前回はキリストが平和の王としてエルサレムに凱旋入城される場面から教えられた。その日は日曜日であったが、今日の記事は、その翌日の出来事である。マルコの福音書11章11節より、イエスさまは日曜日に子ろばに乗りエルサレム入りされると、神殿に行かれ、辺りを見回した後、郊外のベタニヤ村に退いて泊まられたことがわかる。翌日の月曜日、また神殿に上られ、一般に「宮きよめ」として知られる今日の事件が起きる。何回この記事を読んでも、ここまでしなくても良かったのでは?と思ってしまうという人も多いのではと思う。その謎解きをしよう。

この時、世界の支配者と言われていたのはローマ皇帝。ローマ皇帝は神として、世界の王として君臨し、イスラエルをも支配していた。イスラエルはかつて紀元前1600年頃、エジプトの奴隷状態から救われ、約束の地カナン入りを果たしたのだが、バビロンなどの敵国によって神殿は壊滅し、民は捕囚とされてしまう。紀元前6世紀に神殿の再建を果たすのだが、敵国の圧制は止まない。彼らはこの時、新しい出エジプトを求めていた。そしてこの時代、メシヤが出現し、世界の王となるという機運が著しく高まっていた。メシヤが出現し、敵国を一掃し、王権を確固たるものとされると。時機にかなってイエスさまがメシヤとして出現する。イエスさまは王としてのパフォーマンスをもってエルサレムに入城される。もしイエスさまが軍事的メシヤであったら、エルサレムに入り、まずどうしたであろうか。軍隊を招集してローマの駐屯軍を攻撃したであろう。イスラエルを敵国ローマの手から救うのだと。しかし、その気配はない。イエスさまは軍馬ではなく平和の象徴であるろばに乗って入城し、武器はもたず、武具も身に着けておらず無防備である。イエスさまはローマ人を攻撃しようという気はさらさらない。その矛先は以外にも同国人に向けられた。イエスさまにとって一番問題に感じていたことは圧政を敷くローマではなくて、神の神殿で不義を行っていたイスラエル人たちであった。神の神殿が汚され、なおざりにされていたということは、イスラエル人たちが救いようもない霊的状態にあったことの象徴だった。

キリストという救い主は、軍事的、政治的メシヤとして来臨したのではない。他国の圧制、圧迫から国民を救う社会的救い主として来られたのではない。もちろん、再臨された時、イエスさまは御国を完成し、真の意味での社会的平和をもたらされるであろう。しかし、イエスさまは社会的構造改革のために来られたのではなく、罪からの救い主として来られたということである。社会を救うという前に罪人が救われなければならない。社会の構造を変革しようとしても、社会を構成する罪人自体が救われなければ、絵に描いた餅で終わってしまう。ただ社会の平和を謳うだけでは社会的共産主義と同じである。まず罪が取り除かれなければならない。人間の罪を直視しないで理想郷の実現を目指すことは不可能である。まず見つめなければならない問題は社会悪の根源である人間の罪。それが取り除かれなければ全く意味をなさない。キリストは平和の王としてエルサレムに入城されたわけだが、今日の行動は平和を損なう罪の指摘となっている。

その矛先は同国人に向けられる。私たちは悪いのは支配者側だ、悪いのは融通のきかない制度だ、悪いのは自分たちではない、と周囲を問題にするかもしれないが、だが、まず自分たちの「宮きよめ」が必要かもしれない。その宮とは、私たち自身と言ってよい。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です」(第一コリント3章16,17節)。このみことばから、「宮きよめ」は私たち自身に、また教会に適用できると言えるだろう。このことについては後半に見ていきたい。

さて、キリストが入った神殿だが、過越しの祭りの時期だったので、数千人の人々がいたと思われる。神殿の全体像だが、建物の神殿の前に「祭司の庭」があった。そこで全焼のいけにえをささげる祭壇等があった。その外に「イスラエル人の庭」があり、この庭で礼拝が行われていた。その外の一段低いところに「婦人の庭」があり、入口は美しの門と言われ、ここはイスラエル人であるならば誰でも入ることが許された。これらを全部囲むかたちで「異邦人の庭」があって、正方形を形づくっていた。イエスさまがきよめをしたのは、この一番外側の「異邦人の庭」。異邦人の庭で異邦人は礼拝した。この「異邦人の庭」で、大祭司アンナスの保護のもとで門前市が行われていた。大祭司アンナスは邪悪な男で、権力と富とに目がくらみ、富を得る手段として神殿を利用していた。異邦人の庭での彼のビジネスは「アンナスの市」として知られていた。商人たちは、いけにえにする動物、ぶどう酒、油、塩といった物品の販売権をアンナスにお金で払って得ていた。また両替人たちも、その権利をお金で買っていた。

なぜこうした商人がいたのかということだが、まず神殿にささげるいけにえは当然のことながら必要であり、律法でも規定されていた。祭りの日に各地から巡礼してくる人が、自宅からやぎや羊を連れてくるのはたいへんだった。また、連れてきても、ささげる前の検査でひっかかる可能性があった。傷のある動物はささげられなかった。そこで礼拝者たちは現金を携えてきて、検査済みの動物を買った。こうしたことは律法でも許している(申命記14章24~26節)。また両替だが、これは税金納入と関係がある。律法では、すべてのイスラエルの成人男子は、半シェケルの税金を宮に納めることを規定している(出エジプト30章11~16節)。イエスさまはペテロとともにこれをすでに納めている(17章24~27節)。半シェケルの税金は、過越しの祭りの約1ヶ月前に、イスラエルの各町村に設けられている出張所で納めることができた。しかし、一定の期限が切れると、あとは直接神殿で納めなければならなかった。またイスラエルに住んでいなくてローマ帝国各地からやってくる巡礼者たちは、直接神殿に納めるしか方法はない。納めるにはローマの貨幣をイスラエルの半シェケルに両替する必要が生じた(円をドルに換金するようなもの)。これを悪用したのが祭司と商人たちであった。タッグを組んで金儲けをしようとした。

両替の場合、半シェケルを替えるごとに高額の手数料を要求した。半シェケルは当時の労働者の二日分の賃金に相当するが、手数料は一日の労賃の半分に相当する額であったという(25%)。この手数料の一部も祭司たちの懐に入った。いけにえにする動物も法外な料金で売られていた。動物は神殿の外でも買うことはできたが、しかし、動物は傷のないものでなければならないという規定を利用して、検察官は、神殿の外で買った動物は必ずといっていいほど不合格にして、神殿の中の売店で買うように指示した。たとえば神殿の中で買う鳩の値段は、神殿の外で売っている鳩の15倍もしたと言う。いけにえにする動物は、通常の10倍以上の価格で売られていたことはまちがいないようである。その売上げの一部もアンナスたちのふところに入る仕組みになっていたようである。イエスさまが13節で「強盗の巣」にしていると非難したのはもっともである。門前市それ自体は、旧約聖書も許していた制度で問題はない。いけにえは必要であったし、遠方から来る人たちは購入するしかなかった。税金も神殿補修等のために用いられ、それは必要であり認められていた。ローマ帝国各地から来る人のためには両替も必要であった。だから、動物を売ることも、税金徴収も、両替もそれ自体、何ら問題ではない。それらはすべて神礼拝にかかわることであったから。問題は神に関することを利用して私腹を肥やすという姿勢である。私利私欲のために神を利用するという姿勢。教会のバザーも「神のため」という目的からそれるものであってはならない。会堂建設、海外宣教等、目的を明確にする必要がある。自分の儲けに回すなどということはあってはならない。ユダヤ人がやっていたように、その物品に見合わない法外な高い値段をつけて売りさばくことも論外である。家で余った賞味期限が切れたものを売るというのも論外。購入する側も神に献げるためのバザーであることを意識して、値切って買おうとか、スーパーで半値になる時間を待つようにして、意図的に値下げとなる時間帯をねらうというのもふさわしくない。

当時の文脈に戻るが、神殿がただ、自分たちのむさぼりの場になっていた。パウロは「不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者、これが偶像礼拝者です」(エペソ5章5節)と明言している。幸いにもイスラエルの神殿の場合、異教の神殿や日本の昔の神社に見るように、売春巫女の宿まではなかったが、あとは一緒の状態と言っていいかもしれない。礼拝に訪れる者たちも、形式的になっていて、お祭り気分はあっても、心の真実が伴っていないという人たちが多かっただろう。

イエスさまはこの異邦人の庭でどうされただろうか(12節)。これはけっこうすごい光景である。むさぼりの商売を禁止し、不敬なやからを追い出す。両替人の台はひっくり返す。お金は地面にバラバラ転がる。鳩は驚き、バタバタ飛び上がる。これは、単にきよめではない。この行為は余りにも乱暴のように思えるけれども、ここにイエスさまの愛を覚えてほしい。この事件との関連で知っていただきたいことは紀元70年に起こるエルサレム神殿の破壊である。町はローマ軍によって包囲され、エルサレム神殿は廃墟となり、エルサレムは陥落することになる(24章1,2節)。神さまはローマの軍隊を用いて彼らの不義を裁かれる。死者と捕虜とを合わせ120万人が犠牲となる。ヨセフスの記録によると、毎日500人以上が十字架にかけられ、十字架にする木も場所も不足するほどであったと言う。神の神殿、神の都は壊滅し、神の民は想像を絶する犠牲を負うことになる。この災いを知って、イエスさまが「ああ、エルサレム、エルサレム」と嘆かれる場面もある(23章27~28節)。イエスさまの神殿での行為は単に裁きのデモンストレーションというのではなく、彼らに悔い改めを願っておられてのことであることがわかる。イエスさまの愛の心がそうさせた。ただの義憤ではない。イエスさまは彼らに降りかかる災いを覚えて、神が怒り悲しんでおられることを彼らに知って欲しかった。神に立ち返る心をもって欲しかった。イエスさまは、ただ黙って指をくわえていることなどできなかった。

祭司たちも商人たちもイエスさまのこの行為に余り抵抗した感はない。一人の人物に余り抵抗した感はない。ペテロをはじめとする弟子たちも呆気にとられて見ていたのだろうか。この時、人々はものを言わせないキリストの権威というものを感じていたのかもしれない。イエスさまはこのように行動したからといって、偽りの宗教体制がすぐに変わるとは思っていない。しかし偽りの宗教体制に対する神の怒り、神の聖さといったことを証し、一人でも多くの人に、神の御思いに気づいてほしいと思われただろう。

では次に、私たち自身が神の神殿であるということを覚えつつ、神の神殿はどのようなところでなければならないのかを見ていこう。第一に、神の神殿は祈りの家であるということ(13節)。このことばはイザヤ56章7節の引用であるが、「祈りの家」とは、神との神聖な交わりの場である。神との交わりの場としてふさわしく整えられていなければいけないということを覚えさせられるが、「祈りの家」ということは、神が臨在するということが前提としてある。第一コリント3章16節では「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」とあり、第一コリント6章19節では、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものでないことを、知らないのですか」と言われ、エペソ3章17節では、「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように」と言われている(ヨハネ14章23節参照)。私たちは神の神殿、聖霊の宮、キリストの住まいである。なんという啓示だろうか。神が私たちのうちに住まれるとは。私たちはそれを覚えて、自らをふさわしい神殿となそう。神殿にふさわしくないのは偶像礼拝である。「不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者、これが偶像礼拝者です」(エペソ5章5節)という事実を覚え、むさぼりは悔い改め、神さまに自らの心とからだを明け渡そう。

第二に、神の神殿はあわれみの心ですべての人を受け入れるということ(14節)。イエスさまは商売人を追い払っても、盲人や足の悪い人を追い払わなかった。盲人や足の悪い人たちは貧しい人たちだった。物乞いのために神殿に集まってきていた。彼らが障害をもっているのは、自分の罪か両親の罪のせいだろうと決めつけられ、多くがさげすまれ、神の祝福に与れない人たちと思われていた。しかし、イエスさまは彼らをあわれまれた。具体的にそれはいやしのみわざとなった。この時代、盲人や足の悪い者たちは巡礼することはないと言う人たちもいた。それはエルサレムの神殿に来るのはたいへんだろうという意味ではなく、あなたがたのような卑しい者たちは来ることはない、という意味で。実は、旧約時代の記述を読むと、盲人や足の悪い人たちは神殿に入ることさえ禁じられていたことがわかるが、それは人間たちがそうしてしまったことで、神の本意はここに表わされている。神は差別したり、除外したりはしない。すべての人へのあわれみ、そうしたことが神殿の精神となる。もし、私たちの心の中に、ある種の人たちを排除しようという思いがあるなら、それはみこころにかなっていない。すべての人を受け入れる、誰も排除しない、という広い心を持とう。それが神殿の真の精神である。

第三に、神の神殿はキリストを賛美するところであるということ(15節)。祭司長、律法学者たちは、うるさい商人たちの声やお金のジャラジャラという音、動物たちの鳴き声には心を緩ませていたのに、子どもたちの賛美の声には、耳障りで困ると怒りを表す。これはおかしいことだろう。「腹を立てた」は「喜び、一緒に賛美した」であれば良かったのだが。「腹を立てた」というギリシャ語は「激しく怒った」と訳せることばである。彼らは神殿でむさぼり、なおかつキリストを邪魔者に思い、子どもたちのことも邪魔者に思い、キリストへの賛美に激しい怒りを露わにする。むさぼり、ねたみ、憎しみが彼らの心を支配している。キリストへの賛美はない。最悪の霊性である。神の神殿はキリストへの賛美こそふさわしい。私たちの心はどうなのか?むさぼりという偶像崇拝をしていないか。相手の目の中にあるちりを取り除くことばかりに腐心して、いらだちで満ちていないか。キリストよりも自分のプライドが大事になって、それにしがみついていないか。祭司長、律法学者たちは、子どもたちの賛美の声にがまんならず、イエスさまにつぶやくと、イエスさまは返答された(16節)。「あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された」は、詩編8篇2節の引用である。神殿でキリストに怒りを露わにし、おそらくは、キリストをあざけり、ののしり、陰口をたたいていた心頑なな大人たちの心に、キリストの居場所はなかった。私たちの心に、心からキリストを歓迎する思いと、心からのキリストへの賛美があるだろうか。私も心がけているつもりだが、口に出す出さないは問わず、絶えず賛美の祈りを第一にすることを心がけよう。主を賛美することこそが神の神殿の霊性である。常に主への賛美がささげられているところが神殿であるべきである。朝に、昼に、夕に、賛美をささげよう。

今日の「宮きよめ」の事件から、私たち自身が神の神殿であり、聖霊の宮であり、キリストの住まいであることを覚えていただきたい。