今日の箇所でイエスさまは盲人に対して、「何をしてほしいのか」と問われている。私たちはイエスさまのお心にフィットする願いを、低い心で願いたいと思う。今日の盲人のいやしの記事は、マタイ、マルコ、ルカの三福音書に記されている。マタイで強調されているのは、主のあわれみである。そのことも意識しながら、この物語から豊かな恵みを受け、私たちも「何をしてほしいのか」という主の問いに応答する者たちでありたい。

イエスさまはガリラヤ地方での働きを終え、いよいよ都上りをされようとしていた。今滞在している場所はエリコの町(29節)。エリコはヨルダン河口付近にあり、死海の真上あたりに位置する。荒野が広がる一帯にあって宝石のような町だった。新鮮な水のオアシス、美しい木、無花果、柑橘類の果実。またエリコはしゅろの町としても知られていた。ヘロデはこの町に冬用の邸宅を建てた。ということは温暖な地域。エルサレムまで距離にして約22キロであったが、エルサレムに雪があっても、エリコは暖かく快適であった。

エリコにはイエスさまの肉の先祖がいた土地でもあった。それは誰かと言うとラハブという女性である。彼女は遊女であり異邦人であったが、イスラエルの民を助けた英雄として位置づけられている(ヨシュア記2,3章)。新約ではマタイ1章の系図に彼女の名前が登場する(5節)。彼女はルツ記に登場するボアズの母親となっている。

さて、今、イエスさまの気持ちはエルサレムに向かっていた。楽しい何かがそこで待っていたからというのではなく、都上りをしてそこで待ち受けていたのは十字架である。その途上、イエスさまは二人の盲人のためにみわざをされる。あわれみをもって。では、順番に見ていこう。

「彼らがエリコを出て行くと」(29節前半)。ルカ18章35節では「エリコを出て行くと」ではなく「イエスがエリコに近づかれたころ」と描写が違っている。この問題の解決として、マタイは「旧エリコの町」で表現していて、ルカは「新エリコの町」で表現しているという解釈がある。また、盲人たちは、エリコの入口でも出口でもイエスさまを求め続けていて、やっと出口あたりで願いをきいてもらえたという解釈もある。つまり、イエスさまにしつこく、ず~っとついてきたということ。さらに、イエスさまが歩いたルートで入ったり出たりの見方が生まれたというものもある。どれが正解なのか特定できないが、エリコの盲人が救われたことにはちがいない。

「大ぜいの群衆がイエスについて行った」(29節後半)。過ぎ越しの祭りが近づいていた時期である。エリコからエルサレムまでは22キロほど。巡礼の途上にある大ぜいの群衆がイエスさま一行に合流していたことは確かであるが、群衆はイエスさまと一緒にいたいという意図もあったであろう。群衆は政治的メシヤを待望していた。彼らはエルサレムですばらしい奇跡の光景を見られるとか、イエスさまが築く王国で何か仕事をもらえるかもしれないと期待していただろう。しかし、その期待は裏切られる。彼らは、イエスさまが十字架につくことになるとはつゆも知らずにいた。イエスさまは、エルサレムで過ぎ越しの祭が象徴する、罪の贖いのための真のいけにえになろうとしていた。

エリコの郊外に二人の盲人がいた。「道ばたにすわっていたふたりの盲人」(30節前半)。盲人は中東にたくさんいた。彼らのほとんどが仕事がなく、家族からサポートを受けることができる者はわずかしかいなかった。ということで、多くは物乞いの乞食をしていた。彼らが道ばたで物乞いをするのは町の門の外。そこのほうが多くのお金をもらえる可能性がある。なぜなら、そこは人通りが多く、旅行者を相手にできる確実性が高いからである。旅行者は一般の町民より、お金を多くもって歩いていた。

エリコには盲人が特に多かった。エリコには特別なバルサムの樹木があって、そこから作る薬は目に効くとされていた。治療を期待する盲人がエリコに集まった。この話に登場するのはふたりの盲人であるが、付近に百人以上はいたはずである。盲目には戦争や事故でもなる。しかし、多くの人は誕生して間もなく盲目になった。主な原因は母親から淋病が感染してしまうのである。多くの女性が淋病のバクテリアを保有していた。彼女たち自身は発症しなくとも、生まれてくる子どもたちが罹患して、盲目となってしまう。他の幼児は現代では余り見られなくなったクラジア感染症であるトラコーマによって失明した。当時は誕生時からの盲人が多かった。先ほど述べたように母子感染である。

二人の盲人が「イエスが通られると聞いて、叫んで、言った」(30節前半)。「叫ぶ」<クラウゾー>は英語の「クライ(叫ぶ)」の元となったことばである。それは悲鳴を上げること、悲痛な叫びを意味することばである。狂人が狂いわめくことや、出産時の母親の悲鳴に使われたりする。聖書では「十字架につけろ」という群衆の叫び(マルコ15章13~14節)や、イエスさまが十字架上で最後のことばを発せられたときも、このことばが使われている。「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた」(27章50節)。

二人の盲人は、これが自分たちが見えるようになる最後のチャンスと理解していた。この機を逃したら自分たちは一生見えない。彼らは、人にどう思われようが、そんなことは関係なかった。必死になって金切り声を上げたであろう。それはもちろん、群衆たちの声で自分たちの声がかき消されないように、といったことがあったであろうが、彼らが大きく声を上げたのは、命がけの求めがあったからである。そしてそれは、信仰の叫びでもあった。

「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」(30節)。ふたりの盲人は「主よ」「ダビデの子よ」と呼びかけた。注目したいのは「ダビデの子」であるが、これはメシヤの称号である(ルカ1章32節)。旧約聖書は一貫して、メシヤはダビデの子孫から出現すると預言していた。ふたりの盲人は、イエスさまを救い主として認めているということである。

彼らの求めのことばは「私たちをあわれんでください」であった。このことばは、彼らが精神的にも自分たちを物乞いの立場に置いているということである。「自分たちは何をも受けるに値しない、何の権利もない、ただあわれみにすがる他はない身」。

それに対する群衆の反応はどうだったのか。「そこで、群衆は、彼らを黙らせようとして、たしなめた」(31節前半)。なぜそうしたのだろうか。イエスさまと進むおごそかな行列を、みっともない邪魔者たちに汚されたくなかったのだろうか。日本の大名行列も想起する。群衆にとって、盲人は無価値で無意味な存在であった。生まれつきの盲人などは、罪深い存在とみなされていた。偏見から来る蔑視を浴びていた。だから、このときも彼らを見下げ、邪魔者扱いしたのだろう。また彼らは自分たちのことしか考えていなかった。群衆の多くは、盲人たちよりも、肉体的に、経済的に、社会的に、立場が良かった。彼らはイエスさまに対して、自分たちのさらなる良い暮らしを求めていただろう。

盲人たちは無慈悲で冷淡な群衆によって、強制的に沈黙させられてしまうことを拒んだ。「彼らはますます『主よ。あわれんでください。ダビデの子よ』と叫び立てた」(31節後半)。彼らは沈黙しなかった。沈黙を拒んだ。それどころか、ますます激しく叫び立てた。反比例的に。このあきらめない精神、並みではない。普通であれば、ここであきらめてしまうだろう。これは模範になる姿である。

彼らの求めは、イエスさまの耳にというよりも、心に届いた。イエスさまはどうされただろうか(32節)。参照としてマルコ10章49~50節を見よ。イエスさまは誰かに呼びに行かせた。ということは、イエスさまは群衆に取り囲まれていたであろうから、盲人たちとイエスさまの間には、ある程度の距離があったということでもある。大切なことはイエスさまが立ち止まってくださったということ。そして群衆にとってどうでもいい二人の盲人に最大の関心を払われたということである。

イエスさまの二人の盲人へのことばは「わたしに何をしてほしいのか」であった。普通の物乞いの求めは「お金」である。二十世紀の話であるが、聖地旅行に行く人の一番の悩みは、執拗な乞食をいかに撃退するかということだと言われた。それほど乞食と言われる人たちはイスラエルに多かった。乞食、それは金を恵めば退散するものとされていた。エリコの物乞いたちも同様に旅人にお金を求めていた。聖地巡礼の旅人にお金を求めるのは当然の姿であった。見慣れた光景である。けれども、イエスさまが「わたしに何をしてほしいのか」と問われたということは、彼らはお金を求めていないこと、お金では退散しないことを知っていたからである。彼らの求めに関して、参考にマルコ10章50節を見よう。ここで盲人は何をしたと書いてあるだろうか。「上着を脱ぎ捨て」とある。これは重大な行為である。というのは「上着」というのは貧乏人が夜具代わりに用いるもので、質物にも借金の担保にも取ってはならないとされていた、必要最低限の財産であったからである。貧乏人の唯一の財産として保障されていたものである。売り食いの生活の果てに何もなくなっても唯一残る財産、それが上着であった。それすら脱ぎ捨てた。ということはお金目当てに叫んでいたのではないことは一目瞭然。お金のことなど頭にない。普通の物乞いとは求めが違った。皆さんは何を求めているだろうか。真実で誠実で深い求め、大切な求めがイエスさまに対してあるだろうか。イエスさまはその求めを「わたしに何をしてほしいのか」と確認される。

二人の盲人は言った。「主よ。この目を開けていただきたいのです」(33節)。この求めはその通りだが、目が開くというのは彼らの求めの最終目標ではないようだ。それは34節の「イエスについて行った」ということばからわかる。だから、このときの開眼は、新しい人生への開眼といったらよいかもしれないし、真理への開眼といえるかもしれない。それは霊的な開眼である。聖書では、目が見える人に対して、盲人、盲目と言っている箇所が幾つかある(マタイ6章22~23節;ヨハネ9章39~41節)。霊的に盲目な人は、目が開いていても自分の罪が見えない、神がわからない、キリストがわからない、正しい世界観がわからない。光を闇、闇を光と取り違え、自分がどこに行こうとしているかもわからない。だが盲人たちは開眼し、新しい人生へと踏み出した。

盲人たちはイエス・キリストを信じ、イエス・キリストに従う人生を選び取った・そのひとりは、マルコ10章46節では「テマイの子バルテマイ」と呼ばれている。「テマイ」の意味は「盲人」なので、「テマイの子」で「盲人の子」となる。「バルテマイ」の意味は「盲人の息子」である。バルテマイはその名前からして、相当な苦労を背負ってきた人に見受けられるが、生まれつきの盲人であったかもしれない。彼の名前が福音書に記されているということは、彼はクリスチャンたちの間で名をよく知られる聖徒になったということである。彼は皆に愛される信者になったようである。

ではマタイ20章34節に戻り、イエスさまが盲人をいやされる過程を見てみよう。「イエスはかわいそうに思って」。「かわいそうに思う」という動詞はマタイの福音書に度々登場することばである。このことばは「内臓」ということばに由来することを説明してきた。「内臓」が「愛、あわれみ、同情」などの意味に転化した。ここでは「はらわたが揺さぶられて」とか、「深くあわれんで」という訳が可能である。そうするとイエスさまの心は、冷淡で無関心な群衆と正反対であることが良くわかる。イエスさまはこの深いあわれみの心から、「彼らの目にさわられた」。私たちはどうだろうか。群衆の心ではなく、イエスさまの心を選び取りたい。ところがある方はこんな警告を与えている。「世の人は、そして多くのクリスチャンは、無慈悲、冷淡になりやすい」。自戒したいと思う。

さて、イエスさまが彼らの目にさわられたことによって、「すぐさま彼らは見えるように」なったことが書いてある。これが霊的開眼をも意味することは、並行箇所のマルコ10章52節からもわかる。「あなたの信仰があなたを救ったのです」。「救った」という表現は、たましいの救いに用いられることばである。彼らはただ目が見えるようになったのではない。もっと深いいやしがあった。人間としての深いところからの回復があった。そのしるしが「イエスについて行った」ということである。イエスさまについて行った盲人たちは、永遠のいのちも受けたであろう。この盲人たちのように、イエスさまに人生の賭けをして、イエスさまに救いを求める人たちは幸いである。へりくだって低い心をもつことが必要であろう。同時に勇気と大胆さが必要であろう。でも倣ってほしい。

最後に、あわれみを求めることについて、的をしぼってお話したい。盲人たちは、「主よ。私たちをあわれんでください」と何度もイエスさまに呼びかけた。実に、クリスチャンたちの祈りのことばも「あわれんでください」が多い。パコミオスという初期の著名な聖徒がいる(290頃~340)。彼は病にかかったとき、エジプトにあるキリスト教の村で、愛情あふれる看護を受けたのをきっかけに入信する。彼はイエスの御名の強力な推進者となった。彼が教えたとされる祈りは、「主イエス・キリスト、神の御子、私たちをあわれみたまえ」という単純なもので、これを静かに繰り返すように教えたと言われている。また六世紀の聖徒でバルサヌフィオスとヨアンネスという指導者は、祈ることが息をすることと同じくらい普通になるようにと弟子たちに進めた。そして次のような祈りを教えた。「主イエス・キリストよ、わたしをあわれんでください、主イエスよ、わたしを守り、わたしの弱さを助けてください」。

私もこうした祈りが、自分の罪に押しつぶされるようになるとき、世と世の欲に心が奪われそうになるとき、また肉体が弱っているときなど、有効だと気づいた。参考に、詩編41編4節を開こう。「主よ。わたしをあわれんでください。わたしのたましいをいやしてください。わたしはあなたに罪を犯したからです」。「あわれんでください」という求めは、いやしの願いに通じる。しかし、それは、ただ目が見えるようにということではなく、たましいのいやし、罪からの救いである。あの盲人たちはただ目が見えなかったというだけでなく、心は重く、気持ちはふさいでおり、たましいは闇の中にあった。慰めとなるものは何もなく、気晴らしなどどこにも見当たらない。たましいはうめいていた。その状態から、彼らは主にあわれみを求めた、と言ってよいだろう。そして彼らの目にも、たましいにも光が訪れた。心は喜びに溢れたにちがいない。

私たちは、罪に打ちのめされた感覚、自分の心に押し寄せる不安、そうしたもので心が支配されそうになるとき、「主よ。あわれんでください」と繰り返し求めるとよい。自分で解決できない弱点、欠点、そうしたものを隠そうとするのではなく、ブライドを脱ぎ捨てて、素直になって、「主よ。あわれんでください」と祈るのである。主にあわれみを求めよう。主はあわれんでくださるお方である。

 

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4章15,16節)