私たちは、日々失望しやすい者たちなので、イエスさまの励ましを必要としている。また道を踏み外しやすく高ぶりやすい者たちなので、イエスさまの戒めも必要である。今日の箇所では、イエスさまの励ましと戒めの両方を見ることができる。

今日の箇所は、前回ご一緒に学んだ子どもたちと金持ちの青年の話(13~22節)の続きである。イエスさまは先の箇所で、まず、天の御国に入りやすいのは、子どもたちのような性質をもつ存在であることを明らかにされた(14節)。子どもはおごり高ぶっていない。心が概して低い。自分はちっぽけで無力だと認めている。幼子のような心の持ち主は、自分の無価値さ、ちっぽけさ、罪深さを自覚して神に救いを求め、また自分の無力さを自覚して、神に信頼する。それに対して金持ちの場合、多くは自己充足の精神となる。自分の力、自分の富で足りるとし、本当の意味で神に心が向かわない。持ち物、お金がその人の神となってしまう。それらに依存し、信頼し、それらが拠り所となり、それらを追求することが人生の目的になってしまう。先の金持ちの青年は、16節にあるように、「永遠のいのちを得るためには」という質問を携えてキリストのもとに来た、まじめな人物であったが、子どものような精神には欠けていた人物であった。彼は良いことをして天の御国に入ることができると考えるほどに、自分をまじめな人格者だとみなしていた。だが彼は、隣人愛も神への愛もないことに気づいていないだけであった。彼はキリストによって、「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」(21節前半)と命じられたとき、隣人愛のチャレンジを受けた。続いて、「そのうえで、わたしについて来なさい」(21節後半)と命じられたとき、神と富のどちらを選ぶのか、どちらを愛するのかというチャレンジを受けたことになる。彼は富を選び取ってしまう。そのことによって、見える神であり、永遠のいのちそのものであり、永遠のいのちを与えるキリストのもとから立ち去るという悲しい結末で終わる。

今日はその続きである。イエスさまは、確定的なこと、重要なことをお話される場合、「まことに」と前置きしながら述べられる。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国に入ることはむずかしいことです」(23節)。「まことに」はまだ続く。「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」(24節)。これは、金持ちが神の国に入るのは限りなく難しいという表現である。少々説明を付け加えるが、「針の穴」の解釈は二つある。普通、想像するのは縫い針のめどである。そのことかもしれない。もう一つは、城門のかたわらにある小さな門のこと。夕方になると城門は閉ざされ、そのかたわらにある小さな門をくぐるというのが習わしであった。ところがこの門は低いため、らくだがそこを通ろうとすると頭をぶつけてしまうため、足を折ってかがまなければならなかった。しかし、そうすると、らくだは歩けなくなってしまう。門をくぐるのは困難になる。針の穴の意味は、縫い針のめどを指すのか、小さな門を指すのか、どちらであるかわからないが、いずれ、限りなく難しいこと、きわめて困難なことを意味する慣用句的表現であることは確かである。

弟子たちはこれを聞いて、どう反応したのだろうか。「たいへん驚いて言った。『それでは、だれが救われることができるのでしょう』」(25節)。この非常な驚きは、らくだと針の穴の表現プラス、当時の金持ちに対する見方から来ている。金持ちは神から祝福されている人だとユダヤ人は解釈していた。「神から祝福されている人でさえ、神の国に入るのは極限的に難しいのなら、そうでない一般人は、もっと難しいことになる。それなら、いったい誰が救われるだろうか」という驚きの声である。目がまん丸くなってしまっただろう。金持ちは神から祝福されている人だというユダヤ人らしい見方は、偏見として捨てなければならないわけだが、それを捨て去ったとしても、人が救われるのは、らくだが針の穴を通るより難しいと思ってしまう私たちである。

イエスさまは弟子たちの問いに答えられる。「イエスは彼らをじっと見て言われた」(26節前半)。イエスさまは彼らを見つめながら言おうとされる。弟子たちはイエスさまの視線を受けて、真剣に受け止めるべきことばだとわかっただろう。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです」(26節後半)。イエスさまはここで二つのことを告げられている。一つは、「それは人にはできないことです」。金持ちだけでなく、だれでも救いに至るのは、人間の働きや努力によっては不可能である。その人がたといどんなに良い行いを積み上げたとしても、罪一つで御国の外に置かれてしまう。17節で学んだように、完璧に「良いこと」ができる「良い方」(完全なお方)は、神おひとり。それに対して、私たちは、それなりに良いことができても罪を犯すことはまぬがれず、「良い方」ではなく罪人にすぎない。たった一つの罪で十分に地獄に価するという現実がある。そんな私たち罪人は、神の恵み100パーセントで救っていただくしかない存在。

イエスさまが告げられたもう一つは「しかし、神にはどんなことでもできるのです」。神の人を救う力は限りがない。神はどんな人でも救うことができる。金持ちかそうでないかは関係ない。実際、前回は金持ちザアカイの救いの記事も見た。私たちは、あの人は心がかたいから無理でしょうと、簡単に決め込むことはない。そうした人々の救いを、私も実際見てきた。もちろん、神の主権ということはあるが、しかし、ここでイエスさまが言わんとしたいことは、強調したいことは、神の全能の力は人の心と人の人生に働く、人にできないことが神にはできるということ。神さまは被造物のすべてを支配しておられる。この自然界も。生き物ということでは、カラス一羽、雀一羽も神さまの顧みと養いの中にある。虫一匹も神さまの御手の中にある。木々も神さまが生えさせる。そんな神さまは当然のことながら、ご自身のかたちに造られた人間に最大の関心を注いでおられ、その人の心と人生に目を留め、働きかけてくださる。私は次のエレミヤのことばが好きである。「主よ。私は知っています。人間の道は、その人によるのではなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを」(エレミヤ10章23節)。人間の真実を突いていることばである。その人は自分の力で生きていると思うかもしれないが、すべては神の恵みと力による。私たちはこの神に期待し、信仰を働かせるのである。イエスさまはマタイ17章20節で神の全能の力に対して信仰を働かせるようにと、「山を移す信仰」について語っておられた。「まことに、あなたがたに告げます。みし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません」。神には人を変え、救う力がある。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」。イエスさまが弟子たちをじっと見つめて言われた19章26節のことばを、今日は最初に心に刻もう。

次に、27節からの後半の記事も見ていこう。またしてペテロの登場である。今度は、どんな失敗をやらかすのだろうか。ペテロは一連の流れから、またイエスさまの講話から、財産に執着した金持ちの青年のことを意識しながら、あっけらかんとして、子どもっぽい質問をする。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨て、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるのでしょうか」(27節)。明らかに、イエスさまのもとを去った金持ちの青年を意識している。原文では、「私たちは」が強調されている。彼らは、数日、イエスさまと行動をともにしているというのではない。彼らはすべてを捨てて何百日もイエスさまに従ってきた。ペテロはガリラヤ湖のほとりでイエスさまと出会い、「わたしについて来なさい」と言われ、すぐに網を捨て置いて従った(マルコ1章16~18節)。他の弟子たちも同じようであった。ペテロは「私たちは何がいただけるでしょうか」と、報酬を期待しているが、彼らはおやつを期待している子どものようである。イエスさまはこの問いに答えられる。

28節では十二弟子のみに与えられる特権が記されていて、29節では、十二弟子のみならず、ご自身に従うすべての者に対する祝福について記されている。まず、28節では、使徒たちには王権が与えられるということが言われている(ルカ22章28~30節)。これはキリスト再臨後に実現することである。

続いてイエスさまは29節で、「わたしの名のために・・・すべて(全員)」と、十二弟子だけではなく、真のキリスト者すべてに対する祝福を語られる。この節では、イエスさまのために捨てるもののリストが挙げられている。まず、「家、兄弟、姉妹、父、母、子」を説明しておこう。以前、インドネシアで牧師をしている方の話を聞いたことがある。インドネシアはヒンズー教とイスラム教の国だが、どちらもキリスト教に排他的で、信仰をもつと家を出されることを文字通り覚悟しなければならない。その方が信仰をもったとき、村人から、住んでいる家に火をつけられて家を失ったとのこと。ここまでされなくとも勘当は当たり前にある。家族が敵となって毒をもられることもある。マタイの時代のユダヤ人たちが信仰をもった場合はどうであったかというと、家族から拒絶される可能性は現代人以上であった。だから、これが言われている。日本でも家族からの反対があるだろう。またある方の分析によると、日本では家族を悲しませたくないという理由から、信仰を公けに告白できず、主のもとを去るケースが多いということである。こうした気遣いは、一時家族を安心させたようであっても、長い目で見れば、本人のためにも家族のためにもならない選択である。私も農家の本家の長男であったため、同じ試みを受けた。捨てるものの中に、「あるいは畑を捨てたもの」とある。「畑」は当時の財産の代表格である。それを失うとは、日々の糧がどうなるのかという不安も生まれるわけである。肉親の情だけではなく経済的なことも気にしすぎて、信仰に踏み出せないということもあることをイエスさまは意識して語っておられる。

失うものばかりに心が向いてしまう私たちであるが、イエスさまは、失った以上というか、それとは比べものにならない豊かな祝福を受けることを告げている。「その幾倍も受け」(異本「その百倍も受け」)というのは、例えば、お父さんを捨てたら、お父さんが百人になって返って来るというのではない。ここでのポイントは、計り知れない祝福を受けるということである。その祝福は何かということで二つの考え方があり、一つは現世で受ける祝福。もう一つは来たるべき世(御国)で受ける祝福。ここではどちらを指しているのかわからないが、両方かもしれない。最後に「また永遠のいのちを受け継ぎます」とある。受け継ぐと言われているので、この永遠のいのちは、来るべき世である新天新地で神とともに生きるいのちということになる。それは単に、終わりがないいのちということを意味していない。いのちの質が重視される。ペテロはペテロの手紙第一と第二で、苦難の中にあるキリスト者に対して永遠のいのちの富を示して励ましている。「朽ちることも汚れることも、消えていくこともない資産を受け継ぐようにと、あなたがたのために天にたくわえられている」(第一ペテロ1章4節)。「イエス・キリストの永遠の御国に入る恵みがある」(第二ペテロ1章11節)。「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と地を待ち望んでいる」(第二ペテロ3章14節)。こうした未来の約束を忘れて、私たちは今さえ良ければと、「今主義」になってしまうと、創世記25章にあるように、「あ~、お腹が空いて死にそうだ。長子という神の子の権利など今の私に何になろう。今、それを食べてお腹を満たしたいのだ」と言って、お茶碗一杯の食べ物と引き替えに尊い救いを失ったエサウのようになってしまう。彼はその後で泣いてもわめいてもどうにもならなかった。エサウの失敗は私たちを教えるための教材にされている。お茶碗一杯の食べ物と永遠のいのちの価値は比べものにならない。自戒したい。

さて、最後に、心を引き締めさせられるみことばを学んで終わろう。「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです」(30節)。キリスト者も良く口にする有名なみことばである。だが、よく意味を知らないで使っていることが多い。うさぎとかめの競争のように、途中気を抜くと、後ろから来た人に抜かれてしまう、だから、気を抜かないでまじめにがんばれ、ゴールまで気を抜くな、怠けるな、そういう意味に取っている人たちがいるが、この文脈では、そういうことが言われているのではない。イエスさまがここで危険視しているのは、怠けている人のことではなく、律法主義的なまじめな人のことで、自分は誰よりも人よりもがんばってきた、神さまのためにたくさんの良いことをやってきたと、自分を誇っている信者たちのことである。自分を先頭組にする彼らはビリに位置づけられてしまうということである。神は高ぶる者を退けるということである。高ぶりという視点からこのみことばを見てください。

このみことばは前後の文脈を良く見て判断することがものすごく大事である。先ず、前の文脈を見よう。イエスさまは27節の、弟子たちを代表するペテロの態度を強く意識している。自分たちの払ってきた犠牲の大きさを自負して、「私たちは何がいただけるのでしょうか」と、自分たちの功績、手柄を自慢して栄誉を勝ち取ろうとする精神を露呈している。犠牲をいっぱい払えば、報酬もいっぱいもらえると考えている弟子たち。自分の払った犠牲の大きさに応じて報酬がもらえると考えている弟子たち。彼らは自分たちは誰よりも犠牲を払ってきたから、報酬も他の人以上にもらえると期待していた。イエスさまはこの考えの間違いを正したい。もともとこの考えは金持ちの青年にもあった(16節)。彼は永遠のいのちという報酬は良いことをすればもらえると考えていた。功績を積み上げればもらえると考えていた。これは平均的なユダヤ人の考えで、弟子たちの考えもこれとどっこいどっこいだった。私たちも、これまでイエスさまのためにこれだけの犠牲を払ってきたのだから、他の人たち以上に報酬をいただいて当然だと主張しやすい。自分は誰よりもがんばってきた。何人も救ってきた。あの人たちを成長させてきた。教会ではたくさんの奉仕をしてきた。献金もたくさん献げてきた。だから当然、他の人以上に報いを得られるはずだ。このようにして、イエスさまのために払った犠牲を自分の功績にしてしまう。自分の手柄としてしまう。それに応じた報いを求める。功績主義、手柄信仰である。イエスさまのためにさせていただいたことを自分の手柄にしてしまった段階で、この人はあとの者にされてしまう。この人たちは後から救われてくる人たちを見て、自分はこの人たちよりも長くがんばり、払う犠牲も大きかったから、当然報いも大きいだろうと思い込んでしまう。そうなったらアウトである。あとの者とされてしまう。高ぶる者は退けられる。

実は、続く20章1~16節にある「ぶどう園で働く労務者」のたとえは、この30節の意味を弟子たちに良くわからせるためのものである。たとえの最後の16節では結論として、「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるのです」と言われている。このたとえでは、私たちは朝早くから誰よりもがんばってきたと、自分たちのがんばりを全面に主張する早朝組みの労務者が登場するが、この早朝組みが、先の者があとの者とされる事例なのである。次回、このたとえを詳しく、注意深く見よう。知っておかなければならないことは、真の信者というのは、イエスさまによって罪から救われ、雇っていただいた恵みを思い、純粋にすべてをイエスさまのためにする。イエスさまのために払った犠牲を自分の功績とは考えない。自分の功績をかせぐために何かをするということもない。それを自分の手柄とは考えない。真の信者は救っていただいた喜びから、キリストの恵みを思ってすべてをしていく(ザアカイがそうである)。いただく報酬も当然のものとは思わず、もったいない恵みとして受け取る。それが実は、先になる「あとの者」である。次のたとえでは、夕方に雇われる最終組の労務者が完全にそれである。彼らは恵みというものを完全に理解している。早朝組みのように手柄を自慢する信仰などこれっぽっちもない。ただ、落ちこぼれに対する恵みを思っている。私たちはクリスチャン生活を送っていくなかで、知らずと高ぶり、自分の功績を数え上げ、功績を自慢し、自分のがんばりと行いを、神にも人にもアピールするようになる。そのようにして、十字架の救いの恵みを色あせたものにする律法主義信者となる。それは警戒しよう。私たちは本来、地獄に行く値打ちしかない罪人である。あわれみで救っていただいたにすぎない。誇るものなど何もない。私たちは自分のしてきたことを事実として述べるのは良い。他の人たちにほめさせておくのは良い。しかし、それを自分の手柄としてしまったらおしまいである。見た目は誰よりもがんばってきたとしても、あとの者とされてしまうということである。私たちはキリストの恵みを恵みとし、すべてをキリストの恵みに帰し、子どものような低い心でキリストにお仕えしていきたい。天の御国は心の貧しい人たちにこそふさわしい。功績主義ではなく、恵み主義に生きなければならない。