私たちは今、宇宙船地球号に乗って、たいへんなスピードで大宇宙を飛んでいる。宇宙の静止した場所から今、教会の椅子に座っておられる皆さんを観察すると、実は皆さんは今、地球と一緒に宇宙空間をたいへんなスピードで動いている。地球は皆さんを乗せて、太陽の周りを一秒間に30キロの速さで回っている(時速30キロではない)。それだけでなく、太陽と一緒に銀河宇宙の中を、ある方向に毎秒240キロの速さで進んでいる(新幹線は時速270キロ)。驚くべき速度。私たちは自覚していなくとも、宇宙船地球号という乗り物に乗って、驚くべきスピードで宇宙を旅している。そして、私たちが旅をしている宇宙空間は果てしなく広い。太陽のように自分で光を放つ星を「恒星」と言うが、太陽に一番近い恒星はケンタウルス。このケンタウルスにたどり着くまでは、一秒間240キロの高速で進む宇宙船地球号のスピードを千二百倍スピードアップして、一秒間30万キロの速さで進む光の速さで飛び続けたとしても、4.1年要する。こうした恒星が2千億~4千億個集まっているのが、私たちが属する銀河系。銀河系の広さは10万光年。さらに大宇宙には、銀河系と同じような星雲が1千億個はあるだろうと言われている。銀河系に一番近い星雲はアンドロメダであるが、近いと言っても銀河系との距離は250万光年もある。これを考えただけでも、宇宙は気の遠くなるくらい大きいことがわかる。実は、宇宙の大きさは余りに広大すぎて、現代の科学でもわかっていないと言う。有限なのか無限なのかさえもわからないと言う。

この大宇宙の中で、私たちが住んでいる地球は、まちがいなく特異な存在である。二十世紀に入って、人間は月や火星の調査に出かけた。しかし、そこは死と沈黙の世界であることが分かった。しかし、地球は変化に富んだ地形が目に映り、山、川、海、そしてそこに生きるさまざまな動物、美しいデザインをもった植物などで満ちあふれている。なぜ、私たちの住んでいる地球には、こんなに美と生命が溢れているのだろうか。また、この地球を特異な存在としているもう一つの要因は、人間の存在である。人間存在のルーツもまた宇宙の神秘の一つである。科学者は、これらの謎を解くべく「生命の起源」に着目している。そして物質が単純な生命体をなり、単純な生命体が自然に集まって、高度な生命体にまで進化したと推論する。しかし、この推論には様々な難点があることがわかってきている。確率の問題がある。たとえば単純な生命体であるタンパク質一個とってもそうである。タンパク質は数百個ものアミノ酸という物質からできている。これらのアミノ酸が集まってタンパク質を組み立てる可能性は気が遠くなるほど低いのだそう。そして実は、タンパク質を構成するアミノ酸一個できる確率も、気の遠くなるような数字なのである。それは、くず鉄置き場からジャンボジェット機一機が忽然と姿を現す確率と変わらないのだそう。東大の野田春彦教授は、物質の偶然の集合が単純な生命体を生み出すことがいかに難しいことなのかを、たとえを使って次のように説明している。「ラジオを一つ組み立てる場合にも、一揃いの部分品を樽の中に入れて、ハンダとともにぐるぐるかき回しただけでラジオになる確率はどのくらいのものだろうか。偶然を待っていては、たとえ、何十億年、何百億年の時間があっても、望みがないと言えるのではないだろうか」。野田教授は、生命の誕生自体がいかに難しいものであるかを伝えてくれている。すると、偶然の重なり合いによる人間の誕生は、さらに可能性がなくなる。

小学生の時、父の日に部落の子どもたちが集まってカレーライスを作り、公民館で父親たちにふるまうことをしていた。もし偶然が真実なら、皿に乗っているカレーライスを見て、風が吹いてきて野菜が転がり包丁にぶつかりひとりでに切れて、また風が吹いてきて勝手に鍋に入って、今度はインドから香辛料が飛んできて鍋に入って、養鶏場から逃げ出してきたニワトリが、はずみで鍋に飛び込んで、偶然火事が発生して、良く煮えて、今度は地震が発生して、皿の上にご飯とカレールーがうまい具合に乗っかった、しかも丁度12人前…ということくらい信じられなければならなくなる。もし奥様が主人の好物だからということで、特性のルーを使ってフルーツカレーを作ったとする。それを見たご主人が、「これは偶然できた。お前が作ったんじゃない」とか言ったら、奥様は「誰のために作ったと思っているの」とカンカンに怒りたくなるだろう。明日から自分で作りなさいと。もしくは夫は頭がイカレたのではと、心配になるだろう。だが、事はカレーライスのことではなくて、この地球、そして私たち人間のことである。私たち人間は、この地球と人間の誕生に携わったお方を無視している。聖書はそれを罪と呼んでいる。

地球も私たち人間も偶然の産物と過程した場合、問題は科学、物理学の問題だけではなくなる。人生とは?人は何で生きているのか?という問題にまで波及する。もし地球も人間もすべてが偶然の結果にすぎないとなれば、人類がそして皆さんが存在していることにも、別に意味も目的もなくなってしまう。というのは、偶然には意味も目的もないからである。イギリスの文豪、サマセット・モームは、その名作「人間の絆」の中で、主人公のフィリップの口を借りて次のように言う。それは全ては偶然であったのなら、実に的を得ているセリフである。「人生に意味というものなどないのだ。空間を疾走している衛星の一つにすぎない地球上で、この惑星の歴史の一部分である一状況のもとに、生物なるものが発生した。したがって、そのようにして始まった生命は、また別の状況では滅びてしまうかもしれないのである。…人間は生まれて苦しみ、そして死ぬ。人生に意味などというものはない。また生きる目的などというものもないのだ。…失敗してもどうということはないし、成功したからといって何の意味もあるわけではない。彼自身ほんの短い間、この地上に存在している人間の群れの中の、もっともつまらないものにすぎないのである」。これは空しい世界観、人生観である。けれども人間が偶然の産物だとしたら、真実を突いている。

聖書は明確に宇宙の設計者、創造者の存在を告げている。アポロ宇宙飛行士は月面から昇って来る美しい青い地球を見て、「地球は宇宙のオアシスだ」と言ったそうだが、人類を乗せた宇宙船地球号は、実に良く設計されている。まず太陽からの温度と距離の関係だが、金星のように近すぎると、表面の温度が500度にもなってしまう。逆に遠くなると、地球の隣の火星でも、零下51度と低くなりすぎてしまう。ところが地球はちょうど、太陽の温帯のところを回っている。自転の速さもちょうど良い。地球は一回転するのに24時間ですむところ、水星では58日間かかってしまう。これでは半分の29日間が夜になってしまうわけで、植物は育たない。また大きさも関係があり、水星のように小さいと引力も弱く、空気も逃げてしまうが、木星のように大きすぎると、アンモニアやメタンといった有毒ガスが表面にたまってしまう。しかし、地球は小さすぎず、大きすぎず、生命の呼吸にはなくてはならない大気に囲まれている。そして、動物は植物を食べ酸素で燃焼させ、炭酸ガスを吐きだし、植物は炭酸を用いて動物に必要な酸素を出すという、絶妙な組み合わせになっている。科学の発達によって、人間はようやく自然界の仕組みをかなり理解できるようになったが、その仕組みそのものを考え出した偉大な知性の存在を自然界は示しているのではないだろうか。イギリスの歴史家トインビーは、その著「未来を生きる」の中で、次のように言う。「宇宙を形造っているすべての事物の背後、そして彼方には ― これは私の確信ですが ― この宇宙に意味と価値を与えている何か究極的な精神的存在といったものが存在しています。そして、この究極的な存在、この人間の愛の究極的な対象は、多様ではなく、何か単一なものです。」トインビーは「この宇宙に意味と価値を与えている何か究極的な精神的存在」という表現をしている。またその存在は「単一なもの」であると言う。この存在について、聖書は次のように語る。「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てられた方、これを茫漠としたものに創造せず、人の住みかに、これを形造られた方、まことに、この主がこう仰せられる。『わたしが主である。ほかにはいない。』」(イザヤ45章18節)。唯一の神が宇宙を設計し、形造られた。ハッとさせられることは、このことばから分かることは、神は地球を「人のすみか」として形造られたということである。それは、今日の聖書箇所からもわかる。神は六日間で世界を創造されたことが書かれてあるが、一番最後の創造物は人間である。つまり、神はすべての環境を整えられてから、そこに人間を置かれたことがわかる。神は人間を造る前に、人間のすみかとして、すべてのものを用意された。地球それ自体が、すばらしい構造を持っている人間の家と言ってよい。もし皆さんが、道に迷ったとして、森の中で、井戸、果樹園、畑があり、空調も完備した美しい家を発見したとしよう。もし辺りに誰も見当たらないからといって、この家は偶然にできたなどとは考えないだろう。住むという目的のために誰かが造ったと考えるだろう。私たちのすみかである地球に住む動植物や、生命を維持するための仕組み、環境のすばらしさは、森の中の一軒家の比ではない。それらは神が人間のすまいとして造られた証である。そして最後に人間を造られた。

では次に、神の創造の最高目標である人間について見ていこう。人間とは何か、人間はどこから来て、何のために存在しているのか、この疑問はいつの時代にもあった。親と生き別れになった孤児たちの多くは、親探しの旅に出る。それは当然である。立派な育ての親に恵まれ、社会的にも成功し、結婚して自分の家庭を持つようになっても、ひと目本当の親に会いたいと思うものである。彼らの心は、産みの親を見いだして、自分がいったいどこの誰であるのか、自分のルーツを確かめるまでは心安まることがなかったのである。私たちは人間の本当の起源、ルーツについて知っておく必要がある。日本人の多くは先祖を崇拝する。それは先祖が自分に命を与えてくれたという感謝の思いから。では、先祖に命を与えたのは誰か。「先祖の先祖だ!」。では、その先祖の先祖に命を与えられたのは誰か。「先祖の先祖の先祖だ!」それはどこまで行き着くものなのか。「サルだ!」では、そのサルに命を与えたのは誰か。「ずっーとさかのぼるとアメーバーだ!」そのアメーバーに命を与えたのは誰か。「アメーバーの前は物質だった。」そうすると、石ころを祭って頭を下げることも尊い行為となってくる。それは問題だが、私たちは先祖を敬うということ自体は正しいだろう。では先祖に命を与えた、生命の基を忘れてもいいものだろうか。はっきり述べると、先祖をも造られた大先祖と言ってよい創造主を忘れていいのだろうか。皆さんの親やおじいちゃん、おばあちゃんを含めて、全人類の生みの親、生命の基、それが聖書が啓示している神なのである。その神を見いだすまでは、人間とはいったい何者であって、何のためにここにおり、どこに行こうとしているのかわからない。私たちを造られた神を見いだすまでは、心に平安もない。

科学的には、以前は、生命の基は物質であったと言われてきた。しかし、このことを信じている科学者は今はいないだろう。科学が進歩する前は物質永遠説が信じられてきた。創世記1章1節は、それを否定している。「初めに、神が天と地を創造した」というのは物質が存在しない時があったことを証言している。そして科学が発達する途上で、物質を細分化した最少単位、「原子」が世界の一番最初にあったものと信じられてきた。原子はドイツ語で「アトム」と呼ばれ、ギリシャ語の「アトモス」に由来している。その意味は「分割できないもの」である。しかし、原子が最少単位と言われてきた時代は終わり、原子は数種類の素粒子から構成されていることが分かってきた。原子は分割できてしまう。素粒子の実体は解明中で、大きさがないものもあると言われている。それは目に見えないエネルギーと言っても良い。以上のことからおおざっぱに言ってしまうと、今の定説は素粒子から物質が誕生し、生命が誕生するまでに至ったというもの。別の言い方では、目に見えないエネルギーがはじめにあり、エネルギーから物質が誕生し、生命が誕生するに至ったというもの。そして人間まで進化したのだと言う。科学者が今語る人間の起源・ルーツはエネルギーだということにもなる。けれども、それで終わらせていいのだろうか。宇宙の起源は素粒子、エネルギーというだけならまだしも、人間のルーツを考えるのに、それでは納得できない。人間は地上の生物の中でも実に特異な存在である。人間は知性によってことばを駆使し、文字を考え出して知識を伝達し、文明を築いてきた。この人間が持つ知性の他にも、他の動物とは全く異なる幾つかの特徴がある。たとえば善悪に対する感受性である。良心の機能である。この人間の道徳性は、人間独自の特質である。また人間の宗教性ということがある。国や文化が違っても、宗教を持たない民族はゼロに等しい。人間だけが自分を超えた存在を意識し、この存在に祈るという行為をする。

あるテレビ番組で、かわいらしい犬のショーがあったそう。チンだのブルドックだのいろいろな種類の犬が芸をするのだが、中に犬を食事させる場面があった。犬たちが前に出されたドックフードを一斉に食べようとすると、犬使いの人が、「お前たちは何か忘れていないか」と聞くのである。テレビのショーに出演していた犬たちが忘れていたのは、食前の感謝の祈りだった。犬使いの声を合図に、犬たちはそろってちんちんの姿勢を取り、目をつぶって頭を垂れた。その愛らしい姿に会場からはやんやの喝采がわき起こった。その犬たちは、頭を垂れて目をつぶって本当に神に向かって感謝の祈りをささげていたというなら、そうではない。そうしないとエサをもえらえないから、祈りのかっこうをしていたにすぎない。しかし、人間の場合、いつの時代でも、そして世界のどこにあっても、教えられなくとも、祈るということをしてきた。人間は神を意識してやまない存在であるということである。こうした、他の動物と人間をはっきり区別する人間の理性、道徳性、宗教性はどこから来たのだろうか。エネルギーから来たで説明がつくだろうか。素粒子から来たで説明がつくだろうか。物質から来たで説明がつくだろうか。アメーバーから来たで説明がつくだろうか。人間とは人格を持つ存在である。人格を持つ者は人格を持つ者から生まれたとするのは自然ではないだろうか。「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」(創世記1章27節)。ここで、人間は、神によって神のかたちに創造されたことが記してある。神のかたちに造られたのは、生き物の中で人間だけである。「神のかたち」ということばは、英語の聖書では「神のイメージ」となっているが、それは外面よりもむしろ人間の内面が神と似ていることを指していると考えられている。人間だけが神から理性と道徳性を分け与えられ、その神を信じ、祈り、神と人格的に交わることが唯一可能な存在とされている。人間の人格性は実はこの神から来ている。この世界のはじめにあったのは、決してある人々が考えているような単なる宇宙の法則とか、エネルギーではない。偉大なる人格なのである。そして、私たちは、このお方と交わるように、このお方によって造られたと聖書は証言している。

ある人たちは、なぜ神は人間を造ったのかと言う。しかし、それは、神が人格の根源であることを理解するときに分かるのではないだろうか。人格は交わる人格を求める。そして人格と人格の交わりが幸福を作りだす。人格を持つ者同志の交わり、これが幸福の本質である。だから人はモノやお金では満たされない。孤独でいることも望まない。よって、神を離れ、神を忘れ、このお方と交わらずして、人間に本当の幸福はない。それは小さい子どもが親と絶交して幸せをつかもうとするようなもの。人間は神によって造られたので、人間の心の中には神にしか満たしえない空洞がある。だから、人間は誰しも神との交わりを回復しなければ本当の平安はない。神は私たちがご自身のもとへ立ち返り、ご自身と交わることを願っておられる。それを伝えるために、神は聖書という手紙を人間に宛てて、私たちを招いておられる。

聖書において、神が創造主であることとともに、神の様々なご性質が記されている。神は正しいお方であること、真理であること、善であること、聖なるお方であること、愛であること、永遠のいのちそのものであること。全能であること、全知であること(全てを知っておられること)、私たちを恵みをもって生かしてくださっていること等。ところが私たちは自分を基準とし、自己中心に歩み、自分の知恵や力を神とし、このお方を忘れて生きている。このお方の恵みやご支配というものは考えない。感謝もない。神とは言えないものに手を合わせてしまうこともある。さらには、同じ神のかたちに造られた他者に対して、傷を負わせたり、蔑んだり、陰険な気持ちを抱いたり。聖書は、まことの神を無視することと併せ、そうしたことはすべて、神との交わりを破壊してしまう「罪」だと教えている。かつて東西ドイツの間にベルリンの壁があったが、罪とは交わりを阻む壁のようなものである。この罪が私たちと神との関係を壊している。神に立ち返ることを妨げている。神は私たちの罪を取り除き、私たちとの交わりを回復するために、イエス・キリストをこの世界に遣わされた。

最後にヨハネ1章1~3節をご覧ください。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(1節)。創世記1章1節は、「初めに、神が天と地を創造した」であったが、ここでは、宇宙創造以前に、永遠のはじめにあった存在について証言されている。その存在は「ことば」なる神である。「ことば」には人格ということを読み取らなければならない。ことばなる神は3節にあるように世界を創造された。14節前半もご覧ください。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」。この人となられたことばなる神がイエス・キリストである。「イエス」が名前で「キリスト」が救い主を表わす称号である。救い主というときに、罪からの救いということが念頭にある。キリストは目に見える神となって、神とはどのような存在であるのかを、ことばと生活を通して啓示された。それが地上に来られた目的の一つ。そして一番大切な目的は、神と人間を隔てる罪を取り除くために、十字架の上で罪人の罪を負い、罪人の身代わりとなって死の刑罰を受け、罪の裁きを終了したものとし、信じる者を救おうとされたということ。聖書はキリストを信じる者に、罪の赦しと神との交わりの回復、永遠のいのちを約束している。キリストは私たちに永遠のいのちを保証するためによみがえってくださった。今朝は神の創造のみわざとともに、救いのみわざを覚えていただきたい。キリストが十字架で味わわれた死の苦しみは、私たちが認めたくなくとも、それは確かに、私たちのために味わわれた苦しみだった。それは釘と血の残酷な物語であり、過酷な苦しみの物語である。それは私たちと何の関係があるのかと思ってしまうけれども、それは、神から離れて生きている私たち人間が罪によって滅びることのないようにと、私たちを救うためのみわざだったのである。神はキリストを通して、私たちがご自身のもとへ立ち返ることを心から願っておられる。創造主なる神は私たちの帰りを待っておられる。