山本有三の作品に「路傍の石」という小説がある。学生時代に読んだ記憶がある。「路傍の石」ということば自体、「道端の石ころのように、何の役にも立たないつまらないもの」という意味がある。イエスさまはご自分が、あなたは必要ではないと見捨てられた石になることを42節で告げているが、そのイエスさまが世界を祝福する存在となる。

私の大好物に梨の二十世紀がある。二十世紀は私の子ども時代、梨の王様だった。二十世紀は、13歳の少年が親戚の家のゴミ捨て場に生えているものを見つけて持ってきたのが始まりだった。ところがそのゴミ捨て場の苗は、青梨の王様となる。

画家や音楽家などの伝記を調べると、多くの方々が、見捨てられるというところまではいかなかったかもしれないが、当時の人々から正当な評価を得ることがなく、貧しく死んでいく。お墓さえわからなくなってしまった人たちもいる。しかし後世の人々に再評価されて、偉大な人物と称えられるようになっていく。音楽家ではビバルディやバッハなどがそう。こうしたギャップの最たる存在は、なんと言ってもイエス・キリスト。皆に捨てられ、十字架につけられてしまったわけだから。けれども二千年経った今も、世界中の人々の尊敬を集めている。

今日の箇所は、前回に引き続いて、キリストがたとえ話をされている場面で、受難週の火曜日になる。今日のたとえは「悪い農夫のたとえ」として知られ、マルコの福音書、ルカの福音書にも記されている有名なたとえである。だれを意識して語られているかと言うなら、23節の「祭司長、民の長老たち」である。彼らはユダヤ教の指導者たちで国政も担っていたわけだが、45節では、「祭司長、パリサイ人たち」となっている。長老たちの多くがパリサイ派という宗派であったということである。彼らの闇の性質がたとえで明かされる。

では「悪い農夫のたとえ」を見ていこう(33節)。ぶどう園を所有するひとりの主人がいた。彼は「垣」を巡らした。それは動物からぶどう園を守るためであった。「酒ぶね」を掘った。これは踏み桶でぶどうを踏みつぶした後、そのぶどう汁が流れ込んでたまる桶のこと。「やぐら」を建てた。やぐらは木や石で造られ、どろぼうや火事を見張るための見張り台の役目をした。また小屋にもなっていて、ぶどう園で働く人たちの休み場であったわけである。主人はこうして園を整え、農夫たちに貸して旅に出かけた。当時の大地主たちの多くは、大都会ないし外国に住んでいた。従って、自分が元々住んでいる場所に戻るために旅立った。

ここで当時の地主と小作の契約スタイルについても説明しておく必要がある。ユダヤでは三通りの貸し方があったと言われる。第一は、地主が小作に対して、土地も蒔く種も労賃も与えてしまう。小作人は労賃プラス産物の3分の1か4分の1を受け取ることができるというもの。第二は、小作人が地主に借地料を払い、あとは全部、自分の自由にできるというもの。第三は、豊作か不作にかかわらず、一定の産物を納める方法。このたとえの場合は、第三の、一定の産物を納める方法をとっていたと思われる。現代では産物が金銭に換算して支払われるのが普通。私も福島で管理している農地を、このシステムで作っていただいている。日本では昔は地主の力は強かったが、今は作ってくださる農家の数が減少しているので、作っていただけること感謝しますで、地主と小作の力関係は均衡してきている。私も頭を下げながらやっている。ところがこの時代、力関係ははっきりしていた。地主は絶大的な権威があった。このたとえに登場する地主は、そういう時代にあって、バカがつくほどのお人好しで、ありえないような人物。そして小作人は、こんな悪いやつはいるのかと思うほど、悪い農夫。「主人」も「農夫」も、実際こんな人はいるのかと思うような設定になっている。しかし、良く考えてみると、実際いるよ、ということになる。たとえにおいて、「主人」は神さま。「悪い農夫」は、直接的にはイスラエルのリーダーたち。「ぶどう園」とはイスラエル。それを霊的イスラエルである神の国と置き換えることもできよう。

収穫の時が近づいた(34節)。主人は収穫の時が近づいたのでしもべたちを遣わした。それは自分の取り分を受け取ろうとして。当時は収穫の半分ぐらいが取り分の目安だったようである。34~36節の「しもべたち」とは、神がこれまでイスラエルに遣わしてきた預言者たちを指す。旧約聖書を読んでもわかるように、これまで預言者たちは国の指導者たちにコテンパンにされてきた。監禁されたり、刑罰を与えられたり、殺されたりしてきた。国の指導者たちは、預言者たちの悔い改めを迫る義のメッセージが耳障りだったわけである。小作人たちのしている横暴は、主人に対する謀反である。謀反を起こしてぶどう園を自分たちのものにしようとしている。私物化である。武器をもたないしもべたちを殺して、全部、横取りにしようとしている。全く非道卑劣な悪い農夫である。

主人のほうはどうであろうか。第一に、先ほども少し述べたが、敵に対して理解不能といっていいくらいお人好しである。しもべたちが、リンチに遭っても、殺されても、今度こそはと、何度でも別のしもべたちを送り、農夫たちと交渉しようとしている。こんな地主はいない。当時の悪い地主たちは、不満を言ってくる厄介な小作人たちをたたきのめすために、自分たちでヤクザのような一団をもっていたという。しかしこの地主は、善意に満ちすぎているような人物。武器をもたない義のしもべを送り続けた。当時にあって、もし地主に謀反を起こして、このような事件を起こした場合、処刑されるか奴隷とされるのが普通であったと言う。でも、そのようなことはせずに、農夫たちに対して忍耐深く、農夫たちが正しい態度をとるのを待ち続けた。たとえの主人は悪い農夫たちに対して、善意を示し続ける理由はない。この主人は、農夫たちが自分を憎んでいることを十分に承知していた。それはしもべたちへの態度から明白であった。古代にあって、遣わされるしもべというのは、遣わす者と同等の存在とみなされていた。つまり、遣わされる者は遣わす者の権威を帯びていた。遣わされた者が身分の低い奴隷であっても、その奴隷を侮辱した場合、その奴隷の主人を侮辱したことと同じとみなされた。遣わされた者への態度がそのまま、遣わした者への態度とみなされた。だから、遣わされた者が奴隷であっても、丁重に接しなければならなかった。このたとえのケースにおいて、しもべたちを痛めつけ、殺した農夫たちは、主人のことなど何とも思っておらず、主人を殺したいほど憎んでいたということになる。主人を主人と思っていない。彼らの興味はぶどう園を奪うことにしかない。にもかかわらず、たとえの主人は、あくまで農夫たちの忠節と言おうか節操と言おうか、忠実さを期待し続ける。忍耐深く、あわれみ深い。このたとえを聴いていた人たちは、この主人はお人好しのバカもいいところ、こんな主人いるわけないだろう、と思ったであろう。実際いることも気づかずに。

さて、たとえの主人はなおもあきらめずに、驚きの行動に出る(37節)。息子を代理人として遣わす。この「息子」はイエス・キリストご自身を表わしている。農夫たちは遣わされた息子の殺害計画を練る(38節)。実は、この頃すでに、キリストの殺害計画は練られていて、キリスト一行がエルサレムに入城する以前に、ユダヤ教の最高議会サンヘドリンは殺害計画の話合いを始めており、キリストの滞在場所を把握するためのスパイ網を張り巡らしていたくらいである(ヨハネ11章53節,57節)。たとえにおいて、息子はつかまえられ、ぶどう園の外に追い出され、殺される(39節)。これは一つの預言となっており、キリストはぶどう園の外で殺される。すなわち都の外、エルサレム郊外で十字架につけられ殺される。主人である父親は、息子の身に危険が及ぶことを承知していながら、和解の使者として遣わしたわけである。

主人は第一に、相当なお人好しであることを見てきたが、第二に、このお人好しの主人の度を越えた寛容さにも限度はあるということである。主人は忍耐深いと言っても、その忍耐に限りがある(40,41節)。悔い改めない悪い農夫にぶどう園を与えはしない。主人のあわれみも忍耐も軽んじ、最後の交渉人である息子をも殺してしまった農夫たちは、死の刑罰に処せられる。このたとえにおいて、神の驚くべき忍耐深さと厳正なさばきの両方が示されている。神の忍耐深さは私たち個人にあると同時に、全世界の人々にある。神は誰ひとりとして滅びることを望まず、忍耐深く立ち返ることを待っていてくださる。しかし、その恵みの期間を無視してしまうなら。後はない。

そこで、私たちはどうすべきだろうか。今日の文脈から見てみよう。イエスさまはたとえに続いて詩編のことばを引用される(42節)。これは詩編118篇22,23節の引用である。これは神殿について語られている。イエスさまの念頭にある神殿とは、神のコミュニティー、すなわち教会のことである。神殿を構成するのは神の民の一人ひとり。イエスさまは生ける神殿を考えておられる。この神殿の「礎の石」となるのはイエス・キリスト。けれども、それは「家を建てる者たちの見捨てた石」であった。キリストは都の外の処刑場で十字架につけられてしまうことになるので、確かに見捨てられる石となる。だが、このキリストが神殿の礎の石となり、救いの巌となり、キリストの十字架は私の罪のためと信じる者に救いが与えられ、神殿の一部とされる。これは人間の誰もが思いつかなかった、不思議な不思議な神の御計画である。

では、キリストを見捨てる祭司長たちはどうなるのか(43節)。彼らは、自分たちはイスラエルというぶどう園を、すなわち神の国を支配する中心的存在となると考えていたが、反対に、彼らは神の国の外に追いやられる。それは救いを失うということであり、罪を悔い改めない者たちが入る暗黒の世界に、裁きとして投げ込まれるということである。ここで、神の国は「神の国の実を結ぶ国民に与えられる」と言われている。ここで言われている「国民」とは誰なのかということだが、一昔前の口語訳は意味を読み込みすぎて「異邦人」と訳してしまっているが、原語は「一つの国民」となっている。すなわち、民族、国籍問わず、キリストを信じる者たちで構成される新しいコミュニティー、神の家族のことである。キリストを礎に形づくられる神の民の群れのことである。すなわち教会のことである。教会とはキリストを信じた者たちの群れを意味する。

44節では、この礎に石の上に落ちる者が木端微塵になることが言われているが、これは、キリストは生ける者と死にたる者とを裁く、裁き主であることが暗示されている。

イエスさまは最初に話した28~30節の「二人の息子のたとえ」よりも、血生臭い要素を含むたとえと、たとえに連動した話をされた。彼らは、最初は何を言いたいのだろうと聞いていたと思うが、途中からたとえの意味を気づき出したと思う。悪い農夫とは自分たちを指して言っているのだと、最低、それだけは気づいたであろう。そして二つのたとえとも、自分たちを責める内容であることに気づいた(45節)。彼らは、すぐにでもキリストを捕縛し、裁判にかけたいと思っただろう。しかし、今、都には過越しの祭りのため、ガリラヤその他の地方からも、大勢の群衆が集まってきていた。その数は十万を越えていただろう。もし、キリストに手をかけようとするものなら、群衆によって石打ちにされ、殺されてしまうかもしれないと心配した。そして神の御計画では、まだ十字架の時ではなった。最後の一週に突入していたが、まだ火曜日であった。イエスさまのエルサレムでの活動はまだ続く。そして金曜日に定めの時が訪れ、イエスさまは完全に見捨てられ、十字架につけられることになる。イエス・キリストは見捨てられた石になることをよしとされ、路傍の石のようになることをよしとされ、十字架の上で私たちの罪に対する御怒りを全身全霊で受け止められ、よみの世界にまで下られることになる。だが、このお方は死の支配を打ち破られ、よみがえられ、救いの岩盤であることを証明される。

今日のタイトルは「見捨てられた石」であるが、イエス・キリストの尊さに心の目が開かれる人は幸いである。「何でも鑑定団」という人気番組があるが、一見何でもない古物に莫大な値がつけられることがある。だがそれは物の評価の話である。物の評価を見誤ることがあっても、キリスト評価を見誤ったら、とんでもない損失を招く。私たちは、キリストのすばらしさに心の目を開こう。キリストは永遠の昔よりおられ、万物を造られたお方。キリストはまことの人となられ、真理のみことばを語ってくださったまことの神。十字架にかかり私たちと万物の贖いのみわざを成し遂げてくださったお方。よみがえり、罪と死と悪魔に勝利してくださったお方。今、神の大能の右の座に座し、万物を治めておられるお方。永遠のいのち、そのもののお方。愛の神。王の王、主の主。このお方に最高、最大の価値を置こう。パウロは、「生きることはキリスト、死ぬことも益です」(ピリピ1章21節)と、キリストのすばらしさに価値を置いていることを表明した。「ワーシップ」という礼拝を意味することばがあるが、このことばは元々、「価値を~に帰す」という意味で、神に対して使うときは、「最上の価値を帰す」という意味になる。キリストに最上の価値を帰そう。キリストに最上の価値を帰し、「キリストはわが愛、わが喜び、わが誉れ、わがいのち、わがすべて」とする方は幸いである。キリストを高く上げよう。あがめよう。私たちは、キリストにすべてにまさる価値を置いて歩んで行きたい。