プライドが砕かれたご年配の男性の証を最初に紹介しよう。水戸黄門のように髭を生やした、かっぷくのいいおじいさん。息子さんがクリスチャン。息子さんに誘われて教会の集会に出かけた。そこで聞いたお話にたいへん感動したそう。心を刺され、「人間なんてみじめな罪人だ。人間には救いが必要なんだ」と教えられた。感動したその話を未信者の仲間たちにすると、「そんなに深刻になって考えなくてもいいじゃないですか。罪、罪って、そんなこと考えていたら、暗くなっちゃいますよ」。「それもそうだな」。それからというもの、教会には行くけれども、深刻に考えちゃいけないがインプットされてしまったので、深刻には考えないようにと、つきあいで行くだけになった。そんなある日、教会からの帰り道のこと。道脇で子どもがおもちゃの自動車で遊んでいたそう。その方は、フラッとよろけて、踏ん張ったとき、道に置いてあった自動車のおもちゃを踏んづけてしまったそう。そのとき、子どもが怒って叫んだ。「ぼくの自動車をこわして、このクソじじい!」。おじいさんはショックを受けた。「年を取っても、わしもまだまだだと思っていたけれども、子どもから見たらクソにしかすぎないんだな」。このおじいさん、子どもにプライドを砕かれて、一週間後に信仰決心したそうである。「子どもから見たらわたしはフンでした」。この方は貴重な体験をさせていただいたと思う。

プライドは悪い意味ばかりではない。獣のように生きてはいけないというプライドは必要であろう。けれども、悪い意味でのプライドがある。虚栄心、傲慢という意味でのプライドである。それらは捨てるべきもの。見栄を張る、へりくだれない、誤りを認めることができない、古い考えに固執する、相手を認めることができない、相手がほめられるのが許せない。神のようにあがめられたい。今日は、当時にあってプライドが災いした代表格の登場である。場所としては神殿内の出来事である。曜日は火曜日。18節から火曜日の出来事である。イエス・キリストは金曜日に十字架につけられることになる。

イエスさまは神殿に入り教えておられた(23節前半)。ここは「歩廊」、すなわち玄関広間に相当し、そこは教えを聞く場所でもあった。ルカ20章1節では「イエスは宮で民衆を教え、福音を宣べ伝えておられた」とある。イエスさまはこれまでガリラヤ地方で教えておられたのと同じように、神殿でも民衆に神の教えを語り、神の国の福音を伝えておられたのだろう。それをおもしろくない目で見ていた人たちがいた。「祭司長、民の長老たち」である。彼らはおもしろくないどころか、この時、イエスさまを殺したいと思っていた。プライドから来るねたみである。この人たちはユダヤ教の最高法院であるサンヘドリンを構成する人たちである。サンヘドリンは70人の議員で構成されていて、「祭司、律法学者、長老」の三つの階級から成る。律法学者、長老には、イエスさまをいつも攻撃するパリサイ派の人たちが含まれている。彼らは自主的にやってきたのか、それともサンヘドリンから委任され、サンヘドリンの代表団としてやってきたかのどちらかであろう。

彼らは質問してきた。「何の権威によってこれらのことをしておられるのですか」。彼らが気に入らない「これらのこと」とは何であろうか。神殿に入り商売人を追い出すという乱暴狼藉に見えた行為がまず入るだろう(12節)。また神殿でのいやしの行為が入るだろう(14節)。そして神殿で教えることが入る。実は神殿で教えることができるのは、正規に認められた教師のみであった。ユダヤ教では、聖書と伝承を教える教師の権威付けに細心の注意が払われた。任職を受けた三人の教師の前で、恩師の教師によって按手を受けなければ教師として認められなかった。イエスさまは大工の息子でしかない。何の資格も証明書ももっていない。だから彼らからすれば、誰様だと思っているのかと、腹立たしくなるわけである。無資格のくせに、神殿の主人のように振る舞いおってと。

彼らはまず「何の権威によって」と尋ねているが、「教師としての権威?そうじゃないだろう。では預言者としての権威?メシアとしての権威?そのどれも認められん」というところである。また、「だれがあなたにその権威を授けたのか」と問うている。ここに、「権威を授けるとしたら、それは我々がすることだ」というユダヤ教最高法院のプライドが見え隠れしている。彼らにとって、イエスさまの神殿でのふるまいは、自分たちへの殴り込みに見えたであろう。当時の権威体制を知るときに、イエスさまがどれだけ大胆なふるまいをされたのかということがわかる。

イエスさまは彼らの質問に対して、逆に彼らを窮地に追い込む質問をされる(24節,25節前半)。イエスさまはヨハネのバプテスマの権威の出所を問うている。「天からですか。それとも人からですか」と。バプテスマのヨハネは神が遣わした旧約時代最後の預言者であり、悔い改めを説き、イエスさまをメシアであると指し示したということにおいて、新約時代への橋渡し役を担った預言者であった。彼らが「天から」と答えたらどうなるのか。「天」とは神さまを表わすユダヤ人の婉曲的表現である。彼らは「天から」などとは言いたくない。彼らはヨハネによって、「まむしのすえども」とまで言われ、地獄の申し子扱いされてきたわけだから、自分たちを侮辱してきたヨハネを「天から」などとは言いたくない。プライドが許さない。もし「天から」と言ったならば、ではなぜヨハネを信じなかったのかと言われるのがオチ(25節後半)。これに付随する問題もある。ヨハネは民衆から預言者として認められていたわけだけれども、サンヘドリンから権威を授かって働いていたわけではない。ヨハネ以前の旧約聖書の預言書たちも、ほとんどが任職式を挙げてもらったわけではなく、だれからか証明書をもらったわけではない。ただ直接、神から遣わされて、説教し、働いてきた。もし彼らが、サンヘドリンから権威を授かったわけでもないヨハネを「天から」と言ってしまえば、同じくサンヘドリンから権威を授かったわけでもないイエスさまのことも「天から」と認めざるをえなくなってしまう。イエスさまはヨハネよりも偉大であるとうわさされていた人物である。ヨハネに天からの権威を認めておきながら、イエスさまには認めないというのでは、おかしいのではないのと追求されてしまう。サンヘドリンに属する人たちは、ここで、ヨハネの権威が天から来ていることを明確に否定しているわけではない。しかし、それを認めてしまうことはできないということ。つまりは判断中止。わかろうとしない。自分の立場を失うのが怖くて、考えを先に進めることはできない。できれば、自分の立場を守る判断をしたい。臆病といえば臆病。

彼らは臆病なので、「人から」と答えることもできない。そう答えてしまいたかったが、そうはできない事情があった(26節)。「群衆がこわい」というのは、ただ反感を食らうという程度のことではない。「しかし、もし、人から、と言えば、民衆がみなで私たちを石で打ち殺すだろう」(ルカ20章6節)。石で打ち殺されることを恐れた。当時、石で打ち殺すというのは不信仰な者に対する刑罰の意味合いがあった。彼らはただ殺されるだけではなく、神に逆らう者として殺されてしまうことになる。恥辱に満ちた死である。こんな結末を彼らが望むはずはない。

そこで彼らは、「わかりません」と答えた(27節前半)。ずるい答えである。「知りません、記憶にございません」といった国会議員の答弁みたいである。自分の立場がなくなる、これまで自分のしてきたことが否定されてしまう、人はそう判断すると、自分を守ろうとして、事がらをあいまいにしてしまう。この場合、「わかりません」というよりも、「わかろうとしない」「結論を出したくない」である。判断中止である。人は自分の利害にかかわるときや、自分の安全にかかわるときは、「わかりません」と言って逃げる。また自己弁護を始める。しかし、自分の利害と関係のない人が話題となっているときは、自分のことは棚に上げて、あの人たちは、あの会社は、その男性は、あの女性は・・・とやりこめる。このようにとたんに雄弁になる。ああだこうだと人物評価を始め、時には一刀両断に処する。ばっさり相手を切る。こうしてスカッとしたい。サンヘドリンの人たちは、イエスさまにこれをやりたかった。けれども知恵者であるイエスさまによって逆にやりこめられてしまう。スカッとどころが苦虫をかみ潰すことに。

この後、イエスさまはたとえ話を三つ語り、彼らにお説教をする。今日は、最初のたとえ話とイエスさまの説教を観察して終わる(28~32節)。ここでイエスさまはたとえ話を語り、たとえ話に関して質問をするというスタイルを取っている。彼らは、この場面では「わかりません」といった口を濁すことは言わず、即答し、明快な答えを出している。たとえ話のような第三者的な傍観者になれる話題になると、どっちがいいか悪いか、即座に答えを出せる。自分に関係ないことだと思うから。これがイエスさまのねらい。しかし、彼らは、たとえ話に登場する人物には自分たちも含まれていることに気づいていない。答えた後に、自分たちのことが言われていたのだと気づく。彼らは、自分たちを戒めるためのたとえだったと後で気づき、イエスにやられた、と思っただろう。

では28~30節のたとえ話を見よう。これはほんとうに短いたとえ話で、「二人の息子のたとえ」である。「放蕩息子のたとえ」も父と二人の息子が登場するが、これも同じである。息子のうち、最終的に弟の態度が良くなるというのも同じである。「わがまま息子のたとえ」という言い方もできるかもしれない。

お父さんがまず兄のほうに願う。「きょう、ぶどう園に行って働いてくれ」(28節)。「お父さん」とは神の比喩。「ぶどう園」はイスラエルの比喩。兄は答えて、「行きます。お父さん」と言ったが、行かなかった(29節)。口先だけで服従がない。「お父さん」の直訳は「主よ」である(欄外註)。「行きます。主よ」ということで、口先だけの信仰者が意識されていることは明らかである。イエスさまは先に、7章21節でこう言われている。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」。祭司長、長老たちは、「主よ、主よ」という者たちであった。けれども、そのまじめさは見かけだけだった。

お父さんは今度は弟に同じようなことを願う。弟は「行きたくありません」と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。弟のほうは態度を改めた(30節)。「悪かったと思って」<メタメロマイ>は「悔いる、決心を変える。考え直す」という意味のことばである。これをしたのは誰たちだったのか。イエスさまは、これらの人たちは、取税人や遊女たちであることを明らかにする。「まことに、あなたがたに告げます。収税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです」(31節後半)。祭司長、民の長老たちは、自分たちが収税人、遊女以下にみなされ、腹が立っただろうが、事実は事実。収税人、遊女たちは「神の国」にすでに入っていることが言われているが、この場合の神の国とは、神の支配の中ということで、彼らが今、救われていることが言われている。その理由は32節にあるように、ヨハネが「義の道を持ってきた」時、すなわち、ヨハネが救いの道を示した時、収税人、遊女たちは、罪からの救いということを真剣に求め、悔い改め、イエス・キリストを救い主として受け入れたからである。

イエスさまは、心かたくなな兄のような者たちにも、神の国に入ってもらいたいと願っている。31節後半を今一度ご覧ください。ここで「・・・あなたがたより先に」ということで、かたくなな彼らが後から入るとは保証してはいないが、絶対に入れないと突き放してもいない。イエスさまは人々が悔い改めるのを待ち続けておられる。

私たちは心かたくなで、自分の信念とか人生哲学とかを手放したがらない。今までの慣れ親しんできた考え方や、ため込んだ知識を手放したがらない。年を重ねれば重ねるほど、そうなる。これまで築いてきた自分というものを揺るがされると、判断を中止し、わかろうとしない。これ以上、聖書の話を勧められたら、自分の非を認めなければならなくなる、プライドが傷つけられる、習慣化した生活も変えなければならなくなる、そう反応して、判断中止、求道中止、討論中止となる。「今まで、神々の行事を行ってきた、それを今さらやめるわけにはいかない。」「無神論で通してきた。今さら神に頼るなんてかっこう悪い。」「人間の先祖はサルだ。それを信じなかったら神を信じるしかなくなる。そんなことできない。」「キリストの十字架はあなたの罪のためと言われても、いまさら罪人扱いされるなんてまっぴらごめんだ。」「キリストの復活は真実だと言われても、死人の復活なぞ信じることは現代科学を信じる俺のプライドが許さない。俺は死んで終わりの人生でいい。」「クリスチャンの生き方は認めてもいいが、それは自分にとっては窮屈だ。今信じるわけにはいかない。」「もし今信じたら、身内、世間からどう見られるか。」こうして、つまらないプライドにしがみついてしまう。クリスチャンでさえも、自分の罪を認めたくないというプライドが働く。「なんてったって私はクリスチャン。何十年と信仰生活送ってきたのだ。非難される覚えはない」。そして「自分は悪くない。謝るなんてわたしのプライドが許さない」となる。

聖書を読むと、「祭司長、長老、律法学者たち」は、自分が罪人扱いされるのが大嫌いな人たちだったことがわかる。また、先祖が作り上げてきた意味のない伝統に固執していたことがわかる。このような人たちは現代も大勢いるだろう。また彼らは、キリストは誰であるかということにおいて判断中止した。けれども、私たち人間は、キリストとは誰か、キリストは何のために来られたのか、なぜ十字架についたのか、そうしたことを誠実に追求しなければならない。キリストを信じることは理性の敗北、学究的探究心の放棄という前に、聖書を丹念に読むべきである。そうせず判断中止している人が多いのではないだろうか。自分のプライドは捨て、その上で、理性と知性を最大限に働かせて、聖書を読み進め、キリストとは誰なのかを見きわめていただきたいわけである。そして、キリストの十字架はわたしの罪のためであったと認めていただきたいわけである。キリストの十字架は<人類の罪のため>という理解では足りない。<わたしの罪のため>と受け取らなければならない。しかも、その罪には、日ごとの具体的な、あの罪、この罪が入る。その個々の罪は、キリストが血を流さなければ償えない種類の呪われた実体である。この罪から私たち贖うために、キリストは天の栄光をかなぐり捨てて、私たちの罪を負い、人間として最低ランクの死に方を選んでくださった。木にかけられた者は呪われるとあるとおりに、呪われた者となってくださった。神のひとり子であるにもかかわらず。

私たちはキリストほどプライドを放棄した方はおられないことを知る必要がある。キリストは逃げも隠れもせずに捕縛された。審問とむち打ちの後、約30キロの十字架の横木をかつがされ、通りを見世物になりながら刑場まで歩かされた。そしてクズ人間対象の公開処刑がゴルゴダの丘で執行された。キリストは血まみれのまま、罵声を浴びながら絶命した。ここまでプライドをかなぐり捨ててご自身を犠牲にされたのは、いったい何のためであったのか、いったい誰のためであったのか。誰の罪のためであったのか。何の罪のためであったのか。私たちの過去の罪のためであっただけではない。今日の罪のためでもあった。未来の罪のためでもあった。キリストの十字架は時代を越え、空間を越え、私たちの罪に働く。二千年前の十字架を今日の現実、今の現実、明日の現実としよう。十字架にかかられたキリストを前に、私たちはプライドを捨てて心貧しくなろう。頑固さは災いを招く。日ごとにキリストの十字架の前に額ずこう。神の国は心貧しい者たちの国なのである。