迂回して旅をするからである。当時、ユダヤ人とサマリヤ人とは犬猿の仲であった。ユダヤ人はサマリヤ人は汚れているとし、その土地に足を踏み入れることさえ嫌い、目的地に向かうのに、サマリヤを通らなければ遠回りになるとわかっていても、サマリヤの地に足を踏み入れることはなかった。サマリヤ人はユダヤ人と異邦人の混血民族。昔から仲が悪く、ユダヤ人はつきあいを避けていた。けれども、イエスさまは平気でサマリヤを通るルートを選択した。それは距離的に最短ルートになるからとか、そういう理由だけではなく、一つの目的があった。それはサマリヤとの女と出会うためであり、サマリヤの人々に神の祝福を、生ける水もたらすためである。

キリストは井戸のかたわらに腰をおろして休んでおられた(6節)。弟子たちは買い物に出かけていて、そこにはいない。「時は第六時ごろ」とあるが、それは「真昼時」ということである。この時にサマリヤの女が水を汲みに来た。通常、中東の女性たちは、早朝か日没前に水を汲みに来る。炎暑を避けるためである。しかも通常は井戸の往復は近隣のうわさにならないようグループ行動を取る。逢引きしているとか、男を誘い込みに出かけたとか、誤解されないように。グループ行動の理由はそれだけではない。井戸から汲んだ水を壺に満たすわけだが、満杯になった壺はかなりの重さになるので、女手ひとつで、それを頭に乗せるのは容易なことでない。そういう意味でもグループで行動するのが自然。けれども彼女は真昼時にひとりで井戸に現れた。これで彼女の正体はある程度ばれてしまっている。村八分の女か、自分に言い寄る旅人がいてもかまわないと思っている女か、いずれ問題有りの女であるということ。

イエスさまは彼女に飲み水を求める(7節)。イエスさまは自分で水を汲んで飲んでしまえばよかったのにと思うかもしれない。しかし中東の井戸は水を汲むつるべが備えつけられていない。それは持参するのが当たり前であった。イエスさまはつるべを持っていなかった(11節前半)。だから、誰か水汲みに必要な用具を持っている人が現れるまで待つしかなかった。彼女がそれを持っていた。そしてイエスさまはここでも常識破りなことをしている。女性が近づいてきたら、少なくとも6メートルの間隔を開けて退くのが習わしであった。だが彼女が近づいてきても、イエスさまは動いた気配はない。はっきりしていることは女性に声をかけたということ。女性に話しかけることは、それも特に、現場に第三者の証人のいない場所で話しかけることはタブーだった。それどころか村社会では、よそ者の男は公けの場所で土地の女性と目線を合わすことすらしなかったという。女性に話す場合でも、「女性を相手にあまり話をしてはいけない。自分自身の妻に対してすら同様のことが言われていた」というユダヤ教の記録さえ残っている。ところがイエスさまは、第三者が誰もいないようなところで自然に女性に話しかけている。しかも相手はユダヤ人がつきあわないサマリヤ人。そればかりか、彼女はサマリヤの女性たちの間でも仲間外れにされていた評判の悪い女性。さらにそればかりではない。イエスさまは、皆に嫌われ人格を否定されていたような彼女に助けを求めている。「疲れて喉が渇いています。助けてください。水を恵んでください」。なんていうことだろうか。

まちがいなく、イエスさまは彼女の自己価値観を高める行動に出たというか、彼女の価値をしっかり認めた行動に出ている。イエスさまは男尊女卑の時代にあって男性と同等の価値を女性にも与える。また、あばずれとみなされていた人にも価値を与える。福音書を読むと、イエスさまが愛して、優しいまなざしを向けた人たちは、何らかの理由で社会からのけ者にされた人たちだった。重い皮膚病の人、悪霊につかれた人、物乞い、盲人、売春婦、取税人、盗賊、そして人種差別されていた異邦人、サマリヤ人たち。反対に、自分は生粋のユダヤ人で自分は正しいとするエリートたちには厳しかった。イエスさまは自分の愚かさ、汚れ、罪、弱さを認めている人々には、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43章4節)を体現される。イエスさまが罪を認める者たちを高価であると認めていること、愛しておられることは、究極的には、私たち罪人のために命を投げ出すという十字架刑によって現されるわけである。あなたは、わたしが命を捨てる価値があるというわけである。命を捨てるほどにあなたを愛しているというわけである。イエスさまはそのようにして、十字架で私たちの罪の身代わりとなってくださった(ヨハネ19章に記録)。

イエスさまは「神の贈り物」に言及されている(10節)。皆さんにも、その贈り物を受け取っていただきたい。サマリヤ人にとって「神の贈り物」というとき、それはモーセ五書という書物を意味していた。けれども、イエスさまは、それは「生ける水」であると言われる。それは14節では「永遠のいのちへの水」と言い換えられている。「生ける水」というのは、たましいの渇きを想定してのことである。肉体の渇きは水でいやす。ではたましいの渇きは何でいやすのか。実は、「生ける水」とは、神の比喩であり、キリストの比喩であり、聖霊の比喩である。この場面ではキリストに注目しよう。たましいを満たすのはモノではない、人格である。それは生ける神のキリストである。このお方は永遠のいのちそのものである。まさしく「生ける水」である。

イエスさまはご自身がサマリヤ人も待ち望んでいた救い主であることを示すために、彼女の心に衝撃を与えることばを発せられる(16~18節)。イエスさまは彼女の生活実態をすでにご存じであられた。誰からか情報を得てというのではないだろう。彼女がとっかえひっかえ男を求めていったのは、彼女のたましいが渇いていた証拠でもある。そしてまたそれは、渇きがいやされていない証拠でもある。サマリヤの女は、突然、自分の罪の話題に触れられてどぎまぎしただろう。誰でも自分の罪は暴露されたくはない。しかし暴露されてしまったのも同然。この後、罪の糾弾が続くかもしれない。そうしたら、逃げ場がなくなってしまう。彼女は反射的に話題を逸らす。神を礼拝するというまじめな話題に持って行く。イエスさまは彼女を責めることなく、そして彼女の話に合わせながら、神に関する真理を語っていく。おそらくこれまで、彼女の人格を認め、彼女と向き合ってまともに話してくれた教師はいなかっただろう(19~24節までは別の機会に解き明かそう)。そして、深遠な話題の後、彼女の口から「キリスト」というメシヤの称号が飛び出す(25節)。聖書でキリストとは、神であり、罪からの救い主であることが啓示されている。イエスさまは続く26節で、「わたしがキリストである」と宣言された(原文では<エゴー エイミー>「わたしは~である」という、ご自身が神であることを宣言する一文で始まっている)。この後、彼女は、目の前におられる方を、神の救い主として信じ受け入れたようである。そして彼女は生ける水を、たましいにいただいたのである。

今日の箇所からキリストの魅力について、二つのことだけを確認して終わろう。一つは、イエス・キリストは、罪人にすぎない私たちを愛し、人格を認め、価値を与え、救いの手を差し伸べてくださっているということ。もう一つは、キリストは私たちのたましいの渇きをいやしてくださる神の救い主であるということ。キリストは、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言ってくださるお方である。そして、「わたしのもとへ来て、生ける水を飲みなさい」と言ってくださる方である。私たちもキリストのもとへ行き、キリストを信じ受入れ、赦しと平安と喜びをいただこう。永遠のいのちをいただこう。