本日はペンテコステを記念する日である。ペンテコステの日の出来事は使徒の働き2章に記されている。約二千年前のペンテコステの日、主を信じる群れは一同に集い、祈りに専念していた。すると天から約束の聖霊が豊かに下り、弟子たちは聖霊に満たされ、信仰復興のみわざ(リバイバル)が始まった。ペテロの説教により、一日にして何千人もの人々が救いに与った。この日が教会の誕生日であった。今朝は祈りにキーポイントを置いて、信仰復興のみわざの備えを、私たちもさせていただきたいと思う。
イスラエルのこの時代は、暗黒時代と呼ばれている。罪の暗黒である。紀元前約一千年頃である。民たちは宗教的にも道徳的にも堕落していた。イスラエルの民はエジプトを出て約束の地カナンに入った後、徐々に堕落していった。彼らはその土地の偶像の神々を拝みながら、主なる神を礼拝するという混淆宗教に陥っていた。道徳的にも周囲に倣い乱れていった。しばし彼らの上に神のさばきが下された。その記録は士師記と第一サムエル記にある。第一サムエル記は暗黒時代の後期の記録とともに、暗黒時代からの出口の記録が記されている。
神が暗黒時代を終わらせるために用いた器は、なんと不妊のひとりの女性。当時、不妊の女性は卑しめられていた。神が人々を霊的に目覚めさせ、リバイバルを起こすために用いた器は想像を超えていた。神は新しい歴史の一ページを開くために、全く無力な存在を選び、用いられた。神は無力な存在を選び、歴史を動かすことをされる。これまでのリバイバルの歴史を見ても、名もないひとりの信徒の祈りを通して、その町にリバイバルが始まったという事実を知る。私たちの無力さ、望みのなさ、見込みのなさ、貧しさは、神のみわざの妨げとなることはない。私たちは自分で自分を無力で役に立たないと思ってしまう。だが主にとってはそれで十分なのである。
今日の記事において、ひとりの女性の不妊で始まったというだけではなく、苦悩で始まったことがわかる。不妊は当時にとって不名誉なことであった。ハンナは自分に神の愛の顧みがないのでは、と悩んだだろう。夫に申し訳ないとも思っていただろう。彼女の悩みを強めたのは、ペニンナからのいやがらせである。ペニンナはもうひとりの妻であった(2節)。彼女はハンナをひどくいらだたせるようにした(6,7節)。ペニンナは、繰り返し、しつこく、ハンナにいやみを言ったことだろう。それはハンナにとって耐えられなかった。苦悩は深かった。だが神は彼女の無力さとともに、この苦悩をも用いる。この苦悩が彼女を神の恵みの御座へと駆り立てた。神への燃えるような熱い嘆願へと導いた。苦悩の中で神に向かう者は幸いである。そしてこうなることが神の計らいである。私たちの深い悲しみ、苦悩、暗い状況は、神の次の偉大なみわざの前ぶれとなる。リバイバルの歴史を調べるときに、共通する現象は、リバイバル前はちょうど朝明けの前に闇が深いように、霊的な闇は深かったということである。町全体が罪の闇に覆われているというだけではない。教会は霊的に眠りこけ、罪がはびこっている。神への信仰は冷めている。宣教は停滞している。しかし、そこで少数の聖徒たちの苦悩の祈りが始まり、霊の夜明けを迎えていくという図式である。ハンナの時代を位置づけるならば、リバイバル前夜ということになろう。
ハンナは神殿で涙の祈りをささげた(10節)。ハンナは「万軍の主よ」という呼びかけをもって祈りを始めた(11節)。「万軍の主」という呼び名で軍隊を想像する方が多いと思うが、実は、この呼び名は、神の全能性、無限の力、絶対的権力を意識した呼び名である。よって「全能の主」と意訳してもよい。不妊であったハンナは自分と全く反対の性質を神に見ようとした。無力な彼女は、神への最大限の信仰を働かせようとした。「全能の主よ、全宇宙の支配者よ、全天全地の権力者よ、絶対的権力者よ、不可能を可能にしてくださる神よ、あなたが成ると言えば成る力ある神よ」と彼女は神に食い下がった。万軍の主に最大限の信仰を働かせようとしたことにおいて、ハンナは信仰の人だった。無力であったけれども信仰の人だった。神がなぜハンナを用いられたかがわかる。私たちはハンナに倣いたい。私たちも無力だけれども万軍の主を信じている。このお方にハンナとともに信仰を働かせたい。
復活した主イエスは、弟子たちに大宣教命令を与える時に「わたしは天においても地においても、いっさいの権威を与えられている」と言われた。主イエス・キリストこそ万軍の主である。この万軍の主が教会のかしらである。私たちは、この万軍の主の御名によって祈ることが許されている。
続くハンナの祈りを見ていこう。ハンナは声を出さないで祈った。ただ唇だけが動いていた(12,13節)。この祈りを見ていた祭司エリは、ハンナが酔っていると誤解した。祈りの姿を見て、しかも女性の祈りの姿を見て酔っていると思い込んでしまうほど、当時の堕落は深刻なものであった。ハンナは自分が酔っていないことを弁明している(15節)。「悩みのある女」の「悩み」<カシャ>は、厳しさを表わすヘブル語で、悩みの程度の深さをカシャということばに託している。深い悩みをもつ信仰者は現代にも多い。その者はハンナとともに心を注ぎだせばよい。悩みの心を一滴残らず、主の前に注ぎだすのである。万軍の主よ、と注ぎだすのである。ハンナは16節後半で「私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです」と説明しているが、たましいの苦しみのうちに、時には涙をもって、悲しみと嘆きから、心を破って苦悩を注ぎだすのである。それは無駄とはならない。私たちはいつもこのような祈りをするわけではない。だが時には、心を破って、涙を流すほどの正直さをもって、ありのままの姿と思いをぶつければいい。神はそのような祈りを待ち望んでいる。苦悩の底から万軍の主を仰ぎ見て、心を注ぎだすのである。
彼女の子どもを求める祈りは真剣そのものであったが、ただ単に、他の人たちのようにわたしも子どもが欲しい、といった程度の祈りではない。なぜなら、自分に与えられる子どもを主にささげる決意をしていたからである(11節)。「その子の一生を主におささげします」と言っている。「そして、その子の頭にかみそりを当てません」と言っているが、これはその子をナジル人という献身者にしますという誓いで、ナジル人になる子どもは3歳頃に手放し、主にささげなければならない。だからこの決意は自己中心的動機からは絶対にできない。献身の決意がなければできない祈りである。彼女の祈りは、ただ単に子どもが欲しいという祈りではなく、主なる神の栄光が根底にある祈りであったのである。彼女に与えられることになる男子サムエルは、イスラエルの霊的復興のリーダーとして用いられることになる。イスラエルの転機をもたらす神の人となる。それもこれも、無力な女性の「信仰の祈り」から始まった。
彼女の祈りのすぐれた特質は、万軍の主への信仰、心を破り注ぎだす熱意、献身の決意、そして、答えを得るまで祈り抜く信仰ということである(18節)。彼女の憂い、いらだちは消え、顔は晴れやかとなった。つまり、祈りが聞かれたと確信するまで祈り抜いたということである。求める動機が正しく、求めている内容もみこころにかなっている、しかし、根気がないという場合があるだろう。あきらめが早い、粘りがない、ということである。だがハンナは答えを確信するまで祈り抜いた。釘が板を打ち抜くように、神さまが祈りを聞いてくださるとわかるまで祈り抜いた。それで彼女の苦悩の表情は、うそのように晴れやかとなった。私たちは人々の救いその他において、この確信の祈りをしたい。霧の向こうにある神が備えたもう祝福をはっきり見るまで、祈りたい。世々の聖徒たちは、このハンナの祈りをして立ち上がった。そして主のみわざを拝した。つまり、聖霊の豊かな働きを体験していったのである。祈りの確信は、祈ったその日に与えられることもあるが、そうでないことのほうが多い。自分の経験上からもそうである。
ハンナの祈りは聞かれ、20節にあるように、祈りの確信からそう遠くない時期に男子を授かり、みごもりを自覚することになる。生まれた男の子はサムエルと名づけられるが、意味は「神の名」であり、ハンナの信仰が強く表わされている名前である。
さて、サムエルが生まれてすぐに、イスラエルに霊の復興が訪れたのではない。続く2,3章はハンナの霊に満ちた祈りや、サムエルの成長、働きとともに、イスラエルの罪の暗黒の物語が記されている。民たちだけではなく、民のリーダーたちも深く堕落していた。4章はイスラエル史上、消えることのない恥と神のさばきが記されている。4章2,3,10,11節を読んでみよう。イスラエル人はペリシテ人との戦いで大敗北を喫し、そればかりか神の箱という神の臨在の象徴である、最も大事な、何ものにも替えがたい宝が奪われてしまう。前代未聞の出来事である。イスラエル人たちは、普段の生活では神に背を向けておきながら、苦しい時の神頼みで、神の箱を戦場に持ち出してペリシテ人に打ち勝とうとした。彼らは神に拠り頼んで勝利を得ようとしたのではなく、神を使って、神を道具にして、神を操作して勝利を得ようという高慢チキな態度で、自分たちに幸いをもたらそうとした。そこで神はペリシテ人に勝利を与え、イスラエル人3万人を死のさばきに会わせられた。民のリーダーである祭司たちも神のさばきによって死んだ。リーダーも大勢の民も死に、神の箱は奪われ、イスラエルはめちゃくちゃな状態となってしまった。
古代において国と国との戦いは、神々の戦いとして位置づけられた。人間同志の戦いは、神々の戦いの代理戦争として位置づけられた。だから敗北は、敗北した国の神の敗北を意味した。この場合、イスラエルの敗北は神の箱が奪われるという恥も伴っていた。現代風に言えば、教会の不祥事が発覚する、教会が消滅する、といった事が起き、教会に真理はない、教会の神さまは信じるに値しない、どうでもいい存在だ、教会の神さまはニセモノだ、という評判が立ち、その他の神々が勢いよく信奉されるといったことである。神はこのようなことを許される。
全能の神は、イスラエルの敗北を阻止することができたはずである。神の箱が奪われないようにすることができたはずである。しかし、それをあえて許された。それには訳がある。神はご自身の聖徒たちと形だけの偽りの関係を続けることよりも、恥をこうむることを選択される。そこまでされるのは、聖徒たちが絶望を通して、悔い改めにに導かれ、信仰に目覚めるためである。だから、神は問題が起きることも、災いも、ご自身が恥をこうむることも許される。
この絶望のどん底にきてようやくイスラエル人は、自分のしてきたことを嘆き、神を慕い求め始めた。イスラエル人が民全体として悔い改めの意志を示したのは、大敗北から20年後のことであった。その時の出来事について、7章1~11節を読もう。民たちはサムエルの勧めに従い、神を第一にしなかった信仰、二心を悔い改め、偶像を捨て、主にのみ心を向けようとした(3,4節)。次に彼らは民全体として悔い改めの集会、断食の祈りの集会を開催する(6節)。19世紀のリバイバリストのひとりは、リバイバルを次のように定義している。⑴リバイバルには常に教会内の罪の自覚が伴う。⑵信仰が後退していたクリスチャンが悔い改めに導かれる。⑶クリスチャンの信仰が新たにされる。
イスラエル人は罪を悔い改め、信仰を新たにした。今の彼らにとって、神は使う対象ではなく、恐れる対象であった。そして再度起こったペリシテ人との戦いにおいて彼らは祈りの武器にのみ拠り頼む(8節)。この7章においては助けとなりそうな目に見える対象はない。まして神の箱などない。彼らは人間的な支えをすべて失っていた。彼らは今、必死になって祈りに頼るだけである。目に見える何かではなく、祈りだけが頼りであり、頼れるものは祈りの武器しかない。ただ神のあわれみにすがるしかない。この結果、彼らに勝利が訪れる(10,11節)。
ハンナは不妊という悩みの底から必至になって祈るよう導かれた。イスラエルの民たちは人間的支えをすべて失って初めて、絶望のどん底に投げ込まれて初めて、悔い改めの意志を示し、祈りの武器に拠り頼んだ。このようにすることが神の導きだった。神は私たちの心を祈りという武器に拠り頼ませるために、四面楚歌の状態に追い込まれる。私たちは、人間的な頼みの綱を失う時に、信仰に目覚め、死にもの狂いになって全能の神にすがろうとする。そして神の御力と真実を体験するのである。信仰復興を体験するのである。
信仰復興に導かれたクリスチャンについて、先のリバイバリストは次のように述べている。「クリスチャンはもはや人をぼんやり見なくなる。心は神に対する愛で新たに満たされ、その光に照らされて物事を見るようになり、熱心に人を導こうとする。神を深く愛するあまり、他の人が神を愛していないことに痛みを覚え、心を神にゆだねるように懇願する。人々に対する愛が新たにされて、やさしい、しかも燃えるような愛で満たされる。そのたましいは全世界のたましいの救いを待ち望むようになる。」
今日は不妊の女ハンナの苦悩の記事を中心に見たが、聖書はイスラエルを、いわば教会を不妊の女にたとえている。「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ」(イザヤ54章1節)。不妊の女が授かる子どもとは、神の子たちのことである。霊的な子どもたちのことである。神は不妊の女の胎を開いてくださるお方である。だから私たちもハンナの祈りに倣おう。私たちも祈りによって、「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ」と、このみことばの約束に与っていこう。

