今日の箇所は「ぶどう園で働く労務者」のたとえである。当時、いろいろなタイプの労働者がいた。ガリラヤ人の多くは、小さな持ち家に住み、自分の農地で働き、また手工業といった手仕事をしていた。しかし他の多くの人たちは土地を持たず、契約労働者として働いた。例えば6年契約とか。このたとえに登場する労働者は、今述べたどれにも当てはまらない。いわゆる日雇労働者である。安い賃金で働いた。農場主は、刈り入れの時期は猫の手も借りたいほどだったので、こうした労働者を雇った。少年も駆り出されたと言われる。このような人たちは季節労働者として位置づけることもできる。その他に、永久的に主人のもとで働いた奴隷も存在した。

このたとえの「ぶどう園の主人」は神を示している。「ぶどう園」で働く「労務者」は神の民を指し、救われた私たち罪人を示している。

主人は市場に出かけ労務者を雇うのが常であった。たとえの主人は何回市場に出かけて雇ったのだろうか。ユダヤの一日は午前6時に始まる。「朝早く」(1節)、つまり午前6時に雇った。次に午前9時(3節)。三回目は正午12時(5節)。四回目は午後3時(5節)。五回目が午後5時(6節)。ある人たちは、どうして五回にも分けて雇ったのか、朝早く出かけたときに、まとめて雇えばよかったのではないかと、不自然に思う。それで、いくつもの憶測がなされてきた。一番納得がいくのは収穫期の光景であるということ。ぶどうが熟するのは9月で、その後すぐ雨期がやってくる。雨が降る前にぶどうを取り入れないと、ぶどうの品質が落ちてしまう。そこで収穫期には人手が必要で、一日に1時間しか働けない人も歓迎されることがあったと言う。だから、この主人の雇い方を特殊視する必要はない。けれども、たとえからは、収穫が間に合わないから最期の1時間でも働いてもらおうという以上の心が、主人に働いていたことを読み取れる(6,7節)。ここを読むと、主人は、1時間でもいいから働いてくれれば助かるというよりも、働き場を与えてあげた、というニュアンスを感じる。

働きたい人は、朝、道具を持って市場に来て、誰かが雇ってくれるのを待っていた。市場に立っていた人たちは、好きで何もしないで、そこにいたわけではない。最終時間に雇われた人たちは、雇ってもらえれば嬉しいので、5時になってもそこに立ち続けていた。日雇い労働者は、労働者の中では一番低い階級に属していた。生活はきわめて不安定。奴隷でも毎日仕事がある。しかし彼らは仕事にありつけない場合もあるので、明日がわからない。家に帰れば養わなければならない妻子が待っていた。一日の賃金というのは、その日の生活費分でしかなかったと言われている。蓄えなどできない。この人たちにとって一日の失業は悲劇だった。むろん、失業手当もない。家族を養うために最後の1時間でも働かせてもらえればと、必死の思いで立っていた人もいただろう。たとえの主人は、失業で一日を終わろうとしている労務者に恵みを示した。あわれみを施した。正確に言うと、主人に雇われた労務者全員が明日をも知れぬ日雇い労働者であったので、主人は全員の労務者に恵みを示したことになる。しかし雇われた労務者全員が、この事実をほんとうに恵みと思っていたかどうかは別の話である。

こうして雇われた五つのグループ、早朝組、午前9時組、正午組、午後3時組、午後5時組は働きを終えた。ここまでは普通の光景である。そして賃金の支払いの時が来た(8節)。律法は命じている。「日雇い人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない」(レビ19章13節)。主人はこの律法を忠実に守ろうとしている。けれども支払方法は特異な方法をとった。「最期に来たものから順に」(8節)。この支払方法は、朝早く雇われた者たちにとっては期待を与え、最終的にはショックを与えてしまう方法である。「そこで、5時頃に雇われた者たちが来て、それぞれ1デナリずつもらった」(9節)。これを見ていた第一グループ、すなわち早朝に雇われた者たちは、その十倍ぐらい多くもらえるのかと、期待を抱いたであろう。というのは午前6時から午後6時まで11時間であるが、正味10時間近くは労働したであろうから。早朝組は期待に胸をふくらませドキドキしながら待った。1デナリ・・・1デナリと続く。あれっ、増えていかないな。しかし早朝組は、自分たちは絶対多くもらえるはずだと期待を捨てなかったはずである。ところが・・・。「最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはり1デナリずつであった」(10節)。ここでショックを受け、主人が意地の悪い人に見えてしまい、主人に文句を言う(11節)。皆さんであったら、どう反応するだろうか。

もし同じ1デナリでも、支払う順番が通常通りであったら、どうなっていただろうか。早朝組は最初に呼ばれ、約束通りの、しかも当時の相場の一日1デナリの賃金をもらって、良かった、良かった、と満足して家路を急いだであろう。あとの者たちが同じ1デナリをもらうことを気づかずに。しかし主人は最初の者たちがあとの者たちも幾らもらうかわざと気づかせる手法を取っている。最初の者たちは、あとの者たちが同じ1デナリをもらうのを見て、自分たちと同じ1デナリで良かったね、とほほ笑むなら、よほどの人格者である。大抵は、くやしいという気持ちになるはずである。スーパーに買い物に行って、生鮮食料売り場で1000円の食材を購入する。その3分後に半額に値下げしたラベルが貼られ、見知らぬ主婦が嬉しそうな顔をして、それを手にして購入していくのを目撃してしまう。とたんに損をした気持ちになり、その不満をどこにぶつけていいかわからなくなる。この場面では、それ以上の不満を抱いたことはまちがいない。いずれ、最期に来た者たちから順に支払うというのは、先のグループの者たちに対して、教訓を与える意味がある。

さて、早朝組の申し立ての理由を見てみよう。彼らは、主人がしたことは不当であることを二つの事実で証明しようとしている(12節)。第一は、労働時間の長さ。「最期のグループは1時間。私たちは10時間!」つまり早朝組は、十倍長く働いたという自負がある。第二は、労働条件。「最期のグループは涼しくなってきた夕べの時間働いただけ。私たちは日中の焼けるような暑さと辛さに耐えた」。早朝組は、過酷な環境に耐え働いてきたという自負がある。二つの理由により、あなたの労働の対価はまちがっていると、主人を責めた。そして、彼らは口には出さなかったが、自分たちが出した労働の成果というものも当然心にあっただろう。ぶどうの収穫量自体、単純に考えると、最後のグループの十倍となる。そういう意味でも早朝組は十倍の働きをしている。彼らの心には「十字架」ではなく「十倍」が刻まれている。

さて、本当に主人のしたことは不当だったのか。主人は、わたしは不当なことをしていないと、二つの理由を述べる。第一に約束の賃金を支払ったということ(13節)。2節では「一日に一デナリの約束ができると」とあり、その契約に従って1デナリを支払ったわけだから、確かに不当なことは何もしていない。第二に、他の人たちに対する気前の良さは、気前の良さであって、不正ではない(15節)。

さて、この主人は善人なのか、ただの気分屋なのか。今見た「気前の良さ」ということが、この主人の性質を決定づけるだろう。この主人はいつくしみ深く、あわれみ深い。時間、仕事量、そうしたことで厳しく査定してしまう方ではない。富の豊かさを感じさせるだけではなく、恵みの豊かさを感じさせる。早朝組みは、あとの者たちも1デナリを受けたのを見て、「俺たちは同じ日雇い労働者、生きていくのがたいへん。俺たちと同じ1デナリをもらえて良かった。市場でずっと立っていた甲斐があったね。奥さんも喜ぶだろう。子どももお腹いっぱい食べられる。いい主人に雇ってもらって良かった、良かった」と互いに喜び合えたら、ハッピーエンドであった。

このたとえは働く動機にカギがあるようである。早朝組でない者たちは、雇われる際、どう言われただろうか。「相当のものを上げるから」(4節)。契約らしい契約もそこにはなかった。労働の対価としての額は提示されなかった。第五グループ、すなわち午後5時組はどうであっただろうか。「あなたがたもぶどう園に行きなさい」(7節)

としか言われていない。賃金とか、契約とか、約束とかいうものはなく、働かせてもらえればそれで嬉しいと、賃金のほうは主人にまかせていたのである。けれども早朝組は、「あなたがこれだけの賃金を支払うなら働きます」と、賃金という報酬のために働いたと言える。

さて、このたとえは誰を意識して語られたのだろうか。16節に、「このように、あとの者は先になり、先の者があとになるものです」とある。同じ表現が、このたとえの直前の、19章30節にある。実は訳されていないが、30節に続く20章1節の冒頭には、「なぜなら」を意味することばがある。「なぜなら、天の御国は」と、先の者があとになり、あとの者が先になるとはどういうことなのかを、たとえで説明しようということである。30節のことばは、直接的には、27節のペテロの質問から生まれた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるのでしょうか」。ペテロのこの質問を引出したのは、16~22節にある金持ちのユダヤ人青年とのイエスさまの会話である。この青年は、良い行いによって報酬を得るというユダヤ人の律法主義に染まっている(16節)。ペテロたちもどっこいどっこいで、払う犠牲の大きさに応じて報酬がもらえるはずだという思考パターンになっている。ペテロたちは、「相当のものを上げるから」でイエスさまに従っていったはずなのに、早朝組の様を呈して来ていた。私たちも打算的になり、報酬のために働くという精神になりやすい。救っていただいたところから来る喜びとか、愛の動機から仕えるというのではなく、報酬のために働くという功績主義に陥る。自分たちの功績を誇り、他と比較するようになる。見たところはまじめである。けれども、自分は人の十倍働いて来たと誇りを口にし、自分は労苦と焼けるような暑さを辛抱してやってきたのに、あの人たちは何だと、あとの者をさばくキリスト者になる。自分は他の人たちよりも犠牲をいっぱい払って来たから、当然、報酬も人より多くなければならないと思い込んでいる。手柄信仰になっている。自分のしてきたことを一つ一つ数え上げ、それを功績として神の前に差し出そうとする。出来高払いを期待するだけでなく、そこに奉仕の時間数とか、奉仕の環境の厳しさとかを加え、大きい報酬を期待する。

私たちは、自分たちの努力、がんばり、行いによって、救いを得、報いを勝ち取るというのではないだろう。罪人にすぎない私たちは、ただ神の恵みによって救われるのであり、功績を積み上げることによって報いを獲得しようという考えはまちがっている。たとえにおいて、午後5時の最期のグループの者たちが、恵みの理解者である。福音の恵みを理解する者たちである。途中、少し触れたように、午後5時組ばかりではなく、早朝組も主人の好意によって、恵みによって雇ってもらった者たちにすぎない。いただいた賃金も、与えられた恵みということにおいて全く同じ。けれども多く働いたという自分のがんばりを手柄にして心に刻み、それに基づいた報酬を期待してしまう。恵みによって始まった人生も、恵みを忘れた早朝組になったら悲しいことである。神の恵みを自分の手柄にしてしまうのは盗みの罪である。イエスさまはもちろん、手抜きの怠けた信仰生活や奉仕を望んでおられるわけではない。ぶどう園でまじめに働く服従の生活を望んでおられる。けれども、いつでも、「このようにできたのは、ただ主の恵みです」と言えるかどうか。「救っていただいたのは恵みです」「がんばれたのもただ主の恵みです」「今あるのも、ただ主の恵みです」と言えるか。それとも、「わたしはこれこれのことをしてきた、わたしの手柄だ、わたしのがんばりのおかげだ、わたしが一番長く犠牲を払ってきた、だからわたしは誰よりも手厚く扱われなければならない、わたしにその権利がある」と、「わたしは、わたしの、わたしが、わたしに」と、わたしを推薦し、功績主義でやっていくのか。すると、いつしか人との比較も生まれ、「わたしは長年大きな犠牲を払ってきた。でもあの人はたいしたことをしていない。のんきだし、不器用だし、楽してきたし、たいしたことはしてない。わたしと同じ報いなんて許せない」となる。午後5時組に陰険な思いを向け、「5時組は甘っちょろい。たいしたことやっていない。俺たちはどれほどの犠牲を払い、どれほどの成果を上げたと思っているんだ」と厳しい目を向ける。そして自分には大きな報酬を期待する。

異端のグループや律法主義的教会では、一生懸命がんばらないと地獄に落ちるぞ、たくさん犠牲を払えば払うほど天国の上のランクに行けるのだと、功績主義で行動を煽っている。神さまに仕える動機が報酬であるのならば、ご利益信仰と変わりない。聖書では、クリスチャンは天の報いを期待してはならないとは言われていない。むしろ、その反対である。試練にある時など、天のゴールがあり、栄冠があるからこそがんばれるとなる。けれども、それと功績主義は違う。午後5時組は「ただ働かせてもらえればそれで嬉しい」と、賃金が幾らかとか、そうしたことは主人にまかせていた。主人に恩義を感じながら、いわば、本当に主人のために働いたであろう。早朝組はどうか。最初は雇ってもらえた喜びがあっただろう。けれども、最期は主人に文句を言って終わっている。待遇が悪い、報酬が足りない、ぶつぶつ。私たちもこうならないよう、自戒しなければならない。

早朝組と午後5時組をもうちょっと比較してみよう。午後5時組は他人よりうまく仕事ができたとは限らない。なぜなら、それらの人々の中には、愚鈍な者たち、能力の低い者たちもいたからである。それで、夕方まで雇ってもらえなかった可能性がある。しかし彼らなりに一生懸命働いたはずである。雇ってもらった感謝の心から働いた。彼らは概して心が低く、恵みが良くわかっている。早朝組はというと、仕事がうまい。手早かったりする。能力が高い。成果を上げる。ベテランももちろん多い。午後5時組に対して、いいか、こういう風にやるんだぞと、お手本も見せただろう。でもおごりがあり、主人に文句が出やすい人たちで、関心は仕事への対価、報酬。打算的で、雇ってもらった恵みは余り感じていない。主人の恵みではなく、自分のがんばり、手柄、成績表、そこに関心が行く。自分のがんばりと成績を誇示したいので、何かあると自慢話を口にし、また、主人にも仲間にも文句が出る。それが正当な意見であるかのように。

私たちクリスチャン全員が、恵みによって天の御国に招かれた者たちである。恵みによって神のぶどう園で働いている者たちである。私たちは本来、滅ぶべき罪人だった。地獄に行く値打ちしかない罪人であった。それなのに1デナリでは少なすぎると文句を言うのだろうか。実際の神の恵みはご存じのように1デナリ以上である。私たちは、ただ神の恵みの豊かさに感謝していたい。最終的には永遠のいのちを受け継ぐ。恵みを受けている者同士、どんぐりの背比べもばかばかしくてしたくない。誰が早朝組で誰が最終組かと考えることもなく、私たちすべてが早朝組であり、最終組でもあるのだと、そこに身を置いて、恵みを恵みとする信仰者として、主に仕えていきたい。主の恵みを恵みとする者は、マタイ6章3節で言われているように、「右の手のしていることを左の手に知られないように」とするだろう。その人は主の恵みを数え上げるが、自分の功績は数え上げないということである。自分のしたことを記憶には留めるが、功績として心にメモるようなことはしないということである。ただ主の恵みで心を満たそう。そして、自分以外の多くの人が、神のぶどう園で自分たちと同じように働き、同じ報いに、いや、それ以上の報いに与ることを心から願っていこう。