日本のことわざには、木が良く用いられる。「木強き時はすなわち折る」。強い木は風雪によって折れることから、一見、強そうにしている人が自分の力に頼りすぎて滅びる様を言う。「柳の枝に雪折れなし」。強そうに見える人よりも、柔和そうに見える人のほうが、かえって良く耐える様を言う。

「木静かならんと欲すれども風止まず」。これは、木は静かであろうと欲しても風が止まないので静かになれないというのが意味の一つとしてあるのだが、私の勝手で別の意味を読み込んでみた。木そのものは自分から騒がずに静かに立っている。しかし風はおかまいなしに吹きつけてくる。木は多少ざわつく。けれども、風が止めば、木はまた静かに立ち続ける。私たちは日常の世界において、思いがけない出来事等で動揺を余儀なくされることがある。けれども、風は吹くものだと割り切り、静かに立ち尽くす木であればいい。多少ざわつくことになるが、いちいち風に心を奪われることはない。神さまに信頼を寄せれば、多少ざわついても、静かに立っている木であることができる。そのような木をイメージしてみた。

その他に、「実を見て木を知れ」というものもある。その人のふるまいを見れば、その人がどのような人であるかがわかるというもの。これに近いのが、今日のいちじくの木のお話。実はイエスさまは今日の箇所で、人間をいちじくの木にたとえている。皆さんが、ご自分を木にたとえられたら、どうなるだろうか。たとえてみるのもおもしろいと思う。以前、雑誌を読んでいたら、樹齢1200年の北海道北東にあるミズナラの木が紹介されていた。度重なる自然災害の中でも生き抜き、奇跡と言われている木らしい。セミの幼虫はミズナラの下で育ち、樹液はクワガタのごちそうになり、秋に落とすドングリの実はクマやリスの食べ物になりと、長年にわたり自然界に貢献してきた。この木は「慈愛に満ちている」という表現までされていたが、人の模範に感じてしまうような木である。

福音書の舞台は、イスラエルである。いちじくの木はパレスチナ地方でたくさん見られた。いちじくは元々アラビア起源で、紀元前3000年頃からあっただろうと言われている。しかし、創世記3章のアダムとエバのストーリーにいちじくは登場するので、実際は紀元前4000年頃からあったことはまちがいない。いちじくは日本でもおなじみの果実である。このいちじくは、旧約聖書でも人間にたとえるのに用いられている。それは良い意味でも悪い意味でも用いられている(エレミヤ24章5節、ホセア9章10節、ミカ7章1節)。旧約聖書を読んでいる人は、イエスさまはいちじくで人間のことをたとえているとピンと来るだろう。

聖書の舞台は西アジアであるわけだが、西アジアでは、いちじくというのは年に二度、実を結ぶと言われている。年中、実が見られるところもあると言う。今日の物語を把握するには、時期はいつ頃のことで、場所はどの辺りかということを把握することが必要になってくる。時期は4月頃。場所はイスラエルのオリーブ山の東側。そこで見られる野生のいちじくのことである。この場所では4月頃はすでに青い実をつけていたと言う。それは6~7月にかけて成熟する夏いちじくのことである。4月頃のいちじくの実は味はまだ良くはないが、お腹が空いているのであれば、食べられないこともない。葉が出ているのであれば、なおさらのことである。というのは、葉が出る前に実をつけ始めるからである。葉が出ているということは、実が食べられる状態になっていたことのしるしであった。春に若葉が出るときはすでに実をつけている。まだその実は熟していないが、食べられないこともない。そんなに美味しくはないが、お腹が空いている人にとっては腹の足しになった。葉が出ていることは、わたしは実をつけていますよ、食べられますよ、というしるしだった。葉は実の広告塔であった。しかし、この場合、葉が出ていても、実をつけていないということにおいて、偽りの広告であった。葉が出ているのに実をつけていないというのは全く異常ななことであって、それはオールシーズン実を結ばないことを意味していた。年間通じて実を結べない木であることを意味していた。一年中実を結ばない木。おそらくは半永久的に実を結ぶ可能性はない木である。

イエスさまがこの木を枯らしたことについて疑念を抱く人はけっこう多い。自然愛好家の間では、野草を持ち去らないようにとか、登山道具で草花を傷めてしまわないようにとか、注意を喚起するわけである。まず、心に留めておきたいことは、この場合のいちじくの木は、実を結ぶ可能性のない役に立たない木であるということ。観賞用の木であったらわかるが、そうではない。もうひとつ心に留めておかなければならないことは、葉しか茂らせない、見かけ倒しの、人目を欺くこの木を視覚教材にして、私たちに大切なことを教えようとされたということ。腹いせに枯らしたのではない。イエスさまはこれまでも自然界を通して神の教えを語られることが多かった。鳥、動物、天候、草花などを用い、そして、今日の場合、人々の堕落とその人たちへの裁きを表わすのに、実のないいちじくの木を用いようとされたということ。あなたがたもこの木のようになってはいけないのだよと。もしこの木のようになってしまうのならば、神の裁きを覚悟しなければならないのだよと。私たちは、この一本の木を惜しむ気持ちがあるのならば、イエスさまは何を一番惜しんでおられるのかを知っておきたい。「この木のように、見かけ倒しで終わってほしくないのだよ。実を結ばない人生で終わり、滅んでほしくはないのだ」。このように私たちを惜しまないではいられないイエスさまの心を汲み取りたい。イエスさまが何よりも惜しんでおられるのは私たち一人ひとり。

旧約聖書のヨナ書の最終章である4章には、神さまが一本のとうごまの木を枯らす物語がある。ヨナという預言者が、ニネベという悪の吹き溜まりのような罪深い町で神のことばを伝えた後、ニネベの町はどうなるかと、町全体を見渡せる場所で観察していた。ヨナは、神さまはなぜこんな罪深い町を救おうとされるのか、滅ぼしてしまえばいいのにと、不機嫌であった。神さまは不機嫌なヨナをなだめるために、日照りから彼を守るために、一本のとうごまを備え、彼の頭の上に陰がかかるようにされた。しかし喜んだのもつかの間、神さまは翌日、このとうごまを枯らしてしまう。当然、ヨナの頭には太陽がジリジリと照りつけることに。ヨナはなぜ枯らしてしまったのですかと死ぬほど怒る。神さまは、こう言われた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか」(4章10,11節)。このことばでヨナ書は終わる。一本のとうごまを枯らしたことには大きな教訓が込められていた。

このいちじくの木は、直接的には、当時のイスラエルの人々の荒廃した霊的状態を表わしている。当時のイスラエル人たちは、神さまの名を良く口にした(マタイ15章7~9節参照)。神さまが喜ぶのだという規則もたくさん作って、それを守っているようでもあった。形式的に神礼拝の儀式をしていた。年に何度か、色々な祭りも行って皆で参加していた。一見すると葉はにぎわっていた。しかし注意深く見ると、葉だけが茂っていて何もないという見かけ倒しであったわけである。それは21章においては、12,13節の神殿でのキリストの「宮きよめ」によって暗示されている。キリストは神殿で商人らを蹴散らし、商売道具をぶっ倒し、お金をばら撒いた。当時の神殿は悲しむべきことに金儲けのセンターに堕ちてしまっていた。神殿側は、神を利用して、商人を使って、儲ける仕組みを作っていた。神殿に向かう民衆たちも、その信仰は形骸化していたと思われる。当時のユダヤ人たちは、形式的な葉を茂らせていたにすぎなかった。本当の意味での神を恐れる思い、従う思い、聖さ、人へのあわれみ、そういうものが乏しかった。見かけだけで、いわゆる偽善に陥っていた。偽善、それは葉を茂らせているだけだということ。心を支配していたのはむさぼりの罪、貪欲、汚れ、そうしたたぐいのものであった。彼らへのさばきは、約40年後の紀元70年に訪れるわけである。ローマ軍によって壮麗な神殿は破壊され、120万人のユダヤ人が捕虜も含めて犠牲となり、エルサレムは陥落する。実のないいちじくに対するイエスさまの行為は、前回の「宮きよめ」に続き、裁きのデモンストレーションになっているわけである。しかし、これは悔い改めを願うからこその、愛のパフォーマンスなのである。

実のないいちじくは他人事ではない。私たちは人々への手前、葉だけは茂らせようとする。神の戒めを破っていながらそうは見させない巧妙な行動体系で人も自分も欺いてしまう。私たちはみこととばを通して、自分と向き合わなければならない。本当の自分はどうなのかと。神に近づかれ、覗きこまれたら、どうなのかと。葉は茂っていても肝心の実は結んでいないということがありうる。非難の矛先を周囲に向けるだけの暇があったら自分に向けたい。旧約時代にイザヤという高潔な人物が登場する。その時代は堕落し切っていた時代で、イザヤはそのことに心を痛めていた。しかしイザヤは自分のことを含めて、こう告白している。「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義は、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます」(イザヤ64章6節)。イザヤは、自分たち人間の正しさなどというものは不潔な着物といっしょだ、自分たちは木の葉のように枯れてしまう、と言っている。とっても、とっても、へりくだった見方である。霊的傲慢を捨て、このような見方ができたら幸いである。

さて、キリスト在世当時のイスラエル人の問題はもう一つあり、それは神の救い主を受け入れる心がないということ。イスラエル人といえば、旧約聖書が預言しているメシヤを待望している人々だった。そのメシヤが出現した。イエス・キリストである。ところが15節を見ていただくとわかるように、イスラエルのリーダーたちである祭司長、律法学者たちは、彼らはメシヤを待ち望んでいたはずなのに、実際そのメシヤが現れたら、拒んでいる。受け入れる気持ちはない。こうした状態も葉だけで実がない様を表わしている。祭司長、律法学者たちは、キリストに自分たちの罪を指摘されるばかりでおもしろくない。ねたみと憎しみと怒りの感情を露わにするばかりであった。

では、キリストが私たちに求めている実とは何だろうか。救いの実とか、信仰の実とか、義の実とか、様々な言い方がされるが、愛、聖潔、神への従順、神への畏れ、そうした実質的な実が入るだろう。こうした実を結ぶために、二つのことを聖書は命じている。一つは、罪の悔い改めである。まず、先にお話したようなイザヤのようなへりくだった自己理解が必要である。「私たちはみな汚れた者のようになり、私たちの義は、不潔な着物のようです」。それはがんこに自分の正しさを主張することではない。悔い改めというのは、へりくだって神の前に自首するということである。これは自分のプライドを捨てないとできないことである。誰も自分の罪を指摘されたくないし、認めたくない。プライドの高いユダヤ教指導者たちはこれができなかった。けれども、これが不可欠である。霊的傲慢は何の得もない。バプテスマのヨハネは彼らに向かって言っている。「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」(マタイ3章8節)。

第二に、救い主キリストにとどまり続けるということ。実は今日の物語の三日後に、キリストは罪を裁く道具、十字架につけられることになる。キリストは十字架刑に服することをよしとされた。それは罪があるからではない。自らの意志で罪人の代表となり、罪人の身代わりとなり、十字架の上で裁きを受けようとされたということ。キリストは十字架の上で私たちの罪を負われたのである。何の罪もないお方がへりくだってこの裁きに服してくださった。私たちが罪に定められることがないようにするため。罪の滅びから救われるために。このキリストを私の罪からの救い主として信じ受け入れるときに、罪は赦され、義と認められる。そればかりか、信仰によってキリストと結び合わされることにより、実を結ぶキリストのいのちが私たちのうちに働くようになる。キリストはこうも言われた。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます」(ヨハネ15章5節)。旧約聖書では、神の民をいちじくの木だけではなく、ぶどうの木にたとえることが多い。キリストは私たちを、ぶどうの木の一部である枝にたとえようとされている。枝は木にとどまっていなければ当然実を結べない。枝だけでは結べない。枝は木にとどまっていないと実を結べないばかりか、やがて枯れてしまう。枝は当たり前のごとく木にとどまっているべきもの。私たちは自覚的に何にとどまっているだろうか。自分の知恵、自分の力にとどまっている。気が散漫して、あっちにもこっちにもとどまってしまう。いや、何もとどまれない。暑くでハァ~です、かもしれない。いずれ、とどまるべきのものにとどまらなければ実を結べない。「わたしにとどまりなさい」という主の御声を聞こう。そしてキリストの一部になろう。

次に後半の21~22節を見よう。イエスさまはいちじくの木が枯れたことを転機に、山を動かす信仰について語る。この時、イエスさまと弟子たちはオリーブ山を見ていた。このオリーブ山の20キロ先には、死海があった(塩分の強い湖)。信仰をもって疑うことがなければ、オリーブ山に向かって「動いて海に入れ」と言えば、オリーブ山は動き出して死海にドボンと入る。実は、「山を動かす」というのは、ユダヤの慣用句で、「困難な問題を解決する」とか「大きな障害を取り除く」ということを意味していた。砕けた言い方をすると、無理だと思うことがそうなる、ということ。「山」は困難や障害の比喩として良く使われていた。

この場合、「山を動かす」というとき、実を結ぶことを妨げる困難という山を動かすという視点をもつことができる。その場合、山とは人間のがんこさ、頑なさの象徴となる。山を動かすその手段は22節で言われているように、信じて祈るということである。「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます」。このみことばについて証がある。

私は大学1年生の時に川崎市の教会で求道して信仰をもった。私がまだ求道中の頃、ある日の礼拝で、スギヤント・スカルノというインドネシア人の神学生がメッセンジャーとして招かれ、みことばを取り次いた。インドネシアと言えば、イスラム教が盛んな国である。彼はインドネシアでは有名人で、イスラム教に献身し、ちょうど救われる前の使徒パウロのような人だった。柔道ではチャンピオン、カーレーサーではあらゆる賞をとり、プロドラマー、プロシンガーとしても頭角を表わし、自分の作ったバンドで各地で演奏旅行をし、一方宗教活動家としても、いつしかインドネシア全土を回教国にするという野望に燃え、リーダーとして活躍していた。彼は社会的地位や名声を手に入れ、多くの人の羨望の的になりながら、しかし空しさは消えず、いつも人を意識し、もうひとりの自分をつくることに疲れ果てていたそうである。死んだらどうなるかの確信もなくいらだちも消えないでいた。そんな中、彼は1200CCのバイクに乗って山道を走っている時、スリップ事故を起こして瀕死の重症を負ってしまった。そのそばを青年クリスチャンが通りかかり、そばに近づくと聖書を取りだし読み始めた。そのあと静かに祈って病院に運んでくれた。意識を取り戻した時に、みことばが目に飛び込んできた。「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです」。彼は自分が一番嫌っていたキリスト教の病院に運ばれたことに気づいた。後に彼は自分の罪を認め、信仰をもち、180度回心することになる。彼は献身し、やがて日本の神学校に導かれことになる。

その日の礼拝メッセージのテキストは今日の箇所だった。メッセージの内容は余り覚えていないのだが、一つのみことばに心が留まった。「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます」である。メッセンジャーは、「信じて祈り求めるものなら救われます」という話はしなかったが、私は単純に、「何でも与えられます」という約束なのだから、信じて救いを祈り求めるものなら、私の救いは与えられる、と受け取った。礼拝は終了し、求道者会に出席し、アパートに帰った。私は三浦綾子さんの本を読んだり、求道者会で貸していただいたテープを聞いて、自分のたましいは罪に売り渡されているようなものであることを認め、アパートのベランダに出て、信じて祈り求めるものなら救われるのだと言い聞かせ、「神さま、わたしを救ってください」と祈った。この時が私の救いの時だった。

皆さんも「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます」のみことばに捕えられていただきたいと思う。神さまに不可能はない。神さまは私たちを救ってくださる方である。私たちを滅びの淵より救い出し、神の子としてくださる方である。神さまに救いを祈っていただきたい。神さまは、変わりたくても変われないという性質も変えてくださる方である。

すでに救いに与っている方は、自分以外の他の人々の救いのために、このみことばの約束を握って祈っていただきたい。また、山のように動かない困難に感じている他の問題もあるかもしれない。いや、あるだろう。それは単に人格的問題とばかり限らず、肉体的問題、またはシステム的な問題かもしれない。それらは神さまにとっても動かすのがいいと判断される問題であるならば、神さまは動かしてくださるはずである。自分の前にそびえる山を見て、圧迫感からため息だけついていても仕方がない。「これまでその山に悩まされ絶望してきた。もう自分には何の手立ても力も残っていない。策は尽き、力は尽きた。」だがまだできることはある。祈りである。キリストの御名によって祈り、祈りによって山を動かそう。神は山を動かし、栄光を現してくださるだろう。